12 嵐の週末
お兄ちゃんばっかり、ずるい……!
金曜の夜8時過ぎ、パンパンに膨れ上がったボストンバッグを抱えて、あたしは家から飛び出した。
真っ暗な闇の中、街灯の光と、月の明かりがわずかにあたしを照らしてる。12月の夜風は冷たいはずなのに、昂っているせいか、寒さはあまり感じなかった。
木曜の夜、兄が帰って来なかった。
大学で熱を出して倒れたって、母から聞いた。歩ける状態ではないから、ユウくんちに泊まっていくんだとか。どうやら、ユウくんの手厚い看護を受けているらしい。
……なんって羨ましいの……
あたしは断られまくってるのに、あっさり泊めてもらえるなんて……!
熱? 熱出せばお泊りできちゃうの?
ああっ。お泊りごっこの前日に、水風呂にでも入って、身体冷やしておくべきだった……!
うなだれるあたしに、翌日、更なる悲報が届けられる。
「ごめん雛ちゃん、今週は会えない……」
が――――ん。
週末の楽しみが、綺麗さっぱり消えさった。ショックを受けるあたしに、ユウくんがひたすらゴメンと繰り返す。しばらくして、疑問に思った。
ユウくんの声が、おかしい……。
寝起きの時みたいな、掠れ気味の鈍い声。気のせいか少し息が荒くって、そして時折咳込んでいる。これは、これは……!
「ユウくん、もしかして熱出してるのっ!?」
「ああ、うん……だからごめんだけど、今週は……」
「大変っ、あたし看病しに行くよ!」
「だ……ダメダメッ! うつるといけないから、絶対に来ちゃダメだよ!」
またもやうなだれる、金曜の夜。
そして今日も、お兄ちゃんは家に帰って来なかった。母に尋ねると、今夜もユウくんちにお泊りしてくるのだそうだ。熱は下がって、具合はすっかり良くなったけど、ユウくんにうつしてしまったようで……今度は、お兄ちゃんがユウくんの看病をするんだって。
ずるい……お兄ちゃんばっかりズルい……!
ユウくんちに、お泊りで看病!?
あたしははっきり断られたのに、お兄ちゃんは、いいの!?
そんなの、ダメダメだめだよね。
だってユウくんの恋人はお兄ちゃんじゃなくて、このあたしなんだよ?
そうだ。ユウくんのそばにいる権利は、兄よりもあたしの方にあるはずだ。
お兄ちゃんは引っ込んでてよ。
ユウくんのお世話は、彼女のあたしがするんだから……!
「ふふん。来ちゃった」
ユウくんの住むアパートの扉の前で、あたしは紺のボストンバッグから携帯を取り出した。
チャイムを鳴らそうかと思ったけど……前回の時みたいに、勧誘と間違えて出てくれないかもしれない。
不安を感じたあたしは、直接ユウくんに電話をかけてみた。
―――あ、もしかして、もう寝てるかな?
ふっと気になったけれど、たったの2コールほどでユウくんは出てくれた。
『雛ちゃん……?』
「こんばんはっ。ユウくん、起きてたの?」
『うん。昼間に結構寝たから、あんまり眠くなくて……どうしたの?』
「あのね。あたしど―――しても、ユウくんのそばにいたくって……、その、来ちゃった♪」
『………え………』
「今ねー、ユウくんの家の前にいるんだよー。上がらせて?」
『はああぁぁああああぁっ!?!?』
扉の向こうから、大絶叫が聞こえてきた。
続いて、病人らしからぬ勢いの足音が聞こえてきて、玄関のドアが即座にぱかっと開かれた。
◆ ◇
「ひ、ひ、ひ、雛ちゃんっ、な、な、な、なんでここに……」
はぁ、はぁ、と肩で息をしながら、ユウくんが大きく目を見開いている。
「だって、ユウくんが熱出したっていうから……」
「熱出したから、来ちゃダメだって僕言ったよね!? ……いや、もはやそれ以前の問題だ。雛ちゃん、分かってる? 今、夜の10時なんだよ!? こ、こんな時間に出歩いて……危ないじゃないか!」
「大丈夫だよ、ここに来るのもこれで3度目なんだもん。真っ暗だったけど、ちゃんと迷わず辿り着けたでしょ?」
「そういう問題じゃない! おじさんもおばさんも、今頃すごくすごく心配しているよ! そうだ雛ちゃん、おばさん達に黙ってここまできたんでしょ? 早く連絡してあげないと――――」
ユウくんの狼狽っぷりが、すごい。
頭から湯気が出てきそうな勢いで、まくし立てている。
でもね。
安心して。あたしはちゃんと、親に一声かけてきたの。
だって、コッソリ出て行こうとしたら、バレちゃったんだもん。だから開き直ってほんとのこと言ったら、あっさり見逃してくれたんだよね。
あたしは胸を張って、ユウくんににっこりと微笑んだ。
「お母さんなら平気だよ。だってあたし、出掛ける前にちゃんと言ってきたんだもん。『ユウくんちに行ってくる』って」
「―――――――っ、それで、止められなかったの!?」
「うん。あんまり遅くまでお邪魔しちゃだめよー、とは言われたけど……それは無理だよね?」
「それは……それは絶対にここじゃなくて僕の実家へ行ったと思われている………」
ブツブツと呟きながら、ユウくんがふらりと後ろに倒れていった。さっきまでタコのように赤かった顔が、寒さのせいか、真っ青になってしまっている。
幸い、ユウくんの倒れた先はベッドの上だったので、彼の背中は柔らかい布団に沈んでいった。
「もう、病人なんだから、ゆっくり寝てなきゃ」
ユウくんの両足がベッドからはみ出していたので、抱えあげて、ベッドの上に横たわらせた。足元に丸まっていた掛布団を彼の身体にそっとかけ、おでこにチュッとキスをする。
熱の下がるおまじない―――なんちゃって。
「麟、麟……」
ちょっと。こんな時までお兄ちゃんの名を呼ぶの?
「そういえばお兄ちゃんは、いないの?」
「間の悪いことに、今、お風呂に入ってる……」
「そっかー。あたしも後で入ろっと」
「いやいやいや。出てきたら、麟と一緒に帰るんだ……!」
「あ、そうだ! ユウくんの身体ふいてあげる!」
「へっ!?」
「汗いっぱいかいてるし、さっぱりしたいよね。レンジで蒸しタオル、作ってくるねー!」
「麟、麟、助けて、麟……」
ベッドの上で、ユウくんが兄の名を呪文のように呟いている。
だから。なんでお兄ちゃんの名を呼ぶの……
お兄ちゃんの看病は、黙って受け入れるくせに。
今夜だって、泊らせるつもりのくせに。
あたしは全く歓迎されてない……。
とぼとぼとキッチンに向かうと、洗いかごにあたしのプレゼントした土鍋がかけられていた。
……あ。これ、使ってくれてるんだ。
口元がにんまりと緩んでくる。あたしの選んだ土鍋、気に入ってくれたのかな。喜んで、くれたのかな。ふふっ。
ああ、あたしは単純かもしれない。
これだけのことで、さっきまでの沈んだ気持ちが薄くなっていく。
よし! がんばるぞ!
お兄ちゃんには負けないぞ!
明日はこの土鍋で、あたしがお粥を作ってあげよう。
ユウくんに食べさせてあげるんだ――――――
「――――――――おい、雛」
ひいっ!!!
土鍋の前で感動していたら、地を這うような低い声が背後から聞こえてきた。肩をポンと叩かれて、背筋がぞおっと冷えていく。
「いやぁっ、出たっ!!」
「それはこっちのセリフだ! おまっ、なんでここにいるんだよ!」
「それこそこっちのセリフだよ、なんでお兄ちゃんがユウくんちにいるのよ。このあたしを差し置いて……!」
「さ、つまみだしてやるから、帰れ」
「ひどいっ!」
兄があたしの両肩に手を置いて、ぐっと力をこめた。本気だ。
まずい、このままだと追い出されてしまう。
どうしよう。どうしよう……
「麟っ」
ユウくんの、軽やかな声が聞こえてきた。
さっきまでベッドの上でうなされていたのに、急に元気になったのか、意気揚々とあたし達の側へとやってくる。彼の右手には、あたしのボストンバッグが下げられている……
「僕はもういいから、雛ちゃんを家まで連れて帰ってあげて」
「分かった」
やだやだ、勝手に2人で決めないでっ!
ユウくんがホッとしたように兄を見上げている。安らかな笑みを浮かべている。なに、それ。ユウくんにとって頼れるのはお兄ちゃんであって、あたしじゃないってこと……?
悔しい。あたしはユウくんの彼女なのに、頼ってくれないんだ……。
お兄ちゃんの方が、いいんだ……。
悔しい……っ!
こうなったら、なにがなんでもここに居座って、役に立つとこ見せてやる――――!
あたしは、プチっと切れた。