つれないメイド
エフティヒア侯爵家には美しく有能なメイドがいる。
いつの頃からか、貴族の間ではそんな噂が流れるようになっていた。
またそれとは別に、侯爵家に勤めるとなぜか雇い人は逞しく、動きに隙がなくなるという噂もある。
周囲が何があったのだと聞くと、誰もが笑って言葉を濁すのだとか。
その笑みが引き攣って見えるのは気のせいだろうかと言う者もある。
エフティヒア侯爵には嫡男である長男と2人の娘がいる。
長女は数年前に国外へと嫁いで行ったが、長男も年内には結婚の予定で、次女もいずれは公爵家に嫁いで公爵夫人としてなに不自由なく暮らして行くはずだ。
しかしこの次女の婚約者が曲者で、ろくに勉強もせず遊び回り、金遣いも荒い。
エフティヒア侯爵は度々諌めているようだが、それをうるさがって逃げ回るような人物だった。
「本日の夕食のメニューですが、プロフィット前伯爵夫妻をお招きしております。お2人はご高齢ですので、消化に良い、胃に優しいものをお願いいたします。また前伯爵夫人は魚介料理を好まれますが、骨の取り残しがないよう気をつけてください」
「かしこまりました」
今日の晩餐に伯爵夫妻を招いたのは、ヘレナの婚約解消に向けて味方を作り、根回しを済ませておくためだ。
侯爵家では前回よりも社交の回数を増やし、親しく付き合う貴族家を国内外問わずに増やしていた。
「フェレス、明日は午後休みだろ? よかったら一緒に出かけないか」
「明日の午後はお嬢様と出かける予定ですので」
「休みじゃないのか? じゃあ休みはいつだ」
「予定はありません。次の仕事がありますのでこれで」
「え、おい、ちょっと……」
入ったばかりのシェフがフェレスをデートに誘おうとしてすげなく断られる。
「あー、あんた、ダメダメ。あの子は手に入らないよ。侯爵家の皆様ひと筋なんだ。とくにヘレナお嬢様にね」
「今までだって、男爵様や騎士様から結婚を前提にって申し込まれて全部断ってるんだから」
「そんなの、顔が好みじゃなかっただけかもしれないじゃないか」
「随分と自信があるけどね、全員あんたよりよっぽど誠実そうないい男だったよ!」
「フェレスはお嬢様の事があるから、遊び人っぽい男は嫌いなんだよねえ……」
「あたしだって嫌ですよう、お嬢様を大切にしない男なんて!」
「なんだよ、俺がダメなヤツみたいじゃないか……」
遊びだと決めつけられて、新人シェフは心外だと言わんばかりの顔をする。
だが実際、前に勤めていた屋敷にもデートに行くような相手は何人もいたため、周囲の認識もあながち間違いではない。
鼻で笑われて、彼はふてくされたように仕事に戻っていくのであった。
フェレスは前回も男性と付き合うことなく過ごしていた。
仕事漬けの毎日ではあったが、それが楽しかったし、できればヘレナの結婚後も一緒に嫁ぎ先について行きたいと考えていた。
結婚して家族を持てるメイドはけして多いわけではない。
ましてやフェレスのように難民出身の孤児ともなれば。
幼い頃から生きるために必至で仕事を覚えて、今あるものに感謝して暮らしていた彼女には、侯爵家の使用人達が家族で、愛する誰かは侯爵家の人々だった。
万が一にも子供などできようものならその全てを失ってしまう。
そしてその子供すら育てられずに手放してしまう事になるのは容易に想像できた。
正式な申し出すら、彼女には頼りにしていいものか判別がつかなかった。
誰かの妻としてこの場所から切り離される事が怖かったし、相手を信用して全てを任せていいものかも分からない。
一度よりどころを失った事のある彼女は、ただ臆病で、人に愛されてその愛に頼り切りになる事を避けていただけなのかもしれなかった。
だから今日もフェレスは出入りの商人に声をかけられて冷たく返す。
「仕事中でございますので」
「そんなこと言わずに。これ、僕の気持ちです」
渡された小さな箱を、フェレスは受け取らなかった。
「忙しいので失礼いたします。今後、こういう事はなさらないでください」
相手が悲しむ様子に胸が痛まないわけではないが、彼女を利用してヘレナに近づこうとする輩もいないではないのだ。
だが。
前回と違うことがたったひとつある。
デートに誘われると、一緒に出かけるところを想像してしまう相手がいる。
プレゼントをもらうと、大切にしているショールを思い出す。
あれはプレゼントではなかったけれど、勝手に借りたまま持ってきてしまった。
いつか返しに行く。
そう思って。
ショールにくるまったときの暖かさ。
今もずっと、あの熱が消えない。




