プロローグ~デスクレイフィッシュを添えて~2
「このザリガニみたいなの、デスクレイフィッシュっていう魔物なんだよ。これで朝ごはん作ってよ!」
椛音はそう言いながら、デスクレイフィッシュの硬そうな殻を軽く叩く。すると、パンと小気味のいい音がした。
クレイフィッシュ……まんまザリガニだな。『デス』の部分が物騒ではあるが。
「浄化魔法はかけている。だから、泥汚れは取れているはずだ。臓物まで綺麗になっているかは保証できんがな」
アリリオ殿下に腕組みをしつつそう言われ、デスクレイフィッシュをしげしげと見る。たしかに、殻は綺麗になっているな。
ザリガニはフィンランドや中国ではよく食べられている。味は匂いに少し癖がある、海老という感じだ。前の世界にいた頃に中華料理店で食べた麻辣炒めはとても美味かった。食いでがないのがないのが難点だなと思っていたが、このサイズならそこは問題ないだろう。
──さて。ザリガニを食べる前には、ある程度の下準備が必要だ。
生きたまま水に浸けて数日絶食状態にして泥を抜き、歯ブラシなどで殻を隙間まで綺麗に洗って泥を落とす……という部分は、アリリオ殿下の浄化魔法で解決しているとして。問題は……。
「これで朝ごはんを作るのは、別にいいけど……。このサイズのザリガニの腸管をどうやって抜こうかな」
「ちょーかん?」
椛音が目を丸くしながら、首を傾げる。その後ろでアリリオ殿下も首を傾げていて、そんな二人の様子はなんだか可愛い。
「背ワタだよ。これが残ってると、臭いし腹を壊すかもしれない」
「ふむ。剣を使って取り除けるかな」
俺の言葉を聞いた椛音は、腰の剣を抜き放つ。すると、アリリオ殿下が苦い顔をした。
「カノン。聖剣で背ワタを取るつもりか?」
「いいじゃん、別に。減るもんじゃないんだから」
「減る減らないの問題ではなくてな。神聖な聖剣を調理に使うなどな……!」
椛音とアリリオ殿下は、目の前で言い合いをはじめる。そんな二人の様子を目にして、俺は苦笑いをした。
「……剣でほじくるよりも、もっといい方法があるよ。尻尾の真ん中あたりを引っ張るとつるんと抜ける」
……ふつうのサイズのザリガニの場合は、だが。
サイズが変わろうと、取り回しはそう変わらないだろう。
「じゃ、私が抜く!」
椛音はそう言うと、ザリガニの尻尾の方へと走っていく。
この世界に来て『勇者』になってから、ごくふつうの女子高生だった椛音にはいろいろな力が備わった。
人間とは思えない馬鹿力も、そのひとつである。
「叔父さん、アリリオ。腸管を抜きやすいように、本体部分をしっかり押さえててね」
「ええ……。きちんと、押さえられるかな」
「面倒な。僕は肉体労働は苦手なのだが」
俺と殿下が同時につぶやけば、椛音は俺たちを睨めつける。
「だって押さえておかないと、尻尾を持ってザリガニを引きずり回すだけになっちゃうよ」
「それもそうだな。殿下、しっかり押さえましょう」
「……む」
殿下は不服そうな顔をしていたが、渋々という様子でデスクレイフィッシュの頭の方へと回る。俺もそちらの方へ行き、殻の隙間に手を入れた。こうすれば、安定した状態で椛音との綱引きができそうだ。
「……肉体強化」
アリリオ殿下がなにかをぼそりとつぶやくと、俺と殿下の体が光る。そして明確に体に力が漲るのがわかった。どうやら、強化魔法をかけてくれたらしい。
「ありがとうございます、殿下」
「ふん」
お礼を言えば、殿下は頬を赤らめながら小さく鼻を鳴らす。この方、割とツンデレなんだよなぁ。
「礼などいらん。こうでもしないと、椛音との引っ張り合いに耐えられるはずがないからな。俺たちごと引き回されてしまうのが、関の山だ」
「……たしかに」
アリリオ殿下の言葉に、俺は心の底から納得した。椛音の膂力の前では、俺たちは無力だ。男二人がザリガニごと振り回される様が、容易に想像できる。
「じゃあ、引っ張るよ~!」
椛音がそう言いながら、こちらに向けてぶんぶんと両手を振った。
「カノン、お手柔らかにな!」
「椛音、引っ張るのは尻尾の真ん中あたりだぞ!」
「りょーかい!」
元気よく言葉を発してから、椛音がデスクレイフィッシュの尻尾を引っ張る。強い負荷が体にかかり引きずられそうになるけれど、アリリオ殿下の強化魔法のおかげでなんとか耐えられる。隣を見ると、必死の形相の殿下がデスクレイフィッシュにしがみついていた。俺もインドア系だが……殿下はさらにもやしっ子だからな。
「ふんぬっ!」
椛音が女の子らしくない声を上げた瞬間。デスクレイフィッシュの腸管が、ずるりと本体から抜けた。
「あっ!」
そして、椛音の手からすっぽ抜けてどこかへ飛んでいく。というか、店の方へと飛んでないか!?
アリリオ殿下が、慌てた様子で両手を前に突き出す。
「風よ!」
一瞬にして風の結界が店に張り巡らされ、腸管の飛来から守ってくれた……のだが。
結界に弾かれた腸管はびちゃりと音を立てて地面に叩きつけられ、綺麗とは言えないその内容物がその場に散った。
それを目にして、俺たちは固まってしまう。
……開店準備の最中なのに、なんて惨状だ。
「……椛音」
「わ、私悪くないよ!」
「椛音がしっかり掴んでなかったからだろう? お掃除しないとご飯はお預け!」
「ええ~! 理不尽!」
俺の言葉を聞いて、椛音は頬を膨らませる。そして、アリリオ殿下に視線をやった。
「アリリオ、手伝ってよ」
「な、なんで僕が」
「アリリオが上手に結界を張ってくれなかったからじゃん」
「いや。カノンが手を放したのが悪いだろう!」
「ぱぱっと浄化魔法でやっちゃってよ」
「いや、転移魔法を使ったり強化魔法を張ったり結界を張ったりで僕は疲れて……」
「お願い!」
椛音は、胸の前で両手を合わせながら上目遣いでアリリオ殿下を見つめる。すると、彼の頬が真っ赤に染まった。
「……わかった」
そして、彼の口からは了承の言葉が零れる。
……惚れた弱みというのも、大変そうだな。
「俺は片づけてくれるなら、どっちがやってもいいよ」
そう言いながら、腸管が抜けたデスクレイフィッシュに歩を進める。そして、そのつるりとした殻に触れた。
「さて。こいつでなにを作ろうかな」
天ぷら、かき揚げ、エビチリもどき……卵と一緒に炒めるのもいいかもしれない。
新しい食材を見ると、胸が湧き立つ。
──これが、この世界に来た異世界人である俺の今の日常だ。