5.暗中模索の紳士協定
「なるほど、あんたもか」
エステルが彼女の身に起きた状況を語り終わると、灰色に瞳を曇らせた男は得心したようにそう返した。
「あんたも? ということは、あなたもネックレスに引きずり込まれてこの城に?」
「俺もまぁ、似たようなものだけど、ここに現れる人間は大体がそういう経緯でたどり着くらしいな」
「と、言いますと……?」
「これまでにも何人か、あんたと同じようにこの城に現れたやつが居たんだ。どうしてこんなところにとワケを聞いたら、みんな口を揃えて“ネックレスに飲み込まれた”と言っていた」
「じゃあ、他にも人が居るんですね!?」
朗報を聞いたとばかりに、ここに来て初めて笑みを浮かべたエステルを、しかし男は複雑な表情で見返す。
「期待させたところ悪いが、『居る』とは言い難いな」
「……どういうことですか?」
「あんたもこの下の迷宮みたいな広間を見たって言ったな。逆さまの階段や真横にひっくり返ったドアがわんさかある部屋」
そう言って、男は階下の迷宮の広間を指さした。
「ええ、ついさっき」
「帰ってこないんだ。あの次元のねじれた扉の向こうに消えてから」
「えっ?」
「あの異空間のドアに入って戻ってきたやつは居ない。……現時点ではひとりもな」
「そんな……」
驚きと慄きで口を手で覆って、エステルは声を震わせた。それと同時に、クラリスを探す中で扉の向こうへ踏み込まなかった己の英断に喝采したい気持ちになった。
一歩間違えて踏み入っていれば、彼と出会う前に、エステルもこれまでこの城に囚われた他の人々と同じ運命をたどっていただろう。
「わたしの前にここにやって来たのはひとりじゃないんですよね? だったらどうして危険性をお伝えにならなかったんですか?」
「伝えたさ。それでも彼らは、最後にはドアの中に消えていった。陽も差さない、毎日数えてなきゃ時間経過もわからない城の中に長いあいだ閉じ込められてると、精神的に不安定になっていくんだろうな」
出口が見つからないのなら、せめて陽の差す場所へ行きたいと望んだ者。出口が見つからない以上、あとは踏み入っていない場所を探すべきだと主張した者。永遠に閉ざされた場所で気が触れるのを待つくらいなら、“外”に飛び出したいと願った者。
理由は様々だったが、結局エステルの先人たちは、彼を除いてみな扉の向こうの異空間へ消えたらしい。
「あなたはどうして、危険を犯して扉の向こうに行こうとしなかったんですか? 得るものがあったかもしれないのに」
「俺の次にこの城へ迷い込んだ人間が扉の向こうに消えたとき、そいつは空から降ってきた異形の化け物に連れ去られて消息を絶った。巨大な翼と張り出した冠羽の頭を持った、爬虫類じみた顔の怪鳥みたいな奴だ」
「え? それって、まるで伝説の……」
「“邪悪なる者たち”みたいだろう? 既に地上から姿を消したはずの化け物たち。そんな光景を目の前で見て、ひとりで探索しようと思えるか?」
「それは……、そうですよね」
他の扉の向こうにも、そのような怪物たちが居ないとは限らない。その光景をじかに見た者でなければ信じえないものを、見てもいない者が彼の言葉に耳を傾けることは難しかったのだろう。
彼は最初の犠牲者の危険を教訓に、慎重に動くことを選んだ。そのあとにこの城を訪れた者たちは、危険を犯してでも自らが逃れる道を選んだ。それだけだ。
「ドアの向こうは魔境だ。永遠に続く未開の地があるか、人食い化け物が居るか、さもなきゃ……そこに出口があるか」
「出口……」
「入ったやつが出てきたことは一度もない。だから真実は何もわからない」
「入れはするけれど、出ることはできないかもしれない、ということですか?」
「普通の部屋に見えない部屋は、その可能性が高いな」
「普通の部屋なら危険は無いということね」
それから、彼の口ぶりを信じるならばこの城には普通の部屋もあるということだ。
「今のところは」
曖昧な返答だったが、それでも無いよりはずっといい答えだった。少なくとも彼はエステルよりも多くの情報を握っている。
エステルはやっと落ち着きを呼び戻した頭で整理しながら、何かを考え込むように黙り込んだ男を見上げた。
精悍さの滲む甘いマスクに、エステルよりも濃く深い少し癖のある黒髪。そのあいだから、ときおり磨いた銀のような輝きを見せる灰色の瞳は、この国ではあまり見ないものだ。
真顔で黙っていると冴え冴えとした冷たい印象を与えるが、出会い頭に安心させるように浮かべた笑みは愛嬌があった。
このような状況でなければ、他人の美醜にあまり頓着しないエステルでも見惚れていただろう。クラリスならば間違いなく積極的にお近づきになろうとしたはずだ。
「状況を整理しよう。俺たちは互いにこの城に不慮の事故で閉じ込められた。脱出したいが出口がどこにあるのかわからない。城の中は一応の安全圏もあるが、未知の危険でいっぱいだ。ここまではオーケイ?」
「概ねは、はい」
「よしよし。だったら、互いに協力して脱出口を探さないか?」
「いいんですか? 現状、わたしは知らないことだらけで何もあなたに提供できるものがないのに」
彼の提案はエステルにとって渡りに船だった。どこに行くべきかも、どうすればいいかもわからない彼女にとって、安全圏と危険のいくばくかを知る男の存在は心強い方位磁針だ。
自分ばかりが得をするのじゃないか。不安を隠せずに尋ね返した少女へ、男はニッと口角を上げた。さきほどの愛嬌ある笑みとはまた違う、何を考えているかわからない不敵な笑みだ。
「構わないさ。逆に、あんただから得られる新たな情報もあるかもしれない。ひとりじゃどうしたって視野は狭まる。長く居るぶん、固定観念も。それに、男の俺じゃ気づかないような観点に、女のあんたが気づくこともあるだろうし」
「なる、ほど?」
「俺の持ってる情報を提供することで新しいものが得られるのなら、喜んで与えてやるさ。何より、ひとりってのはいいかげん退屈でね」
どうだ? と再び尋ねられて、手を差し出される。エステルは気づかないうちに固く握りしめていた手を浮かせた。
おず、と揺らめかせた手に、けれど、覚えのある違和感が走った。そわりと産毛を撫でるような不快感。けれどいつも感じるあの、皮下をつつかれるようなチクチクとした痛みはない。
エステルに何かを訴える虫の知らせ。いつもとは違ったその感覚に、どう受け取ればいいのかを考えあぐねた。
彼を信じすぎるのは、もしかしたら良くないのかもしれない。けれど、何を信じて何を信じないかを決めるにも、そのための選択材料は必要だ。
エステルはさんざん迷いながら宙で手を揺らめかせたのちに、彼の目を見上げてこう付け加えた。
「わたし、妹を追ってここに引っ張り込まれたと言ったでしょう」
「ああ」
「もしかしたら妹もここに閉じ込められてるかもしれないんです。脱出口を探すついででいいの、一緒に探してくれませんか」
ふたりが互いの真意を探るように視線を絡める。彼はエステルの中に、一体何を見いだそうとしているのだろう。
(構わないわ。いくらでもわたしの腹の中を探れば良い。わたしはクラリーとわたしが無事に脱出できるなら、他には何も望まない)
挑むように見つめ返したエステルへ、男はふっと表情を緩めた。面白いとでも言うように。
「いいぜ。交渉成立だ。これからしばらくよろしく頼むよ、お嬢さん」
「エステルよ。エステル・エヴァンス。協力し合うのに、いつまでもお嬢さんなんて呼ぶわけにいかないでしょう」
「エステル? 今の時代には随分と年代的な名前なんだな。珍しい」
「古くさいって言いたいの?」
男の言葉に軽い反発を覚えて眉をひそめた。幼いころ、町のこどもの何人かにも似たようなことを言われたことがある。
エステルとは、古語で「星」や「輝くもの」を意味する名前だ。それを彼女は気に入っていたし、クラリスが自分の赤髪を嫌うことと同じくらい、エステルは名前を馬鹿にされることが嫌いだった。
「怒るなよ、リトル・スター」
「ちょっと、変な呼び方するのやめてよ」
「じゃあ、ステラ。それなら良いだろ?」
呼ばれ慣れない愛称に、少女は少しばかり居心地が悪そうに唇の端を引き結ぶ。両親や妹からは、いつも“エル”と呼ばれていた。“ステラ”などと気取った愛称で呼ばれたのは初めてだ。
それでも、悪い気はしなかった。リトル・スターより余程いい。
彼も沈黙を肯定と受け取ったのだろう。唇の端を僅かに上げてニヒルに笑った。
(たとえ彼がわたしを騙そうと嘘をついていたとしても、今のわたしには何が嘘で何が本当かもわからない)
状況を正しく判断するためにも、まずは情報を集めなければ。
エステルは緊張の面持ちを崩さないまま、ついに男の手を取った。そうして、男性同士が気安くそうするように握手でも交わすのかと思えば、男はエステルの手を彼の口元まで導いて、まるで紳士が令嬢へそうするように恭しく口づけた。
自分とは違う、わずかに低い熱の触れた場所から肌がざわざわと粟立つ。初めて受ける感覚だった。
虫の知らせとも違う、不安や嫌悪感を伴わない居心地の悪さは、否応なく心臓の鼓動を急かす。
舞踏会にも出たことのない一介の地主の娘が、最上級の礼儀を向けられるべき者のように扱われることは、それだけで少女の心を浮き立たせた。
たったこれだけのことで、感情と信頼を明け渡しては駄目。駄目、駄目、駄目――何度も自分に言い聞かせて反射的に振り払おうとした手を、しかし、彼は逃がしてはくれなかった。
「ウィリアム・クイン」
「……え」
「俺の名前だよ。ウィリアムでも、ウィルでも、ウィリーでも、好きに呼んでくれ。敬語もいらない。俺たちはこれから城を脱出するまで、相棒になるんだから」
手元から上げられた灰色の双眸が、またきらりと銀色に輝いた。エステルは、きっと頬にのぼっているだろう熱がオレンジ色の照明にまぎれていることを願って頷いた。
「わかったわ。よろしく、ウィリアム」
蠱惑的な男の瞳が、ガス灯に照らされた烟る霧のように、困惑するエステルを先の見えない薄闇へといざなった。
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