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7.安全地帯の歩きかた


 窓のない部屋は、壁にともされた明かりが無ければ視界の効かない闇となる。四方八方を迫り寄せる晦冥(かいめい)に囲われれば、右も左も、自分が立っている場所もわからない。


 己の手すら見えない暗闇の中で、エステルは道を見失っていた。進むべき道。あるいは戻ることのできる道を。


 どこに行けば良いのか迷って、それでもがむしゃらに足だけは動かさなければと前へ進む。しかし、この暗闇の中では自分が本当に前へ進んでいるのかもわからなかった。


 もしかすると、同じ場所でずっと足踏みをしているのかもしれないし、ぐるぐると同じ場所を回っているのかもしれない。――いいえ、そもそも、わたしはどこから入ってきたのだった?


 振り返って、効かない視界で確かめようとした。


「お姉ちゃん!」


 ふいに、誰も居ないように見える場所でエステルを呼ぶ声が聞こえた。彼女を姉と呼ぶのはこの世界でひとりきり。


「クラリス? そこに居るの!?」


「こっちよ!」


 いつもどこか退屈そうで、けれど退屈なりにいまを力いっぱい楽しもうとする妹の声が響く。たまらずエステルは、声のする方へ駆け出した。


 前へ進めば右から聞こえる。右へ曲がれば後ろから。そのように何度か聞こえた声の方へ向かううちに、エステルはとうとう、自分がどこに居たのかもわからなくなってしまった。


「お姉ちゃん、お願い、早く助けに来て!」


「どこに居るの!? クラリス!」


「ううん、ダメよ! こっちに来ないで! ここはとても危ないんだから! 特に、お姉ちゃんには」


「だからこそ一緒にこの城から逃げなくちゃ! ねぇ、そうでしょう? クラリー!」


「でもお姉ちゃん、」


 四方八方から聞こえていたクラリスの声が、急に頭の中で反響するように弾けた。ずきりと痛んだこめかみを押さえようとしたが、エステルの手は動かない。何かが手にまとわりついているのだ。


 訝しんで目を凝らすと、手元でぼんやりと光るものがあった。それは白い手だった。クラリスのお気に入りの、小花のプリント柄の袖に包まれた細い手。


「クラ……」


 クラリスの名を呼ぼうとして、ぐっと動きを遮られる。もう片方の手にも、白い手が絡んでいた。見覚えのある母のドレスの袖だけれど、その指は間違いなくクラリスのものだ。


 今日も、昨日も、一昨日も、まいにち親の顔より見てきたからわかる。


 両脇から妹の手が、少女にあり得ざる力でエステルを拘束していた。握られた手が鋭い痛みを覚える。ギチギチと手のひらに食込む爪が、妹の髪のように赤く染まる。


 恐怖が襲った。それでも、妹の手を振り払うことはできなかった。どうにか振り返って彼女の顔を窺おうとしたとき、両耳元でくぐもったクラリスの声がこう囁いた。




「どちらかひとりしか出られなかったらどうするの?」




 * * *




「――っは、!」


 荒い呼吸を吐き出して、エステルはベッドから飛び起きた。見覚えのない小さな天蓋。紅い天鵞絨(ビロード)に金糸の縁取りと房飾りのついた天幕は、室内にともったままの明かりを遮断してくれている。


 長いあいだ人が使っていないにしては、かび臭さを感じないシーツと毛布。干したてのようなふかふかの枕。人がふたりくらいはゆったりと眠れそうな、仮初めの新たな聖域。


 エステルは降りた幕を掻き分けて、辺りを見回した。室内は昨夜エステルが見たときのまま、寸分たがわずにエステルの目覚めを待っていた。


「……嫌な夢だわ」


 ほどいた髪を無造作に掻き回して、少女は声低く独りごちた。昨夜、部屋に案内されてすぐにベッドにもぐりこんだエステルは、一日の疲れと精神的な負荷がのしかかって、いくらもしない内に寝入ってしまったようだ。


 右手を見れば、昨日切った指の傷が開いていた。寝ているあいだに無意識に手を握り込んだせいで、閉じかけていた傷に障ったようだ。このせいで、夢の中で手の痛みを感じたのだろう。


 あんな悪夢を見たのも、疲れと不安と心配が一気に吹きだしたせいに違いない。


(……帰る時はふたり一緒よ)


 あるいは、妹だけでも――。自らを犠牲にすることにためらいはあっても、クラリスを置いて自分だけ助かる道はなかった。


(クラリーの身に何もないといいけれど)


 思わずため息をこぼして、エステルは室内を見回した。


 窓もなく、日が差さない部屋は廊下と同様にオレンジ色の燭台の明かりで照らされているが、薄闇をまとっているせいで時間の感覚が曖昧だ。


 生家の部屋よりも多少広いが、城の一室にしてはさほど広くもない部屋。ベッドと机と応接セット、それからドレッサーとクローゼットの置かれた標準的な寝室だった。


 全体的に暖色で纏められていて、燭台の照明にもよく馴染む。不思議と掃除が行き届いているのは、隣の部屋の青年がこまごま手を入れているのか、あるいはこれも城にかかった魔法のひとつなのか。


 燭台の炎は寝ているあいだ中燃えていたようで、それなのにロウソクの長さはまったく変わっていないように見えた。


(これも魔法?)


 あれもこれもそれも、少しおかしなところを見つけると、すべてが魔法に見えてしまう。


「魔法視症候群、とでも名付けるべきかしら。……駄目ね、そんな場合じゃないのはわかってるのに」


 元来、クラリスほど無鉄砲ではないだけで、エステルも決して好奇心が弱いわけではない。幼い頃に夢見たものが現実のものとして目の前にあるというのに、心動かされないでいるのは難しかった。


 エステルは興味や雑念を追い払うように、持っていたハンカチを指の傷に巻き付けた。ソファにかけておいた自分のドレスを着直して、ドレッサーの前でほどいていた髪を結いなおす。


 ひとりで着られるように、前留めの突起へ引っ掛けるタイプのコルセットを着用していてよかった。そうでなければウィリアムの手を借りなければならないところだったから。


 彼のことをちら、と思考の端に乗せたとたん、軽いノックの音が聞こえた。


「ステラ、起きてるか」


「ええ、いま支度が終わったところよ」


 噂をすればなんとやら。目を丸くしながら、少女は返事の後に内鍵をはずして扉を開く。ウィリアムは腕組みをして、大人しく廊下に立っていた。


 白いシャツに、濃紺のベストと長ズボンのいでたち。リボンタイもクラヴァットも結んでいない襟元は、だらしなくボタンがふたつ開いている。護身用だろうか、腰には銀縁金具の革のシース(さや)に収められた細身の短剣がベルトで留められていた。


「そりゃよかった。ひとまず先に、城内で俺が調べた安全な部屋を案内しようと……、ん」


「どうかした?」


「頭のリボンが曲がってる」


「うそ!?」


 三つ編みをして作ったシニヨンを、リボン一本で結ったのだ。ある程度ひとりで結えるように練習していたとは言え、つい最近まで女中の手を借りて髪を結っていたのだから、リボンのひとつも歪もうというもの。


 後ろ手に首元のリボンを引っ張ろうとしたエステルの手を制して、ウィリアムは彼女を後ろ向かせると「髪、押さえてろよ」とだけ告げて手早くリボンを結びなおした。


 エステルが疑問を差し挟む暇もなく整えられた髪は、自分で結うよりしっかりと留まって安定感がある。


「あ、ありがとう……ございます」


「どういたしまして」


 結果的に、男性に身支度を手伝ってもらった負い目と羞恥心から、礼の言葉は尻すぼみになった。


 すごすごと扉を閉めるエステルに、ウィリアムは笑いをこらえた声で問いかけた。


「あんた、いいトコのお嬢さんだろ。少なくとも労働者階級じゃあない」


「どうしてそう思うの?」


「言葉づかいが綺麗で、鈍くさい」


「褒めるか(けな)すかどっちかにして」


「ははっ。ま、そうふて腐れるなよ。ふたりきりの貴重な仲間だ。仲良くやろうぜ」


 唇をへの字に曲げて物申した少女へ、彼はとうとう吹きだして鏡の通路へと促した。仲良くと言う割には、彼は端々で彼女をからかうようなことを言う。


 きっとこのような場所でひとりきり、退屈していた(うさ)()らしだろう。そうはわかっていても、舐められないように多少の意趣返しはしておきたいものだ。


 彼の言葉を借りるならば、エステルはあくまで相棒であって、彼の部下ではないのだから。


「ふたりきりじゃないわ。きっとこの城のどこかに、わたしの妹も居るんだから」


 暗に、「妹を探すことも忘れないで」と釘を刺す。彼が止めそこねたこれまでの“漂着者”たちのように、クラリスがむざむざ怪物の餌になるのを黙って見ているわけにはいかない。


 これだけは揺るがない意思を込めて見返すと、ウィリアムは目を(みは)って感心したように鼻を鳴らした。


「なるほど、確かにそうだったな。これは一本取られた。……クラリス、だったか? そういえば、その妹の特徴も聞いてなかった」


「妹は癖のある赤毛に緑の瞳をしているの。姿を消した時は、小花柄のプリントドレスを着ていたわ。歳は十四になるころよ」


「ふぅん。見た目はあまり似てないんだな。あんたの瞳は琥珀色だろ」


「よく言われるわ。わたしは父似で、妹は母似なの」


「そうか、気がけておくよ。迷宮の部屋以外にも、この城には仕掛けや隠し通路がたくさんあるようだからな。ここみたいに」


 コン、ココン、と仄暗い廊下を映す鏡を叩いて、彼は言った。昨日、この通路に入って来たときと同じように、鏡面が波打ってぐにゃりと歪む。映し出されたアクロポリス色の廊下は、照明の暖色に染められてアプリコットの陽気な影を落としていた。


 通路を通り抜けたあとで、元の鏡面に戻った鏡をコンコン、と叩く。けれど彼がして見せたように、鏡が隠し通路を映すことはなかった。


「どうして……? 誰にでも、条件を満たせば開けるんじゃなかったの?」


「リズムが違うからだよ。一回と二回、計三回のノックで、この鏡は道を開く。隠し通路は一定時間姿を見せるが、時間が過ぎれば元の鏡に戻るんだ」


「そうだったのね」


「ステラもしっかり覚えておいてくれよ。今はこうして俺が付き添ってるが、そのうちひとりで行動することも増えるはずだ」


「わかったわ」


 エステルの返事を聞くと、ウィリアムは満足したようにひとつ頷いた。それから「そろそろ案内に戻るぞ。こっちだ」と少女を先導した。


 現状、彼が見つけた安全そうな部屋は、そのほとんどがエントランスフロアから両脇に伸びる通路に繋がっていた。


 城の全体像ははっきり把握できていないが、廊下は次元のねじれた迷宮の部屋を中心に、ロの字型に巡らされている。回廊の造りだ。その道々で中央に向かって細い廊下がいくつも張り巡らされ、枝葉のように様々な部屋へ伸びているようだ。


 エントランスフロアを仮に南と位置づけて、南西に個室へ繫がる鏡の通路、南東にダイニングと歓談部屋(ドローイングルーム)のひとつ、それから東に広々としたキッチンがあった。


 北側の二階には書斎があり、蔵書はその多くが古いものばかりだ。中には古語で書かれているものもあるし、比較的新しいものでも何十年か前にはやったようなタイトルが並んでいた。


 既にウィリアムが探し尽くした後だろうが、書物は何かの手がかりになるかもしれない。エステルは書斎の場所だけは忘れないようにと、しっかりと扉の場所を覚えた。


「普通に見える部屋は比較的安全だと言ったが、扉の中には、開いた瞬間にあきらかな異常のわかるものもあれば、パッと見そうは見えないものもあるかもしれない」


「そんな時はどうするの?」


「魔法は魔法で看破する」


「え? 魔法で?」


 彼がこともなげに言うので、エステルは一瞬、何を言われたかわからずオウム返しに聞き返した。


「だけどわたし、魔法なんて使えないわ」


「使えるさ。魔法は本来、誰にだって使えるものだと書斎の本にも書いてあった。だから俺にも、見様見真似(みようみまね)だが簡単なものは使える」


「確かにあの書斎には、歴史学者も喉から手が出るほど欲しがるような年代物の本がたくさんあったけれど……魔法に関する本なんてこの時代に残ってたら、それこそ世界がひっくり返る大発見よ」


「だったら、脱出するときにはその辺の本も持ち出さないとな。あとでどの棚にあったか教えるよ。まずは魔法で危険な部屋を見破る方法からだ。とりあえず迷宮の部屋へ移動しよう」


 言うが早いか身をひるがえすウィリアムについて、ふたりは一階へと足早に戻った。大きな主要回廊を一周するだけでもそれなりの時間がかかる。城中の扉をひとつひとつ開けて検めるだけでも、一体何日かかることか。


(それを彼は、ほとんどひとりでこなしてきたのね)


 ときにはエステルのような漂着者と共に。それもどれだけ一緒に居たのかはわからないが、案内や部屋の割り振りのそつのなさを見るに、これも“慣れたこと”なのだろうと容易に察せられた。


 迷宮の部屋に足を踏み入れたウィリアムは、昨日エステルが最初に開いた吹雪の部屋の扉を叩いた。


「基本的に、自分より強い者のかけた魔法は解くことができない。自分と同等か、あるいは自分よりも弱い者の魔法だけだ」


「それはそうよね。腕力だって、自分より強い人にはそうそう勝てるものじゃないもの」


「そういうこと。だが、魔法を施す対象と条件を緩和することで、魔法を事前に回避することはできる。見てな」


 そう言うと、青年は腰に差していた短剣を抜いて自分の指に滑らせた。


昨日は諸事情で更新できませんで申し訳ございません。

ストック作りに勤しんでおりますので、これから筆者の夏季休暇が終了するまでは毎日更新を目指す所存です。


少しでもお楽しみ頂けましたら、いいねや評価やブックマークをポチッと頂けましたら幸いです(*ᴗˬᴗ)

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