15 ピンク色の幸せ
扉の前でたっぷりとにらめっこをしてから、チャイムを鳴らすと、10秒と経たないうちにガチャガチャと鍵を開ける音がした。
「雛ちゃんっ!」
「ただいま……」
ほどなく開いた扉から、ユウくんが現れた。彼の頬は昨夜ほどではないものの、やはり熱っぽく赤らんでいる。あたしと目が合って、ユウくんがホッとしたように眉を下げ、息を吐いた。
「おかえり」
それから不思議そうに首を傾げて、きょろきょろと周囲を見回している。
「あれ、麟は?」
「あとで帰るって」
「えっ……?」
あたしは彼に手を伸ばして、赤く色づく頬に指を滑らせてみた。ああ、そうだろうなぁとは思っていたけれど。
ユウくんのほっぺた、……熱い。
「……雛ちゃん?」
指先を離して、戸惑う彼のそばをすり抜けていく。買ってきたものを冷蔵庫の前に置いてから、部屋の中をぐるりと見回すと、掛布団がめくられたままのベッドがふっと目についた。
敷布に触れてみたけれど、温もりらしきものはちっとも感じられない。ユウくん、寝てなかったんだ……。熱はまだ下がっていないのに。今は、横になりたいはずなのに……。
テーブルの上にはノートパソコンが開かれていて、画面を覗くと、美味しそうな苺のケーキが写っていた。さっきまで、ユウくんはこれを見て待っていたのかな。
―――あたしが戻ってきた時に、鍵を開けなきゃいけないから。
彼は眠らずに、起きてあたしを待っていたのだ。
『侑に迷惑かけてんだから』
ああ、お兄ちゃんの言う通りだな。
あたしは、役に立つどころか―――ユウくんの、邪魔をしているだけだった。
涙がじわりと浮かび上がってきて。真っ赤な苺の輪郭が、どんどんぼやけて、まあるい水玉になっていく。
「あ、そのケーキ、雛ちゃん好きそうだなと思って。今週はちょっと無理だけど、次の週末にでも一緒に行こうか」
パソコンの画面をじっと見つめていると、玄関からユウくんが部屋の中に戻ってきた。
その口調はとても優しくて、咎める様子はどこにも見あたらない。あたしは昨日から彼に迷惑をかけ続けているのに。あたしのせいで、ゆっくりと眠ることが出来ないでいるっていうのに。
怒るどころか。
美味しそうな苺のお店に、あたしを連れて行ってくれるだなんて。
彼は本当に、大人で。あたしは本当に、子どもで。ユウくんはいつもあたしを喜ばせてくれるのに、あたしはちっとも、ユウくんの喜ぶことが出来ないよ……。
「……って、どうしたの雛ちゃん!」
「ごめんなさい……」
「え、このお店、そんなに、泣くほど嫌?」
「違うの……その、昨日からずっとごめんなさい……」
あぁ、一つだけあった。
今のあたしが出来る、彼の喜んでくれること。
「あたし、おうちに帰るね」
「えっ? あ、うん……」
「あたしがここにいない方が……ユウくんも喜んでくれるよね」
「雛ちゃん……?」
ユウくんがあたしに手を伸ばしかけて、止めた。
「今はちょっと、抱きしめてあげられないんだけど」
そういって、悔しそうに手のひらをぎゅっと握り締める。
どうして、止めちゃうのよ。
昔からあたしが泣いていると、ユウくんはいつもあたしを慰めようとしてくれた。温かい手を伸ばして、あたしの頭を撫でたり抱きしめたりしてくれていた。
あたしはそれが大好きで、彼のぬくもりに触れるとすぐに泣き止んでいた。ユウくんの手は魔法の手。彼は昔から、あたしを落ち着かせる天才だったのだ。
今、あたしはそれが欲しいのに。
恨めしそうに見つめるも、もどかしそうに彼が眉を寄せている。少し逡巡するように視線を彷徨わせたあと、彼が思い切りばつの悪そうな顔をした。
「雛ちゃんには早く自宅に帰って欲しいんだけど。でも雛ちゃんがここに居て……本音を言えば嬉しいんだよね………」
「え……?」
「昨日はものすごく驚いちゃったけどさ。本当は、会えなくてガッカリしていたから……こうして雛ちゃんと会えて、声が聞けて、実はこっそり喜んでいたりする……」
びっくりして、パチパチと数回まばたきをした。
うっそ。あんなに帰れ帰れとうるさかったのに。ユウくん、あたしと会えて喜んでいたの……?
「僕の方こそせっかくの週末なのに、熱出してごめんね?」
「ううん、ううん……あたしが悪いの。何も考えずにここまで来ちゃったから……。ユウくんは来なくていいって言ってたのにね」
「雛ちゃんにはこの風邪、絶対にうつしたくなかったからね……」
そういえば最初に電話でそんな事を言われた気がする。来るなと言われた事ばかりが頭にこびりついていて、すっかり忘れていたけれど。あたしに風邪をうつしたくないから……だからあんなにも必死に、あたしを家に帰らそうとしていたんだ。
ユウくんはあたしのことを、ちゃんと考えてくれていたのに。
あたしは、頭の中で描いていた理想ばかりを求めていて、現実の彼の想いをちっとも分かっていなかった。
ユウくんが照れくさそうに頬を掻きながら、笑みを浮かべてくれている。
やっと、彼があたしに笑ってくれた。
「うつされても良かったのに」
でも。そこはちょっと不満なのよね。心配してくれるのは嬉しいけど、ユウくんの風邪もらってもいいから色々してあげたかったのに。
「僕が嫌なんだよ」
「あたし、ユウくんの看病がしてみたかったのになぁ……」
「そんなに焦らなくても……。どうせこの先ずっと、僕が寝込むたびに嫌でも雛ちゃんが世話することになるんだから……」
「え?」
「あっ……」
慌てて口元を覆い隠しながら、彼がしまったと言わんばかりに大きく目を見開いている。ユウくんの顔が、みるまに首まで真っ赤になっていく。
数秒ほど見つめ合った後、気まずそうに彼が視線を逸らした。2人の間にしばらく沈黙が降りて。それから、瞳に真剣なものを宿しながら、彼が再びあたしに向き直ってきた。
「……今はまだお互い学生だから、具体的な話はもっと先になるけれど。僕としては一生、雛ちゃんが側にいてくれたら嬉しいなと思ってる……」
あたしと、一生?
「………嫌?」
それって。それって……
ユウくんが真っ直ぐにあたしを見つめている。その瞳はしっかりと熱を帯びていて、あたしの心臓がどくどくと大きな音を立てていく。
嫌だなんてとんでもないよ。
だってあたしも……あたしも同じ気持ちなんだもん……
「ううん、嬉しい。あたしも一生、ユウくんの側にいたい……!」
抱きついて、しまいたいけれど。
うつしたくないと言ってくれた彼の想いを尊重して、あたしはぐっと我慢をした。ユウくんもあたしと同じ気持ちでいるのか、腕がふるふると震えている。
その様子を見て、自然と笑みが零れてきた。
――――ほら、ユウくんは天才だ。
今も昔も、そしてこれからも。
あたしを幸せな気持ちにさせてくれる、天才なんだ。
◆ ◇
帰る前に、昼のお粥だけは作らせてくれと頼みこんでみた。ダメ元でお願いしたけれど、案外あっさりとあたしのお願いをユウくんは受け入れてくれた。
「お粥だけど、昨日の残りがまだ冷蔵庫にあるんだ。それを温めてもらえると嬉しいな」
昨日の残り物……。
一から作る気でいたのに、なんだか肩透かしをくらった気分だ。あからさまに落ちたテンションで冷蔵庫を開けると、ユウくんの言う通り、ラップのかかった小さな鍋が入っていた。これ、昨日お兄ちゃんが作ったやつなんだろなぁ……。またしても、兄に先を越されてる。
憎らし気に鍋の中のお粥を見つめながら、火にかける。それからふっと思い立った。
やばい。あたしって天才かもしれない。
「さっきね、お粥の材料も一緒に買ってきたの」
「そうなんだ」
「折角だしここに入れちゃうね」
「え? て雛ちゃん、あの、その、お粥、白いままで充分だよ?」
「え~、それじゃもの足りないでしょ? 安心して、栄養たっぷりのお粥にあたしがリメイクしてあげる」
兄の作ったお粥は真っ白だった。
このままだと味気ないよね。
風邪を早く治すためにも、栄養のあるものを取らなくちゃ。
買い物袋の中身を漁り、食べられそうなものをまな板の上に置く。卵を見つけたので、嬉々として鍋に放り込んでみた。ユウくんが心なしか青い顔をして、もの言いたげに手のひらをこちらに向けたまま、あたしの手元を穴のあくほど見つめてる。
「ユウくん顔色悪いよ? 気分が悪いなら大人しくベッドで寝てないと」
「……まあ、味は大丈夫なんだし、ジャリジャリとした歯触りのお粥だと思うしかないか。……うん。大丈夫。カルシウムカルシウム。このくらいなら僕はまだまだ頑張れる……」
「なにぶつぶつ言ってんの?」
「ってなんで苺まで鍋に突っ込んでんの!?」
「風邪と言ったら苺でしょ。ビタミンCをたっぷりとるといいんだよ」
「ビタミンC、ビタミンC……って、か、加熱したら壊れると思うけど……」
ますます顔を青くさせて、ユウくんが大きく肩を落とした。
ユウくんの体調、昨日よりマシになったと思っていたのになぁ。これって昨日より酷くなってない?
お粥食べて、元気になってくれたらいいなぁ……。
ピンク色の可愛いお粥を器によそい、レンゲに掬ってフーフーと息を吹きかける。
そう、あたしはこういうのがしてみたかった。
あたしも、ユウくんを元気にする天才に、なりたいなぁ。
幸せに打ち震えるあたしが、彼の口元までレンゲを運んだ瞬間……突然肩をポンと叩かれた。
振り返ると、いつの間に帰って来たのか、兄があたしの作ったお粥を見て表情を凍らせている。嫌な予感がする、とあたしが警戒するよりも早く、お粥は強引に取り上げられてしまった。
なんて酷いんだ。ほんと、兄は意地悪だ。そのままわめくあたしをスルーして、鬼のような兄はあたしを家まで連れて帰るのだった。