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8.危険地帯の見分けかた


「なにしてるの!?」


 自分を斬りつけるなど正気の沙汰ではない。顔を青くしながら駆け寄るエステルを、しかし男は唇に指を当てて静かにするように制した。


 直後、ゆらりとウィリアムの指の傷口から赤いもやが立ち昇る。宙空にたゆたうもやはやがて薄れ、銀色に輝く繊維のように穂先を広げた。()われた糸がほどけていくように、輝きを振りまきながら溶けていく。


 キラキラとまたたく光がやがて完全に消えたころ、エステルはやっと息をすることを思い出したように呻いた。


「これが魔法? どうして血の赤いもやが銀色に? いいえ、それより魔法はどうなったの? 結局、消えてしまったみたいだけど」


「頼むから質問はひとつずつにしてくれ。俺の口はひとつしかないんでね」


 ウィリアムの手をとって、エステルは食い入るように傷口を見つめた。すでに光の霧散した彼の怪我は、赤い線にぷくりと小さな紅玉を浮かべているだけだ。


 やんわりと手をほどいた男は、ポケットから取り出したハンカチで自分の指と短剣の刃を拭うと、意外にもエステルの疑問ひとつひとつへていねいに答えた。


「もやの色が変わったのは、個々人がもつ魔法の『質』だ。上質とか粗悪とか、そういうものじゃなく……言ってみれば指紋と同質のたぐいだな。指紋と違う点は、人によって稀に同じ色・波長のものがあるということくらいか」


「じゃあ、わたしが魔法を使ったら違う色になるということね」


「恐らくな。……で、魔法がどうなったかという疑問についてだが」


 ひとつ頷くと、彼は吹雪の部屋のドアノブに手を伸ばす。指先がノブに触れようとした瞬間、乾いた破裂音が響いて火花を上げた。


 エステルが小さな悲鳴を上げて肩を跳ねさせる。驚く少女とは対照的に、青年はそうなることがわかっていたように肩を竦めて少女へ振り返った。


「この通り。魔法は成功だ」


「成功したの? これで?」


「さっき魔法を使ったとき、俺は『部屋に入る者を惑わす魔法が掛かっていれば示すように』と念じてドアノブに魔法をかけた。結果がこれだ。扉は俺を拒絶して、危険な魔法が掛かっていることを示した」


「そういうことだったのね」


 ウィリアムは「ああ」と相づちをうって、書斎の本から得たという知識をエステルへ語り聞かせた。


 遥か昔、大魔法使いの居た時代。世界には魔法が溢れていた。それは目に見えないが、普段吸い込む空気に溶けて、常に人々の肌身に触れていた。


 魔法は酸素と同じだけ、生きとし生けるものにとって身近な存在だった。


 もちろん、願えばなんでも叶うわけではない。それだけを心に強く焼き付けて、そう成るように願う強い集中力と精神力が必要だった。物事の(ことわり)を変えるということは、それだけの強い意志がなければ叶わないのだ。


 それはある種の祈りのようなものだった。


「この城は不思議な力に満ちているから、外と違って魔法が使えるのね。……まるで世界から失われた魔法という力のすべてを、ここに閉じ込めたみたい」


「あるいは、そのとおりかもな」


「――まさか」


 そんなはずがないじゃない、とは、エステルも、もう口にできなかった。ここは「あり得ないことがあり得ない」場所だ。


 それに、この冗談じみた考えが真実であれば、世界から魔法が消えたことの説明にもなる。


 世界に漂っていた魔法をひとところに集め、この城の中に封じ込めた。理由はわからないが、そうせざるをえない何かがあったのだろう。


「……魔法って、もっと呪文を口ずさんだり、特別な杖を振ってかける奇跡のようなものだと思ってたわ」


「魔法に呪文なんかないさ。魔法を使うのに必要なのは、揺らがない意思と願い。それだけだ。血はそれを具現化するための手段にすぎない」


「それは――どうしても血じゃないと駄目なの?」


「いいや。本には体液であればいいと。血や唾液、涙、それから……まぁ、そういったものだ。これを空気に溶ける魔法へじかに触れ合わせることで、時間をかけずに手っ取り早く形にすることができるようだ」


 血は涙や唾液と違って、流す量の調整がききやすい。ゆえに、いにしえの魔法使いたちは、よく魔法を使う際に自身の血液を用いた。


 魔法に触れ合わせる体液の量が多ければ多いほど、魔法はより強く、大きくなるそうだ。いまのように“見えないものを可視化する”程度なら、ほんの指先一滴の血で構わないが、ことに他人の魔法を解いたり、生き物そのものへ魔法で干渉しようと思えば、多量の体液が必要になるということだった。


 ――あるいは、何ヶ月も、何年も、何十年もそれだけを考えられるほどの、強い意志と願いが。


「だから、魔法で人の病や怪我は簡単に治せない。人ひとりの命を(あがな)おうと思えば、別の人ひとり分の命が必要になるからな。くれぐれもできる限り無用な怪我はするなよ」


 ウィリアムはそう締めくくると、ちらとエステルの右手に視線を向けた。指に巻きつけた不格好なハンカチを、無言で責められているようだった。


「重々、心に留めておくわ」


「そうしてくれると助かる。とにかく、危険だと思ったら危機を見分ける魔法を使え。城にかけられた魔法は解けなくても、いくつかの危険を事前に回避することはできる」


「でも、ナイフも短剣も持ってないわよ」


「確か寝室の向かいの作業場にペンナイフがあったな。後で探しておくよ。護身用に持っておいたほうがいい」


 ペンナイフとは言え、刃物を持ち歩くことに抵抗はあった。けれどまず、何よりも無事に生き残ることが重要な今、好き嫌いで物事を判断している場合ではない。


 エステルは遠慮がちに頷くと、ウィリアムに連れられてドローイングルームへ向かった。


 明るい水色を基調とした歓談部屋で、ふたりはこれからのいくつかのことについて話し合った。


 毎日、起きたら互いの無事を確認するために部屋をノックすること。その際、その日なにをするかを簡単に報告しておくこと。


 互いの活動時間は好きに使うこと。城の中を探索しても良いし、書斎やその他の部屋で城を出るのに役立ちそうな情報を探すのでも良い。


 ただし、未踏の部屋や魔法のかかった部屋に足を踏み入れる際は、これも必ず互いへ知らせること。


 ひとりで細い入り組んだ廊下を歩く際は、ロープを使って帰るための道順を確保しておくことも教えられた。


「どうしても必要な時は俺を呼べばいい。異空間に繫がるドアの中じゃなければ、ある程度はついて行くから」


「そんな危険、わたしだって(おか)すつもりはないわ。でも……そうね、一度どんな部屋があるか、迷宮の部屋のすべての扉を確認するくらいは付き合ってもらってもいい? せめて、妹が居ないかだけでも確かめたいの」


 あのような――目の前で怪物に連れて行かれたなどという話を聞いた上で、たとえ部屋を覗くだけでも、ひとりで扉を開けて回るのは気が進まなかった。


 かといって、昨日はすべての部屋を確認したわけでもない。


「それは()()()の主目的じゃない。……と言っても、あんたは聞かないんだろうな」


 やれやれと言いたげに、ウィリアムは諦めのポーズで両手を挙げた。エステルは無言でにこりと笑って、彼の想像を肯定する。


「どうせ今日は城の案内に一日を割く予定だったし、まぁいいか。少し休憩を挟んでから、扉の中身を検めるだけ検めてみよう」


「ありがとう。あなた、思ったよりも優しいのね」


「優しさじゃないさ。ついていかなきゃ、ステラはひとりでも行くつもりだろう? もし不慮の事故で異空間にでも転がり込まれた日には寝覚めが悪い。二日目にして相棒を失う最短記録はこっちも望むところじゃないからな」


 彼はそう言うと、お茶ひとつ配されていない席を立った。


「そういえば、ずいぶん時間が経ってるな。そろそろ何か口に入れるものを――」


 その時、まるでウィリアムの言葉に反応したかのように、きゅう、とエステルの腹が情けない鳴き声を上げた。


「――!!」


 一度鳴りだすと自分では止められないもので、止まったかと思えばすぐにくるるとみぞおちの辺りが大合唱をはじめる。


 思い返せばきのうの昼以降、何も口にしていない。もう半日以上……ことによればまる一日、食べ物はおろか水の一滴も飲んでいないのだから、エステルの腹はよく堪えた方だろう。


 顔を真っ赤にしながら男を見上げると、ウィリアムは目を丸くして口元を手で覆った。それでも抑えられなかった笑いが口の端から漏れて、気まずそうに顔を背ける。


「ははっ。……いやよせ、悪かった、拗ねるなって。腹が減るのは良いことだ。自覚しないまま倒れるよか、よっぽど良い」


「……食事はどうしてるの?」


「食料といったら、そうだな……、あそこか。おいで」


 手招きして、ウィリアムはドローイングルームを出ると近くのダイニングへ足を向けた。ところが、先ほど案内してくれたその部屋を素通りして、キッチンの方へ歩いていく。


「キッチンに何かあるの?」


「いや。『永遠に食べ続ける悪夢の間』からくすねて来る」


「『永遠に食べ続ける悪夢の間』? ……一見飢えなくて助かりそうだけど、“悪夢”だなんてなんだか不穏ね」


「不穏な部屋だからそう名付けた。ゾッとしないぜ。ま、開いてみてのお楽しみってな」


 キッチンも通り越したところで、彼は他の扉よりも少しばかり古びた扉の前で足を止めた。


 ゾッとしないと言いながら、躊躇なく開かれた扉の向こうの光景を見て――エステルは絶句した。


 パン、パン、パンだらけ。


 元は種類分けのために配されていたであろう棚も、ジャムらしき瓶の並ぶ飾り棚も、何も置かれていない壁一面も、恐らくそこでパンを切り分けていただろうテーブルの上も。


 目にするところ全て、パンが無造作に積み上げられていて、足の踏み場と言えば地下に向かう階段のある、扉がわの壁一帯だけだ。


 文字通り、部屋がパンで埋まっていた。


「ここは……パンの貯蔵庫(パントリー)?」


「そ。壮観だろ。どういうわけだか日に一定量増えるパンは、消費しなければ増え続けて、今やこの有り様というわけだ」


「こんなにパンが溢れているのに、腐らないの?」


「部屋自体に防腐の魔法でも掛けられてるんだろうな。食べてもどこからか補充されるし、食べなきゃどんどん増えていく」


「食べ続けないと、いずれあふれて扉が壊される……だから、『永遠に食べ続ける悪夢の間』なのね。あなたが命名したの?」


「そういうこと。さて、このパンは一体どこから湧いて出てるのかねぇ」


 ゾッとしないだろ? と渋い顔で話を振られて、エステルも思わず無言で頷いた。飢えないことは助かるが、自分はいったい何を口にしているのだろうと考えだすと、背筋に冷たい震えが走る。


 ここにパンが増える分、世界のどこかで消えているだけならばまだ良いだろう。けれど、未知の力で増えたものが、人の世界から勝手に補充されているとは限らない。


 迷宮の部屋には、次元のねじれた扉が数多(あまた)あるのだ。この魔法もそれと似たたぐいのものでない保証はなかった。死後の世界のものを食べて人の世に戻れなくなった者の神話など、いくらでもある。


(それでも、今日の飢えをしのぐために食べるしかないのよね)


 カビが生えないと知れただけでも幸運だ。床に落ちているものを口にする勇気はさすがにないが、エステルはテーブルの上に積み上がったひしゃげた丸パンをひとつ手にして、ジャムの並ぶ棚のすみに肩身狭く押し込まれていた茶葉の缶を取った。


「この階段はどこに繋がっているの?」


 パントリー内から伸びる、地下への階段をさして尋ねる。


「下には肉の貯蔵庫(ラーダー)酒の貯蔵庫(バットリー)がある。どんな有り様かはお察しだろう? それとも、そっちも覗いておくか?」


「ううん、今はこれで充分よ」


「じゃあ、腹ごしらえしたら“大魔法使いの絵画”前に集合だ」


「あなたは食べないの?」


「食べながら、ちょっとやることがあるんでね」


 そう言い残して、ウィリアムは手近な棚の上にあったスコーンをひとつ手に取った。ひらひらと手を振って部屋を出ていく彼を見送り、エステルもダイニングへと引き揚げる。


 キッチンで沸かした湯で淹れた紅茶が、家で飲んでいたものよりも美味しくて、エステルは複雑な気持ちになった。


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