21 イチゴジャムの変
ユウくんが、おかしい。
思い起こせば昨日の夜から変だった。なんだかやけにご機嫌で、にんまりしてばかりいる。
そう、にんまりだ。
彼の笑顔は「にこにこ」ではなく「にまにま」なのだ。今にも踊り出しそうな喜びのオーラを放ちながら、普段とは明らかに違う種類の笑みを浮かべている。
何かあったの?
よっぽどあたしに会いたかった……とか?
……ううん、それにしては何かがおかしい。
だって今はデートの最中で、喫茶店で苺のケーキを食べている。
いつもなら、ケーキを食べるあたしを見つめて笑みを浮かべてくれるのに。それなのに、なぜか今日はケーキの上にちょこんと乗っている苺に目を留めて、表情を緩ませている。
えっ。
あたしじゃなくて、苺なの!?
そりゃ美味しいけどさ。あたしだって大好きだけどさ。にやつきながら苺をフォークで刺した後、あたしにどうぞって差し出してくれたところなんかは、いつもと変わらないけどさ。パクって口の中に入れたら、甘酸っぱくてジューシーで蕩けそうになったけどさぁ……
でもなんか、釈然としない。
おかしいといえば、お兄ちゃんもおかしい。
トーストにはバター派の癖に、朝食のパンにイチゴジャムを塗りたくっている。それもここんとこずっとだ。兄はあたしよりも朝が早いので、朝食がかち合わない日もあるけれど、ジャムの減るスピードが倍になっているからすぐわかる。ちなみに両親は、朝は米派だ。
そういえば前にもこういう事があった。あれは確か、あたしがまだ小学生で兄が中学生の頃だったと思う。一時だけ、兄がやけにイチゴジャムばかり食べていた時期があったのだ。
そりゃ美味しいよ、イチゴジャム。あたし大好きだもん。毎日食べてるもん。だから兄にイチゴジャムのブームがやってきたとして、その気持ちは痛いほど分かるんだけど……正直、あたしにとっては迷惑でしかないブームだ。
今朝もキッチンに入ると、イチゴジャムをたっぷりとのせたトーストを兄が嬉しそうにかじっていた。嫌な予感がする。
恐る恐る台所の流しに目を向けると、イチゴジャムの空き瓶が片隅に置かれていた。残りわずかにまで減っていたジャムが、綺麗さっぱり無くなっている。昨日ちょっぴり危機感を抱いたものの、ギリギリ2人分残っているよね……なんて思っていたのにさ!
ああ……あたしのイチゴジャムが……
お兄ちゃんめ、にわかのくせにぃぃぃぃぃ!
朝食の後、あたしに料理を教えにやってきたユウくんにその話をすると、いつにも増してにやけた顔をして「兄妹そろってイチゴが好きだね」と言われてしまった。そんなお揃い嬉しくないし。
仲良し兄妹だなぁとにやにやされても……それならちゃんとあたしの分のジャムも残しておいて欲しかった。現状取り合っている状態だから、仲なんて全然良くないと思う。むしろライバルだ。
ついに耐えかねて、あたしはユウくんを問い詰めた。
「ねえユウくん。どうしてそんなににやけているの?」
「えっ……に、にやけてるかな?」
「もしかして自覚ないの? ユウくんの口元、ゆるっゆるだよ」
「うっ……」
ユウくんは恥ずかしそうに口元を覆った。キョロキョロと左右に視線を揺らして、人差し指を一本立てて口元にそっと当てる。
「……あのね雛ちゃん、これ内緒だよ?」
「うん?」
「あのさ。あの麟がさ…………」
お兄ちゃんが……なに?
ごくりと喉を鳴らしてじっと耳を傾ける。ユウくんの口元が動くのを固唾を飲んで見守っていると、次の瞬間、緩みまくっていたユウくんの表情が、一転して無になった。
「……なんでもない」
「え―――!!! お兄ちゃんが何なのよ。そんな半端なところで止めないで、気になるじゃない!」
「なんでもないんだ、雛ちゃん」
「分かった、あの性格の悪さが大学でついに露見したんでしょ。冷たい言葉とこわ~い目つきに、女の子達がようやく震えあがって目を覚ましたと見た!」
「…………あの雛ちゃん、後ろ」
「お姉さんたち、やっと真実に気づけたのね……ってあれ? なに? 背筋がすーっと冷えてきた……」
「ふぅん、真実か……おまえにもたっぷり教えてやろうか?」
ひえっ、凍てつきそうな声が聞こえてきた……
寒気がして振り向くと、バックにブリザードを背負った兄が背後に立っていた。やだ、睨まないで下さいお兄様。わざわざ教えて頂かなくても、真実なんて熟知していますから十分です!
鬼兄に恐れをなしたのか、結局ユウくんは続きを語ってくれなかった。
翌週の週末。
金曜日の夜、あたしはいつものように2階にある自分の部屋から窓の外を眺めていた。
そろそろユウくんが帰ってくる頃合だ。
「あれ? 1人多い」
ユウくんはいつも兄と2人で帰路につく。でも今日は、ユウくんと兄の間に知らない女の子が挟まっていた。
誰あの子。暗くてよく分からないけれど、恐らく小学校の高学年から、いいとこ中学生くらいの年齢の子のようだけど……。
どうして3人で歩いているんだろう。迷子というような年でもなさそうだし、知り合いにしては学年が違いすぎる。兄の追っかけの子かとも思ったけれど、あの兄がそんな子と大人しく一緒に歩くわけがない。
「ユウくん、おかえりなさい」
「雛ちゃん!」
玄関を開けると、寒い夜空の下であたしに微笑む彼がいた。いつもなら駆け寄って抱きつくところなんだけど……
ユウくんの背後に衝撃的な映像が映っている。兄が謎の女の子の手を引いてどこかに行こうとしてるのだ。あたしはぱかっと口を開けたままその場に立ち尽くした。
「お兄ちゃんったら、あの子をどこへ連れてく気なの……?」
「どこって……家まで送って行くつもりじゃないかな」
ユウくんはけろりとした顔で言うけれど……後ろ姿を見る限り、兄がいたいけな少女をどこかへ連れ去ろうとしているようにしか見えないんだけど……
「そもそも、誰なのあの子」
「それは―――…その、あの、麟に直接聞いてとしか……」
「え? 言えないの?」
「僕が勝手に喋ったら、たぶん怒るんじゃないかなあ」
言えないような関係の子なの……?
あたしは目を見開いて、遠ざかる2人を穴の空くほど凝視した。ど、どんな関係なんだろう。まさか兄の隠し子とか? いやいやいや、それにしては大きな子すぎる。
女の子は暴れる様子もなく、大人しく兄に手を引かれている。無理矢理とかではなさそうだ。じゃあ彼女なの……?
でもあの子、小さいよね。お兄ちゃんがでかいってことを差し引いても、小さいよね。どう見ても、11、12くらいの年の子に見えるんだけど……
まさか、言えないってそういうこと?
小学生の子と付き合ってるのっ!?
お兄ちゃん……それって犯罪って言うんじゃない……?
そこであたしははっとした。我が兄は、口も態度も悪い鬼のような兄だけど、顔だけは無駄に良いのだ。女の子なんてより取りみどりの状態なのに、兄に彼女がいないのは……いなかったのは……もしやそーいう趣味があったから!?
そういえばお兄ちゃん、中学の頃に彼女がいたけど、1週間で別れたとか言ってたよね。
いくらなんでも早すぎるなとは思っていたの。1週間なんて、スピード破局もいいとこだなって。そりゃ意地悪な兄だし、あの鬼っぷりに1週間で音を上げたのかと思っていたけれど……
ちびっ子を騙して彼女に仕立て上げたものの、1週間で相手の親にバレて破局したというのが、ことの真相なんじゃ……!
もしかして、あの子やばくない?
このまま放置していいの?
助けてあげなきゃだめなんじゃ……!
「ちょっ、どこ行くの雛ちゃん!?」
「お兄ちゃんの後を追いかけるのよ。あの子を魔の手から救ってあげなくちゃ」
「やめなよ。後をつけるだなんて、麟にばれたら怒られるよ」
「だって……ほんとに家に送るだけなの?」
「まあ時間も時間だし、これから2人で夕飯食べに行くかもね」
これから夕飯!?
表情を凍り付かせるあたしと対照的に、ユウくんはすっかり小さくなった2人の姿を微笑ましそうに見つめている。
小学生を夜遅く連れ回すだなんて……!
「お兄ちゃんたら正気なの? ご飯食べて、その後は? まさか、どこかに連れ込んでいかがわしいことする気じゃないよね……」
「えっ」
ユウくんが弾かれたようにパッとあたしの顔を見た。
あたしの発言が、よっぽど思いもよらない内容だったのだろうか。目を丸くして、パチパチと瞬きを繰り返している。
「あ……雛ちゃんも、そういう想像するんだ……」
あれ?
あたしの想像は……
お兄ちゃん幼女趣味説は、もしや間違ってる?
よく考えると、兄はともかくユウくんは常識のある優しい大人だ。そのユウくんが兄とあの子を2人きりにした挙句、慌ても騒ぎもせず静観してるってことは……
心配するような関係じゃないってこと?
じゃあどんな関係なんだろう。
そもそも小学生がこんな時間に出歩くなんて、親は絶対心配してるよね。高校生のあたしですら、ユウくん曰く「おばさんが心配してる」んだもん。それなのにユウくんはその事に何も触れる様子はない。
あの子、複雑な家庭環境の子なのかな?
詳しく語れないのはナイーブな事情があるのかも……
よし、深く考えるの、やめ!
犯罪者の妹にさえならなきゃなんでもいいや。それよりも、久し振りに会うユウくんとの時間の方がずっと大事よね。
「ねえねえ。今日さぁ、お父さんは飲み会だしお母さんは女子会で、おうちに誰もいないんだ。だからユウくん、うちにおいでよ!」
「ぶっ!」
「お兄ちゃんも食べて帰るんでしょ? だったらお兄ちゃんの代わりにあたしと夕飯食べようよ。ユウくんにちょっと見せたいものもあるし、後であたしの部屋に行こ!」
「……お、おじさんもおばさんもおうちにいない……」
「うんっ。お母さんはおばさんとご飯食べに行っちゃった。飲んでくるから遅くなるって。だから、今夜はユウくんとあたしの2人だよ」
「そっか。…………。じゃ、また明日!」
「え――っ? 信じらんない、どうしてこの流れで帰ろうとするのよ……」
「どうしてって……」
誰もいないから、2人っきりでゆっくり出来ると思ったのに!
むくれながら文句を言うも、ユウくんはひたすら困ったように眉を寄せている。うろうろと視線を彷徨わせた後、キリっと目に力を込めてあたしを見据えた。
あ、これ。お説教の顔つきだ。
「あのさ雛ちゃん」
「なに?」
「雛ちゃんはさっき想像したようなこと……僕もするかもしれないって思わないの?」
さっきの想像って……ユウくんが小学生の女の子に付きまとうかもってこと……?
「え? 思わないよ」
なに言ってんの?
ユウくんはノーマルでしょ。だってあたしと付き合っているんだもん。
そりゃみんなには、お子様だってよく言われるけどさ。でもそれは中身の話であって、見た目はフツーの女子高生のはずだもん。
そう。あたしというものがありながら、ユウくんが小さな女の子を追い回すはずがない。
「ユウくんがそんなことするわけないよね。そのくらいあたしだってちゃーんと分ってるよ」
「あ、そう。僕は信用されてるのか。そうか……でもそれはそれでなんというか……何もそこまで信用しなくても……」
「信じてる。だってユウくんはあたしのことが……好きなんでしょ?」
ユウくんの服の裾を軽く引っ張って、ちらりと窺うように上を向いた。
視線がかち合って。彼の瞳がふっと細められていく。ゆっくりと彼があたしに近づいて、想いを形にするように、あたしの額に温かいものが落とされた。
「うん、――――好きだよ」
熱の孕む声がする。
大切な宝物を扱うように、彼の腕がふわりと優しくあたしを包んだ。胸がキュッと切なく締められて、頬が熱を帯びていく。
「好き。好き。あたしも好き」
しがみつくように、ユウくんの身体にぎゅっと腕を絡ませた。コートから彼の匂いがする。あたしを受け止めてくれる温かな人が今、ここにいる。
大好き。大好き。この人が、堪らなく好きだ。
このままユウくんを家の中に押し込もうと、さり気なく立ち位置を変えて、腕に力を込めてみた。
いい雰囲気だったはずなのに、彼はにこやかな顔のままあたしの腕をすり抜けて、爽やかに笑みながら隣の家に消えてった。