4.蠱惑のシルバーアイ
そんな馬鹿な。
ありきたりで使い古された否定の言葉が、エステルの頭を占めた。
ほんの一瞬前に見た景色が信じがたくて、少女はドアノブから手を離す。今日はなんだかこんなことばかりだ。いいかげん自分の目が信じられなくなりそうだし、そうでなければ頭がおかしくなりそうだった。
思えば一日中、屋敷の掃除と整理をしていて、やっと一区切りついたとたん、たんぽぽの綿毛のように落ち着きなく家を飛び出した妹を追いかけて森の中を走り回ったのだ。疲れているのかもしれない。きっとそうに違いない。
言い訳のように自分で自分を諭して、エステルはもういちど目の前の扉を開いた。けれど、扉の向こうの光景はどんなに否定しても変わらなかった。
「嘘でしょう、ありえないわ」
彼女が思わず呟いたのも無理はない。
扉の向こうには、吹雪に沈む一面真っ白な景色が広がっていたのだ。
ラステールにも雪は降るけれど、エステルさえここまでひどい暴風雪は見たことがない。強風に巻き上げられた雪が渦巻いて、横殴りに視界を遮っている。
開いた扉からは肌に張り付く痛みを伴った冷気が吹き付けてきた。呼吸をする間にも指先がかじかむので、少女は急いで扉を閉めなおした。
(なに、いまの)
たとえばたったいま開いた扉が外へ繋がる出口だったとして、まだ雪が降る季節にはほど遠いし、明らかに屋敷や城の構造上、奥に続く部屋から直接外に繋がるような扉は作らない。
呆然とするあたまで必死に考えるけれど、「だったらあれはいったい何なのだ」と自問がわき出るばかりだ。当然、答えは出てこなかった。
(……きっと何か、そういう部屋だったのね。食料貯蔵庫かしら? 食料を維持するためにたくさん氷を敷き詰めて、冷えすぎてできた霜が部屋中を舞ってたのね)
そんなわけがないと知りながらも、エステルは無理やり自分を納得させて、少し離れたところに並ぶ別の扉へ駆け寄った。宙に浮いた大理石の通路は、少しジャンプすれば乗り上げることができる箇所もある。
灰色の鉄でできた重々しい扉を開いたエステルは、扉の向こうを覗いてびくりと肩を震わせた。
ふたつめの扉の向こうには、檻があった。けれど、そこは檻の並ぶ地下通路の入口ではない。彼女の開いた扉こそが、檻の中に繋がっていたのだ。
看守は居ないが、跳板のベッドはたった今まで誰かが寝ていたかのように薄い布切れがぐちゃぐちゃになって放られている。格子扉にはいかつい錠がしっかりとかかっていた。自分が囚人にでもなったかのような気分だ。
逃げるように扉を閉めた。それから、今度こそふつうの部屋が姿を表してくれることを期待して、縋るように隣の扉へ飛びつく。
赤材の扉を押し開けた瞬間、比喩ではなく、どっと汗が流れ落ちた。
それもそのはず。彼女の視界を埋め尽くしたのは、ぐつぐつと煮立つ赤い泥のような何かの池と、そこから立ち上る熱気で蒸された岩壁の大地だったのだ。
まるで、罪を犯した死人が落とされるという死後の拷問釜のようだった。巨大な釜の中には骨をもどろどろに溶かす赤い池があり、地上から逃れた“邪悪なる者たち”が長い櫂で悪い死者を煮込んで、最後にはスープとなり食べるという、国教聖典の一節だ。
幼い頃にみな一度は聞く、「悪いことをすると死の釜に落とされるよ」というたぐいの話。それが現実に近い形で目の前にあるなどと、一体誰が信じるだろう。
息を吸い込むと、熱気が喉を焼いた。
「えほっ、ゲホッ」
エステルは袖で鼻と口を覆って、これもまたすぐに扉を閉じる。自分の知りうるまともな部屋がひとつも見当たらない。それどころか、この空間は何から何までおかしかった。
クラリスではないけれど、こう言わざるをえない。――まるで魔法にでも掛けられたような部屋だ。
一見なんの変哲もない扉が、どこか知らない未知の世界に繋がってでもいるかのような。
(わたしは一体、どこに連れてこられてしまったの……?)
そもそも、ネックレスの石から腕が伸びてきたことからして尋常ではなかった。ひっぱられて、その先に行き着いた場所が普通の城であるはずがなかったのだ。
エステルは気を抜くと震えそうになる自分の肩を抱いた。ここでは何が起きてもおかしくない。それでも、同じように引きずり込まれたかもしれないクラリスを見つけないまま、自分だけ逃げ道を探すことはできなかった。
手の届きそうな扉は隅から隅までひとつずつ開け、力の限りに妹の名を呼ぶ。なにも反応がないことを確認すると、そのまま閉めて次の扉へ。
迂闊に踏み込むことはしなかった。奥に入り込んで戻れないほど迷っては、ひとりで戻ってこられる気がしない。
用心深く、けれどクラリスの痕跡は見落とさないように細心の注意を払って、いくつかの扉を開いた。この部屋に並ぶ扉は、色も大きさもまちまちだ。形すら違うものもある。
そのうち、彼女は嫌なことに気づいた。どれほど扉を開いても、ひとつひとつに呼びかけても、人はおろか虫の一匹すら見当たらないのだ。
たとえ今が真夜中で、城の主や使用人たちが寝静まっていたとしても、大声で叫び続ける不審人物が居れば起きてこないはずがない。これだけの大きな城ながら、交替で見張りの衛士が居ないのもおかしな話だった。
生き物の動く気配がない。世界に自分ひとりぼっちになってしまったような錯覚を覚えた。自覚した瞬間、それまで表面張力のようにゆらゆらと縁で揺れていた不安が、とうとう溢れ出した。
エステルは踵を返し、エントランスフロアへと駆け戻る。階段の上にも通路があったはずだ。エントランスフロアの両脇にも。隅々まで探せば、誰か人のひとりくらい――。
急き立てられるように階段を上る。カツコツとブーツが磨き抜かれた石材を打つ音に混じって、何かの唸り声のような音がどこかから聞こえた。
風の通る音が広い空間に反響してそう聞こえただけなのか、それとも。正体のわからない音が、余計にエステルの不安を煽った。
「誰も居ないの!? ねぇ、クラリ――」
「誰か居るのか?」
それまでなんの返事もなかったエントランスフロアに、耳馴染みのない男の声が響いた。
「きゃあっ!!」
前触れなく聞こえた声に驚いて、少女は足を踏み外す。
(落ちる……!!)
がくんとぶれた視界に、階段の上から見下ろす人影を捉えた。驚愕の表情を浮かべた男が、掴まるものを求めて反射的に伸ばされたエステルの腕を取った。
力強い手がエステルの腕を引っ張る。それでは足りないと言うように、もう片方の腕が彼女の腰を引き寄せた。その勢いのまま、抱きしめられるような形で男の胸に倒れ込む。
「……ってぇ」
背中をしたたか打ち付けた男は、固く目をつむり、息を詰めて呻いた。慌てたのはエステルの方だ。
「ごめんなさい! あの、わたし、人が居たことに驚いて……、すぐ退くわ」
「いや、こっちこそ驚かせたみたいで悪かったな。怪我はないか?」
「それは……ええ、あなたが助けてくれたから」
「元は俺のせいで足を滑らせたんだろう。お互い様だって」
気安い声音は不思議とエステルの安堵を誘い、恐怖でこわばっていた頬に微かな笑みを取り戻させた。
「助けてくださってありが――」
立ち上がりながら感謝を伝えようとしたエステルの言葉は、しかし、声にならずに舌の裏に絡みついた。
開かれた男の双眸は、言葉を失うほどに美しかった。
まるで夜空からふたつ、輝く星を取り外して精巧な彫像に嵌め込んだかのような、神秘的なシルバーアイ。見るものを惑わせるような、蠱惑の瞳だ。
(……いいえ、ただちょっと色素の薄いグレーよ)
吸い込まれるように引き寄せられる彼の視線から目を逸らし、少女はトクトクと半拍速度を上げた鼓動を無視する。いくらこのわけのわからない空間で初めて人に出会えたからといって、簡単に心を許すなんて――初めて、人に?
落ち着かない気持ちをなだめようとして、はたとエステルは気づいた。
彼は本当に「初めて会った」人だろうか。あるいは――本当に人間なのだろうか?
これまで人っ子ひとり見つけられなかった城の中に、とつぜん人が現れたのもおかしな話だし、なにより、エステルをこの場所へ引き込んだのは「人の手の形をした何か」だった。
彼がエステルをこの城に閉じ込めた張本人かもしれない。わからないことだらけである以上、用心はしてしすぎることはないのだ。
つい一歩、二歩と彼から後ずさる。
ふいに挙動不審になったエステルに、男は目ざとく気づいて立ち上がった。さらにもう一歩、エステルが彼から離れる。
「せめて感謝の言葉は最後まで聞きたかったな。俺はそう警戒されるほどのことを何かしたか? ……あぁ、腰を抱いたのは不可抗力ってことにしておいてくれよ」
さきほど助けられた時の状況を揶揄されて、エステルの頬にパッと朱が差した。考えないようにしていたのに、彼の一言でまざまざと腰を引き寄せられた腕の硬さを思い出し、ついまなじりが釣り上がる。
「そっ……、違うわ! わたしはあなたがここに引きずり込んだ張本人なんじゃないかと思って……!」
うわずった声では、即座に抱いた警戒心の半分も伝えられなかった。しかし、彼は彼女のうっかりとこぼしてしまった発言にいたく興味を惹かれたようだ。
「そういうことは容疑者に真っ正直に尋ねない方がいいと思うぜ。……けど、その話、詳しく聞かせてくれないか?」
魅惑的なシルバーアイが、からかう口ぶりとは裏腹に真摯な光を宿す。今度こそ不用意なことを言うまいと口をつぐんだエステルだったが、ダメ押しのように告げられた一言で陥落した。
「もしかしたら何か力になれるかもしれない」
その甘言を無視できないほどに、今のエステルは疲れていた。ひとりでクラリスと脱出方法の両方を探すには、この城は広すぎる。出口の見えない歪な城は、十七歳の小娘ひとりの手に負えない。
何より、彼は既に一度、エステルを助けたのだ。害意があるならば、彼女が足を滑らせたあのとき、わざわざ助けたりしなかっただろう。
エステルはこうすることが本当に正しいのか疑心暗鬼に陥る前に、屋敷でジェットのネックレスを見つけた辺りから、彼に助けられるまでの経緯を掻い摘んで語りだした。