遡行
神界。
神々と精霊が一堂に会した前で、5頭の竜が儀式を行う。
魔法陣を描き、そこに集まった全ての存在がこれを悪用しないと誓う。
それが終わるとフェレスは魔法陣の真ん中で遡るその日を告げ、イメージした。
竜達と話し合い、それをいつにするかは決めてある。
婚約破棄の当日では遅い。
ではいつなら間に合うのか。
誰ならあの茶番劇とそのあとの悲劇を止められるのか。
竜達は婚約破棄はそのまま行わせたいと言った。
この機会に一度人間達の社会を正す必要があると。
特に春の女神の祝賀の夜を軽んじた行為は許せないという事らしかった。
だが、もしも変えることができるならやってみて構わない、とも。
ならば。
フェレスが母と共に侯爵家に拾われたのは、あの婚約破棄の20年前。
母は最後の10日間を、道端ではなく侯爵家の屋敷の片隅の、小さな小屋で過ごすことができた。
暖かい部屋。
暖かい寝具。
風を遮る壁。
雨や雪から守る屋根。
それらは人の悪意からさえも。
侯爵は人を寄越して食事も与えてくれた。
フェレスの面倒は見ると母に言ってくれた。
フェレスは当時4才だった。
4才の子供を遺して逝く母は、どれだけ安堵しただろう。どれだけ感謝しただろう。
侯爵は母の死後もフェレスを孤児院へ入れることはせず、下働きのさらに見習いとしてそのまま小屋に置いてくれた。
侯爵の庇護のもと、彼女は安全を保障されて働き、成長することができた。
侯爵がなぜフェレスと母を助ける気になったのかは分からない。
フェレスと年の近い自身の子供や親族の子供を思ったからかもしれない。
神殿へ寄進に行った帰りに見かけたから、見捨てて置けなかっただけかもしれない。
でも理由はなんでもよかった。
現実に、侯爵はフェレスと母を救い、フェレスは手に入るはずもなかった様々なものを手に入れた。
仕事を、誇りを、一緒に働く家族のような仲間を。
そこには確かに愛情があった。それを与えられていた。
それで十分だった。
お嬢様がお生まれになったあの日。
あのとき、フェレスは8才だった。
お屋敷でメイドとして働き始めたばかりで、床を磨いていたらお腹の大きな奥様が誉めてくださって、お腹の子は女の子だから世話をよろしく頼むと言ってくれた。
そしてその言葉の通りにフェレスはヘレナの専属のメイドになった。
それから毎日、本当に幸せだった。
もう、何ひとつ見逃さない。
必ずあの日のような幸せを取り戻してみせる。
暖かい日だった。
春だった。
花が咲いて、小鳥が歌って。
前の夜からの陣痛で、みんな心配そうにしていて。
大人の女性達は忙しそうだった。
フェレスの記憶の中で元気な赤ん坊の泣き声が響く。
意識が真っ白に広がって、そして再び収縮した。
赤ん坊の泣き声が聞こえる。
大人達の騒がしい声。
慌ただしい靴音。
フェレスが目を開けると、そこは侯爵邸の廊下だった。
「旦那様、お生まれになりました! 奥様もお嬢様もご無事でございます!」
「そうか、そうか!」
侯爵のホッとした、嬉しそうな声。
喜びの声があちこちで上がる。
フェレスはその場にうずくまり号泣した。
ただただ、この幸せと喜びに溺れていたかった。