3.常識はずれの道しるべ
メディウムと呼ばれる中・南部国を中心に、それを取り巻く東西北の三国を吸収する形で成り立つ島国、ラステール連合王国。
エステルが生まれたのは、その王都・アージェンティウムの郊外に位置する田舎町だった。
“豊かな水源と自然がある以外には、特に見どころのない片田舎”
ここ、ウェイズベリーに訪れる人々は、口を揃えてみんな言う。
それでもエステルは、多く緑の残されたこの地を愛していた。ときには都会に憧れることもあったけれど、クラリスと共に野を駆け回っていればそんな欲求もすぐに忘れたし、使用人に混じって家のことを手伝っていれば、潰す暇さえないほど日々は充実していた。
女であるため家督は継げなかったが、近場の同程度の階級の男性に嫁げば、ウェイズベリーを離れる必要もないだろう。そうしてこの土地を見守りながら、最期にはこの土地に骨を埋めるのだと信じて疑わなかった。
エステルはまた、幼い頃から我慢強い子どもでもあった。それは物心つく頃に姉となったためでもあったし、この二十年ほどで重なった水害や急速に進んだ輸入貿易の影響で貸地の税収がたびたび滞っていたせいでもあった。ただでさえ農地の収穫量が少なくなっていたところに、輸入品が横行し、作物の価値が飽和してしまったのだ。
税収が減れば、地主は土地の運用が立ち行かなくなる。記憶にある限りの昔から、貸地と手入れ費用の工面に奔走する両親を見てきたので、わがままを言うことが憚られたのだ。
そういった理由から、屋敷の使用人たちも年を経るごとに減っていった。五つの頃には十人以上居た使用人たちも、十年後にはその半分以下になっていた。
どうしても手が回らない家事は、家族で分担することも珍しくなかった。屋根の補修は父親が。新聞にアイロンをかけるのは母親が。姉妹は日に何度か行う水汲みの半分を請け負ったり、家畜から朝食の材料を失敬したり、女中と一緒に家じゅうのシーツを取り替えたりもした。
クラリスはすぐに飽きて町の友人にちょっかいを掛けに行っていたけれど、妹いわく馬鹿真面目なエステルは、家事をサボって遊び歩く妹の分も家のことをこなしたものだ。
『あたしの言う“馬鹿真面目”はね、“馬鹿みたいに真面目”ってことじゃないの。“馬鹿を見る真面目”ってことなのよ』
そんなことを言いながら膨れっ面で、姉のための手土産を携えたクラリスを出迎えるのが、エステルは好きだった。
何もかも放りだして町へ遊びに行ったあとのクラリスは、必ず“エステルのための何か”を持って帰って来る。
友人の家で振る舞われた茶菓子の半分だったり、町人への親切のお礼でもらったリボンだったり、こっそりと人様の家からもぎとって来たプラムだったり、町で起こった珍しいニュースや興味深い噂話だったり。
妹は移り気だけれど、その反面、不思議と人によく愛される少女でもあった。だから、変に家に縛り付けておくよりも、気ままに外へ駆けていく方が何かとひとの役に立つのだ――その分、トラブルもそれなりに起こしたものだが。
そして、移り気ではあったものの、両親以上にエステルをいっとう愛してくれていた。忙しい両親に代わって、エステルがよく面倒を見てきたからだろうが、恩や義理と言うには温かすぎる絆が、確かにふたりの間にはあった。
それを互いに知っていたから、どうしても叱る必要のある時以外には、あまり妹を叱ることはなかった。
そんなふうに暮らしていたから、多少甘やかしてしまった自覚はあった。それでも、姉妹ともが心身健やかに暮らしていたのだ。ほんの数日前までは。
エステルが両親の訃報を受け取ったのは、突然の通り雨に、慌てて洗濯物を取り込んでいる最中のことだった。
物干し竿からシーツを引っ剥がしている女中を尻目に、王都の警官が携えてきた手紙を読んで、少女は雨の中くずおれた。二日前に「所用で王都へ行く」と出かけた両親が、道中の川で、馬車ごと転落して亡くなったことを伝える手紙だった。
身分を証明する紋章いりの指輪が確認されたことで、それがエステルの両親であり、このウェイズベリーの地主、エヴァンス夫妻であると知れたようだ。
両親の遺体は、訃報から一日おくれて屋敷へもどってきた。溺死体である。どのような状態で帰ってきたかは、大々的に語られるべきではないだろう。
まだ半分、頭が現実に追いつかないまま、エステルは急かされるように葬儀の手配を行った。とはいえ、たった十七年しか生きていない小娘だ。世の情勢もしきたりもさほど知らない少女に代わり、大部分を仕切ったのは屋敷の執事だった。
慌ただしく終えられた葬儀は、遺されたエヴァンス家の姉妹たちに、両親の死を悼む猶予も与えてはくれなかった。
嫡男の居ない地主家は、早急につぎの主を必要とした。エステルが男児であればそのまま引き継げただろうが、土地は男系の一子相続が原則である。たとえエステルが結婚していたとしても、土地の権利は娘の手には残らない。
ウェイズベリーの地主の空席にはエステルたちの従兄が収まり、エヴァンス姉妹はその従兄の母親である、叔母の元へ身を寄せることとなったのだ。
わずかばかりいた使用人たちには、日を追うごとに暇を出した。最後まで手伝うと言ってくれた執事にも、つい昨日。
エステルにはもう、何も残っていない。これまでこの地で紡いできた思い出と、妹の他には、何も。……だから。
「わたしがまもらなくちゃ……」
うわごとのように口にした自分の声で、エステルはゆっくりと目を覚ました。どうやら気絶していたようだ。
(えぇと、何があったんだっけ。……確か屋敷の片付けをしてたら、お母さんの部屋でジェットのネックレスを見つけて、クラリーが……)
「そうだわ、クラリー!」
妹によって持ち出された“呪いのネックレス”。血痕だけを残して忽然と姿を消した妹。それから、ネックレスから伸びた手に引きずり込まれて……。
そこまで思い出して、はたとエステルは辺りへ視線を巡らせた。どうやらカーペットの敷かれた硬い床に横たわっているようで、視界は驚くほど高い位置にある天井をぼんやりと捉えている。円形のアーチ型にへこんだ天井からは見たこともないほどきらきらしいシャンデリアが吊り下がり、淡いオレンジ色の明かりが灯っていた。
おそるおそる身を起こすと、筋が張ったような痛みが背中に走る。顔をしかめて周囲を見回すと、エステルは我が目を疑った。
自分は気を失う直前まで、森の中に居たはずだ。それがどうしたことか。気づけばエステルは、広いホールの真ん中に倒れていた。
エントランスフロアのような広い空間には端から端まで美しい草花模様の入った紅い絨毯が敷き詰められ、正面には奥へ続く扉と、二階へ続く二股に分かれた階段が根を下ろしている。金色の手すりは磨き抜かれ、シャンデリアの輝きを反射していた。このフロアだけで、エヴァンス家の屋敷ほどの広さがありそうだ。
フロアの左右にはそれぞれ、やはり幅の広い廊下が続いているが、窓がないせいか仄暗く、等間隔で壁に灯る燭台の光ではあまり先まで見通せない。
壁にはアクロポリスの滑らかな石膏色をした壁紙が張り巡らされ、照明の暖色がグラデーションに染めている。
そこはまるで、話に聞く王都の宮殿のようだった。エステルは王都を訪れたことはないけれど、都会からのお客様や旅行者の話を聞いては、幾度となく想像したものだ。けれど――こんな立派なお城、ウェイズベリーにあったかしら?
一体自分はどこからこんな場所に迷い込んだのだろうと背後を振り返れば、そこには横長の大きな絵画が掛けられていた。
月と星と紺青の夜空を背景にふたつの群衆が戦っている、そんな絵だった。群衆の先頭には背丈ほどもある杖を掲げた男が立っていて、向かい来る対立者を片端から撃退している。杖持つ男の前には倒れ伏した異形の者たちの山が積み重なり、戦局はあきらかだった。
(きっと大魔法使いラスターの伝説を描いたものね)
絵画の金縁に触れながら、胸の内でひとりごちる。遥か昔に、このラステール連合王国を護っていたという護国卿の魔法使いの伝説だ。彼は国でもっとも魔法を扱う力に優れ、何千年もの昔、この国を治めていた王族の良き相談役だったと言う。
彼にまつわる話は文献からお伽話まで古今東西多種多様にあるが、一番有名な功績は、“邪悪なる者たち”をこの世界から永遠に葬り去ったことだろう。
かつて世界に魔法が満ちていたころ、闇の中で生きてきた人ならざる者たちがいたと言う。“邪悪なる者たち”は、人にはない身体的特徴や習慣、更には魔法のような力を持っていて、気まぐれに人間を襲っては、拐かしたり、喰らったり、ただただ引き裂きおもちゃのように遊び散らかしていたそうだ。
ある日彼らは大群を引き連れて人々の国を奪おうとしたが、伝説の大魔法使いラスターが、世界に満ちる魔法を使ってこれらを撃退する。
あまりにも多くの“邪悪なる者たち”を一掃したため、世界からは魔法が消え去り、魔法が消えると同時に伝説の大魔法使いも姿を消した。のちに彼らの消息を知る者は居ない、という世界的にも有名な伝説だ。時の王族はその功績をたたえ、永久に残すために大魔法使いの名を連合王国の国名に刻んだ。
この絵はその最後の伝説を描いたものに違いない。
エステルの背の何倍も大きな絵画は、しかし出口を隠しているわけではなさそうだ。
ここはエントランスフロアのように見えたのに、そこに外へ繋がっていそうな扉は見当たらなかった。
「クラリー? ……誰か居ないの?」
耳鳴りが聞こえそうなほどの静寂に、エステルの呼びかけだけが響く。靴音は絨毯に吸い込まれ、足音ひとつ聞こえない。
「クラリー、クラリス!」
返事はなかった。妹の名を呼ぶ声に焦りがにじむ。ここで足踏みしていてもどうにもならない。まずはここがどこで、今がどのような状況かを把握しなければ。
彼女はいくらか迷って、正面の階段下に見えていた扉を押し開けた。しかし、扉が開ききらない内に目をみはって息を呑む。
広々としたきらびやかなエントランスフロアなど、まだ驚くに値しなかったのだと、続き部屋に広がる光景を目にして悟った。
ホールの奥もまた、エントランスフロアと同じような広さの部屋だった。しかし、宮殿の広間と言うには明らかに異常な空間が広がっていた。
落ち着いた赤に金装飾の模様の入った壁紙で覆われた部屋の中には、縦横無尽に道が走っていた。それはもう、文字通りに。
戸口から一段上がった大理石の道が壁沿いに左へ折れたと思ったら、壁を這い登り天井へと伸びている。ぐるりと頭上を仰げば、天井の中ほどで途切れた大理石の道から階段が逆さまに伸びて、扉の上にぽっかりと口を開けた出入り口へと続いていた。
エステルはたったいま開いた扉からエントランスフロアに引き返して、階上を見上げる。二股に分かれた階段の上には確かに奥への通路が伸びているが、その向こうはきちんとした廊下が続いているように見えた。逆さま階段に続く出入り口など見当たらない。
もういちど階段下の扉向こうを覗けば、同じような大理石の道が部屋のあちこちに伸びていて、中には天井にぽっかりと空いた穴や横向きの扉へ続く道もあった。壁の高いところをぐるりと回って、中空へ橋のように掛かった道もある。大理石のブロックが重力を無視したように、ステップフロアとして別の通路へつながる道を作っていた。
宙で道と道が交差して、脇から迫り出した箱型の空間にテラスのようにつながっている道もある。その下にまた上下を違えた階段が伸びて、もはやどちらが「上」なのかわからない。そんな道と扉と階段が、無数に部屋を横切っている。
まるで迷宮だ。
それだけならば少し――いや、だいぶ――構造のおかしな部屋という話で片付けられたのだろうが、自由気ままに走る通路のあいだを、オレンジ色の光が浮遊していた。
一瞬、何かの虫か生き物かと思ったが、ブレもせず一定の高度で滑るように飛び続ける光は無機物のような印象を与えた。
光のひとつが、エステルの近くまで飛んでくる。びくりと身をこわばらせたのは瞬きの間のことで、よくよく見ると、それは透明な水晶の球体だった。
エステルの手のひらに乗るサイズの透き通った水晶玉は、スモーキークォーツのように揺らめく炎の光を内包している。それが内側で乱反射して、周囲を照らしているのだ。
鉱物が内包物を抱えることはままあるが、光源の定かではない光を内包する宝石など初めて目にするものだった。
幻想的な光景に、エステルは場違いにも胸が高鳴るのを感じた。そんな場合ではないことはわかっているのだが、いつか幼い頃に空想した未知の世界が止めどもなく溢れてくる。その期待と興奮は、抑えようとしても容易に推し殺せるものではない。
これは夢なのかしら。そう思いかけて、けれど目覚めた時に背中に走った痛みを思いだした。
(やっぱり、早くクラリーを探さなくちゃ)
きっと妹もこの宮殿のような迷宮のどこかに居るはずだ。彼女が自分の背中よりもひどい痛みや命の危険を感じる前に、早く見つけて連れ帰らなくては。
まだ帰る道も、来た道すらもわからないけれど。
首をもたげた不安には蓋をして、エステルは無秩序な道の先にある、とりあえず「規則正しく」佇む扉のひとつを開いた。
そして、ひとつ瞬きする間にその扉を閉めた。
一口メモ:エヴァンス家の地位「地主」について。
本文に入れると蛇足になりそうなので端折りましたが、あとがきにて補足をば。
近代ヨーロッパ(主に英国)をモチーフとしているため、ここで言う「地主」とは、「土地持ちの地貸し主」の下層地主階級になります。
「貴族」じゃないけど、土地を持ってるので「労働者階級(平民・農奴)」でもない。
貴族と労働者階級のあいだの中産・中流階級、というやつです。
労働者階級や農奴に土地を貸して、対価に地代・地税をもらって生活している、「働かなくても生きていける」階級のこと。
ただし、地主階級にも時代の世情や様々な要因によって貴族のような暮らしをしていた人から、体裁を整えて暮らすのもギリギリの生活をしていた家庭まで様々でした。
大地主となると「爵位のない貴族」のような扱いを受けたり。
エヴァンス家はその「世情のあおり」を食らって、家庭が逼迫している層の地主階級だった、と捉えて頂けましたら。
(なので主人公姉妹も亡母も「ご令嬢・貴婦人」ではなく「お嬢さん(ミス・ミズ)」になります)