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⑶『芸術の言葉について』

⑶『芸術の言葉について』



芸術が何を為すか、という、不可思議な模索の中で、我々は、一体、芸術に何を認めよう。俯瞰すれば、自ずと知るところの、自己の錯乱と曇天は、まさに、小説の中で、如何に小説らしい小説か、と言った、単純な区切りに他ならない訳である。



例えば、埴谷雄高は、『埴谷雄高文学論集』の中の、「文学は何をなし得るか」で、「文学がなし得るところは、ところで、文学的営為だけである。」と述べている。確かにその通りであって、また、それ以上それ以下でもない。勿論、文学そのものは、文学的営為だけである。



ところが、我々は、文学から、何かを学び、実践したり、体感したりする。この人的営為に置いては文学からの、大きな飛躍が必要となるだろう。埴谷雄高は、その通りを述べているが、その飛躍や逸脱について考えさせられることもまた、「文学は何をなし得るか」は、我々に、その実を、問うているのである。

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