6.世界から失われたはずの魔法
――ひとまず今夜は安全な部屋で休もう。案内するから。
そう言って、ウィリアムはエステルを先導するために階段を降りた。大魔法使いラスターの絵を向かって右に曲がり、エントランスフロアから左右に伸びる廊下の片方を進む。
エントランスから見た時はまっすぐ伸びているように見えた廊下だが、ひとたび足を踏み入れると、至るところに曲がり道が潜んでいた。
等間隔でならぶ燭台の脇。扉と扉のあいだ。通り過ぎざまに覗き込んだ細い曲がり角の奥には、人ひとりがやっと上れる階段が伸びている場所もあった。
見れば見るほど、城全体がひとつの迷宮のようだ。一度迷ったら戻ってこられないのは、あの無秩序な広間だけではないな、とエステルは苦虫を噛み潰したような顔でウィリアムの背中を追った。
こんなところではぐれたら、嫌な想像がそれこそ現実となってしまう。
「聞いても良い?」
ふたり分の足音だけが響く無言の時間にいたたまれなさを感じて、エステルはそう切り出した。青年はちらと肩越しに彼女を一瞥すると、「内容によるかな。答えられる範囲のことは何でも答えるよ」とおどけたように肩を竦める。
一応、彼女からの詮索を拒むつもりはないらしい。
「……あなたはどれくらいの間ここに囚われてるの?」
「どれくらいだと思う?」
「短くはなさそうだし、一年くらい、とか」
ふんふん、とウィリアムは曖昧に鼻を鳴らした。声の調子は楽しんでいるふうだが、どうやら正解ではなさそうだ。
「じゃあ五年? それとも十年? ……まさか二十年以上なんてことはないわよね」
「どうしてそう思う?」
「だってそれくらいの歳に見えるもの。二十歳をいくつかすぎたくらいに見えるわ」
「じゃあそのくらいなんだろう」
彼の返答は、まるで雲か霞を掴むようだった。のらりくらりと煙に巻かれて実体がない。さきほどエステルを相棒だと言ったときの、夜霧を思わせる眼差しを思い出した。
「自分のことなのにずいぶんと無頓着なのね」
「あんまり長くここに居るもんでね。時間感覚もたいがい曖昧になるんだ。あんたもそのうち、嫌でもわかるさ」
わかるようにはなりたくないわね、と口をついて出そうになった言葉は、理性と共に多少戻ってきた良識で賢明にも飲み込んだ。彼だって、好きでそれほどに長い時間をここで過ごしているわけではないのだ。
(せめてわたしはそうならない内に、脱出する手立てとクラリーを見つけないと)
それを何食わぬ顔で口にできるようになるまで、彼はどれほどの夜を越えたのだろう。明日は我が身と恐れる気持ちと、ウィリアムへの微かな胸の痛みを感じたところで、
「……あれ」
ふと、エステルは引っかかるものを感じて足を止めた。窓のない壁を見渡して、これまで歩いてきた廊下を振り返る。
「どうした?」エステルの様子に気づいたウィリアムが尋ねた。
「あなたさっき、『今夜は安全な部屋で休もう』って言ったわよね」
「言ったな。それが?」
「どうして今が夜だってわかるの? だって、この城は窓のひとつもないんでしょう?」
「あぁ、そういうことか」
合点がいった様子で頷いて、ウィリアムも足を止める。彼は同じように振り返って、すっと来た道を指さした。
「大階段のあった、エントランスフロアらしき空間があっただろ。あそこに掛かってた大きな絵、覚えてるか?」
「ええ。大魔法使いと“邪悪なる者たち”の戦いを描いた絵ね」
「そうだ。あの絵は時間経過と共に背景が変わるんだ。これは外に出られない以上、答え合わせができないから、単なる俺の推測になるんだが……今この城に流れている時間を表してるんじゃないかと思ってる」
もっとも、俺は夕闇と夜の背景しか見たことがないけどな、と続けられた言葉に、エステルは眉を寄せた。
「絵が勝手に変わるなんて、そんなこと」
「“ありえない”なんて言えない場所だってことは、既にあんたもよく知ってるはずだろ。ここではいつ、何が起こるかわからない」
「そうだとしても、朝にも昼にもならないのなら、やっぱり実際の時間とは関係ないんじゃないかしら」
「一向に出口が見つからなくて暇だったんでね。いちど徹夜して、部屋にあった砂時計で時間を計ってみたことがあるんだ。
夕闇から夜に移り変わるまでの時間と、それから再び背景が夕闇に変わりはじめる時間を計ったら、合わせておよそ丸一日で色変化が一周しているらしいことがわかった」
あまりに長くここに居る、と言ったのは伊達ではないようだ。そのような検証を戯れにするしかないほど、出口への情報は乏しく、持て余すほどの時間を過ごしてきたらしい。
「階段下の迷宮の部屋と言い、まるで魔法みたいね」
驚きに呆けた声が出た。そんなエステルを気にしたふうもなく、
「みたいじゃない。魔法なんだよ」
ウィリアムはなんということもないとばかりにそれを肯定した。
再び歩き出した青年とは対照的に、少女はその場で固まった。彼にもたらされた言葉を頭が処理できずに、まばたきばかりを繰り返す。
足音がひとつ遠ざかり、彼の背中が蛍燭の明かりの届かない闇の向こうに埋もれかけて、エステルは置いて行かれないよう慌てて足を進めた。
「そんなはずないわ。だって魔法は、もう何千年も前に失われたはずだもの!」
「ところがどっこい、こうして確かに存在する。少なくとも、この城の中にはな」
そう告げると、ウィリアムはしばらく歩いて突き当りの壁に掛かっている、大きな鏡を指し示した。金縁の装飾に赤い宝石が散りばめられた大きな鏡は、見たところなんの変哲もない。
「いったいこの鏡のどこが魔法だって……」
エステルが困惑の様相で言いかけた言葉を遮って、男は鏡を扉のようにノックした。
コン、ココン。こもったノック音が三度ひびく。その直後、鏡は映していたふたりの姿をぐにゃりと歪めて、鏡面に奥へ続く廊下を映し出した。そこにふたりの姿は映っていない。それどころか、廊下の内装さえ別物のように見える。
アクロポリス色の壁は、チェスナットブラウンの融通の効かないダマスク柄に様変わりしていた。まるで几帳面な女家庭教師のドレスのようだ。
声もなく驚いたエステルは、ウィリアムを見上げて凝視した。ここまでにも城内でさんざん魔法じみたものを見てきたが、これこそは目の前であるべき姿を変えた、正真正銘の魔法だった。
「あなた、魔法使いだったの?」
「いいや。今のは仕掛けを動かしただけだ。掛けられた魔法に織り込まれた通りの手順を踏めば、誰でも――魔法を掛けた本人でなくとも――作動させることができる簡単な魔法だよ」
「よく見つけたわね。こんな魔法、観察しているだけじゃ気づかないわ」
「ふたりめの漂着者だったかな……あちこち、隠し部屋がないかと壁を叩いては城中を歩き回ったやつが居てさ。
『なんの仕掛けもなさそうだな』なんて笑いながらこの鏡に寄りかかったとたん、中に吸い込まれるように向こうへ倒れ込んだんだ。不用心だよな」
あまりに彼がからからと笑うので、エステルはぎょっとして後ずさった。うっかり足を踏み入れてしまったらことだ。
「えっ!? この城の異空間に繫がる扉は危険なんでしょう? その人は……」
「安心しろよ、その時はすぐにここを通って戻ってきた。――もっとも、その後あの迷宮の部屋で行方をくらましたわけだが――扉じゃなくて通路って認識なんだろうな。ほら」
ウィリアムはそう言うなり、鏡面についた手をぐっと向こう側へ突き入れる。鏡は、まるで静かな水面に招き入れるように、男の骨張った手を飲み込んだ。エステルはその様子を、短い悲鳴を漏らして見守っていた。
鏡を通してダマスク柄の壁紙を背景に、彼の手が五指を動かす。ぐっと拳を握ったかと思えば、廊下の奥を指さして、
「な? なんともない」
いたずらが成功した子どものような顔で笑った。
「だからって、心臓に悪いわ。お願いだから、何か突飛なことをするときは事前に言っておいて。心の準備をするから」
「サプライズを事前にバラすことほどつまらないことはないだろ。さ、安全地帯はこの奥だ。行こう」
ウィリアムはクラリスのようなことを言いながら、躊躇なく鏡の向こうへ進んだ。きっとここに妹が居れば、目を輝かせて好奇心の赴くままに魔法仕掛けの城を堪能しただろう。
エステルも、七年も前ならそうしたかもしれないが、今は未知のものを楽しむより、己の身に降りかかるかもしれない危険を恐れる気持ちの方が強かった。
守らなければならないものがある。そして、守ってくれる者はもう居ない。
こわごわ踏み入れた鏡の関門は、春先の雨の冷たさで少女を迎え入れた。
魔法の鏡から繫がる廊下は、そこに至るまで歩いてきた廊下ほど長くは続かなかった。鏡を通り抜けてすぐ右に曲がると、廊下を挟んでふたつずつの扉があり、すぐに行き止まりになっていた。
彼はその左側に並ぶ一番奥の部屋を寝起きに使っているようで、隣の部屋をエステルに勧めた。
「こっちの、右側の部屋は?」
「使っても構わないが寝起きには向かないぞ。何かの作業場と、物置みたいだった」
「魔法仕掛けの城の、秘密の魔法工房かしら」
「そんな部屋が探せばごまんと出てきそうだな」
彼の軽口に同意するように小さく笑う。ウィリアムは自分の部屋の扉に肩を預けながら、「あんた、やっとまともに笑ったな」と少女の眉間を指さした。
「ずっと眉間に皺寄せてたろ。少し気が緩んでも不安そうに眉を下げてさ。いや、語弊のある情報でぬか喜びさせた俺も悪いが」
「そんなことないわ。わたしが勝手に先走って期待しただけよ」
彼はエステルにはわからない情報をいくつもくれた。――己が脱出するためであれ――それで充分感謝すべきだ。
少女がそう続けると、彼は眉を跳ね上げて「そのくらいの歳にしてはずいぶん出来た考え方のお嬢さんだ」と感心した。
「まず自分の落ち度を認められるのは立派だが、たまには他人のせいにしておかないと、世の中なんてやってられないぜ」
「自分の不幸を他人のせいにして嘆いていたって、事態はよくならないもの。飲み込んで、次にどうすべきか考えなくちゃ」
「ステラは気負いすぎて損をするタイプだな。頼っても許される相手が居るときは甘えることも覚えろよ。なにも抱きしめて頭をなでてもらうだけが甘えるってことじゃないんだ」
不可解な顔をしたエステルに、ウィリアムは意味を滔々と説くことはしなかった。そこまで言うと、彼は肩を預けていた自室の扉を押し開ける。
「起きたら声を掛ける。明日以降のことはそれから話し合おう」
「ええ、わかったわ」
「何かあれば俺の部屋のドアを叩けよ。入ってくるなら歓迎するが、ここは夜が満ちた城だ。年頃の女が男の部屋に入る意味を、よく考えて行動するんだな」
男が揶揄すると、少女は一瞬遅れて気色ばんだ。
「ちょっと……!」
たちの悪いからかいに一言物申してやろうとしたが、彼の妖艶な眼差しはエステルの頬を掠めてすぐに扉の向こうへ消えた。
それがいたいけな少女を誘うものではなく、大人の男の牽制を含むものだと気付けないほど、自惚れても愚鈍でもない。
(絶対に彼の部屋になんて立ち入るものですか)
唇を引き結んでささくれ立つ心を抑え込んだエステルは、夜の深まるまだ見ぬ自室へ滑り込んだ。