8 かき消される「好き」
その日の夕飯の後。兄がお風呂に入っている隙に、あたしは母に突撃をした。
バイトの了解を得るためだ。
最初は渋られたけれど、ユウにぃの名前を出すと、あっさりOKしてくれた。
「お母さん、あたしバイトがしたいの」
「雛がバイト? あははっ、止めときなさい」
「ユウにぃも働いてるファミレスなのっ!」
「侑君がいるの? ならいいわよ」
どうなってんの?
母は、ユウにぃを信頼しきってる。
確実に、あたしよりも信頼を寄せている。おかしい。
母の許可も無事、得られたので、次の日早速電話をかけてみた。そして、その日のうちに面接に行って来た。思い立ったらすぐ行動、あたしの得意技だ。
人手が足りないようで、あたしが土日に働きたいと言うと、とても喜んでくれた。
「土日だけ働きたいの?」
「はい、土日希望です……そういうのって駄目ですか?」
「いや、土日が一番忙しいから、むしろ土日に入ってくれる人は大歓迎だよ」
こうして無事、あたしはユウにぃと同じ所でバイトが出来るようになったのだ!
人手が足りないと言うのは本当のようで、次の週末から早速あたしは働くことになった。
土曜の朝、少し早めに家を出て、隣の家の前でワクワクしながら彼の姿をじっと待つ。
ユウにぃが玄関から外に現れた。待ち構えているあたしを見て、ちょっと驚いている。
「おはよう雛ちゃん。ごめんね、これからバイトなんだ」
「うん、一緒に行こ!」
あたしがいつものように、ユウにぃの部屋にやって来たと思ったようだ。
ふふりと不敵な笑みを浮かべながら、申し訳なさそうな顔をするユウにぃの手を取った。久し振りの手のひら、あったかい。
ユウにぃがびくりと身体を揺らす。
「だから遊べないんだよ、ごめん」
「分かってるよ、バイトなんでしょ? あたしもこれからバイトなの」
「え……雛ちゃんも、バイト?」
「うん、ユウにぃと同じファミレスでバイトなの!」
ほんの、少しだけ。
ユウにぃの顔から、表情が消えた。
あれ、と思った次の瞬間には、いつもの穏やかな笑みを堪えていた。
「そうなんだ。お母さん許してくれたの?」
「うんっ。ユウにぃも働いているって言ったら、すぐにオッケーしてくれたよ。最初は即、反対してたのに」
「えぇ……。おばさん、なぜか昔から僕をやけに信用してんだよね」
「ユウにぃの人徳だよ」
「そんな素晴らしい人間なんかじゃないんだけど……」
苦笑しながら空を見上げている。
登校渋りをしたあたしを、ユウにぃが軽やかに学校まで連れて行ってくれたあの日から、母はユウにぃに絶大な信頼を寄せている。あたしの事は、ユウにぃに任せれば、全部なんとかしてくれると絶対に思い込んでいる。
そして実際、何とかして貰っている。
自転車に乗れるようになったのも、プールで泳げるようになったのも、いじめられたあたしを助けてくれたのも、全部ユウにぃのおかげだった。
いつもいつも。困った時に手を差し伸べてくれたのは、隣に居る優しい彼だったのだ。
「バイトだけど。僕は厨房担当だから、雛ちゃんのフォローはあまり出来ないと思うよ」
「え、あたしも厨房で働く!」
「ううん、雛ちゃんはホールだよ。女の子は基本、接客担当だから。あそこのファミレス」
そういえば、サエ達と食べに行った時、ホールには女の人しかいなかったな。
残念。ユウにぃとは場所が違うのか。
少ししょんぼりしていると、横から優しい声が聞こえてきた。
「まあでも、全然接点がないわけじゃないから。ウエイトレスも厨房に入る事だって勿論あるんだし、僕の目の届く範囲で困った事があれば、力にはなるよ」
「……ありがとう、ユウにぃ」
穏やかで優しい微笑みを、ユウにぃがあたしに向けている。あたしの大好きな笑顔。
久し振りに見られた。あたしの心がほわほわ、あったかくなってきた。
「覚える事いっぱいで大変だろうけど、頑張ってね」
「うん、頑張る」
ユウにぃの手のひらが、あたしの頭を優しく撫でた。
頬がにんまりと緩んでくる。嬉しくなって、大好きが溢れて、あたしの外に零れ出た。
「あのね、ユウにぃ。あたし、ユウにぃが大好きだよ」
「僕もだよ。……雛ちゃんは昔から変わらないね」
なんでもないように言った後、彼が前を向いた。
そのまま、話題が何でもないものへと変化する。あたしの好きはかき消されて、おしまいだ。
繋いだ手は、あたしだけがぎゅっと握りしめていて。
彼からは、ほんの軽くしか握り返してはくれていなかった。
◆ ◇
「あ――疲れた!」
ファミレスのバイトは想像以上に過酷だった。
身体中がすっかりだるくなっている。面接で言われたセリフは真実だった。あたしの希望した土日は特別忙しいようで、バタバタと動き回ってばかりいる。
そして、どんなに疲れていても、常に笑顔が求められるのだ。
大変、大変。だけど、やって良かったと思ってる。
バイト先が同じというのはやっぱり、大きい。お互い土日のみ働いているので、顔を合わせない週がなくなった。恋しかったこの2ヵ月が嘘のように、会えるようになっていた。
ユウにぃの言う通り、あたしはホール係になった。配置場所は違うけれど、チラチラと姿を見る事は出来る。シフトが合えば、一緒に行き帰りが出来る。そう、憧れの『一緒に登下校』っていうやつだ。小学生の時以来の幸せを、あたしは手に入れたのだ。
大満足だ。ただ、一つを除けば……
「おつかれさん」
休憩室で伸びをしていると、あたしの頬に冷たいものがピタリと当てられた。
ひゃあ!と身を捩ると、楽しそうに笑う声が聞こえてきた。
「相良先輩っ!そーいうの止めて下さいっ」
「ごめんごめん。雛ちゃん反応が可愛いから、つい」
ふんっ、この人からの可愛いとか、嬉しくないし!
「いつまでもむくれないでよ。これあげるから機嫌なおして」
あたしの頬にひっついていたペットボトルが、目の前ににゅっと差し出された。いちごオレ。これ、あたしの大好きな飲み物だ。
「こんなもので誤魔化せると思ったら、大間違いなんですよ?」
ふんっ、ジュースに罪は無いから、貰っとくけど……
「ねえ、可愛い雛ちゃんと付き合いたいんだけど、そろそろオッケーしてよ」
「ダメですっ!」
「相変わらずガード固いねぇ」
爽やかなイケメンが、苦笑しながらあたしの肩に手を置いた。体格の良い彼が近寄ると、なんとも言えない威圧感がある。
あたしの眉間にしわが寄った。しわしわの顔になったら、この人のせいだ。
彼は同じ高校の、一つ年上の先輩だ。入学して早々に、なぜかあたしに告白してきた人だ。相良先輩は去年からここで働いているらしい。バイトを始めて2日目で彼に会い、気まずいと思ったものの、すぐにこの調子で話しかけられた。
先輩はとっても馴れ馴れしい。告白をきっぱりと断ったはずなのに、なぜかあたしに付きまとってくる。日々断り続けている筈なのに、何度も付き合おうと言ってくる。めちゃくちゃしつこい。そして、めちゃくちゃメンタルの強い人だ。普通は早々に心が折れると思うんだけど。
こんな人がこのファミレスでバイトしてるなんて、思いもしなかった……。
肩に乗った手をどけようと、先輩から離れてみる。3歩横歩きをしたら、いらない手も一緒について来た。ついて来なくていいのに。
シッシと手で払いのけようとしたら、休憩室の入り口から声が聞こえてきた。
「相良くん、ちょっと教えて欲しいことがあるんだけど……」
「なんすか、葉山さん」
ユウにぃだ。
「休憩中にごめんね。油が切れたんだけと、在庫どこにあるのかな?」
「そんなの、俺に聞かなくても誰でも知ってんじゃないかな……」
あたしの肩から、重みが消える。
ブツブツ言いながら、相良先輩がユウにぃと部屋から出て行った。
『僕の目の届く範囲で困った事があれば、力にはなるよ』
ユウにぃがあたしを助けてくれた……。
「ありがとう、ユウにぃ」
あたしの眉間から、しわが消える。
スキップをしながら、あたしはホールへ戻るのだった。