10 いちごみるくの芳香
――――ちょっと、冷静になろうか。
11月の昼日中。僕はアパートのベランダで、ぼうっと外の景色を眺めていた。
空気はひんやりするものの、天気がいいせいか寒さはほとんど感じない。おかげで、火照った脳を冷やしたくてここに駆け込んだはずなのに、熱が取り切れないでいる。
雛ちゃんに、振り回されている。
こっちは3つも年上なんだ。あの子の前では、もっと余裕で構えていたいのに。悲しいかな、僕は3つも年下の女の子に、動揺させられてばかりいる。
ふぅ、と息を漏らした。
しょうがないだろ。だってあんな……
『背中流してあげよっか』
薄らいだはずの熱が、再びぶり返してきた。
頬があつい。追い払うように、首を左右に振り、ベランダの下に目を向ける。どこにでもあるような、平坦な風景をじっと見つめ、心の状態をなんとか元に戻していく。
ほんと、勘弁してほしい。
その気も無いのに、紛らわしい言動は、ほんっと慎んで欲しい。
…………。
無いよね、その気。
ない……と思うんだけど……じゃあなんで雛ちゃんは僕をお風呂に誘ったんだろう……。
一緒にお風呂だなんて、どう考えてもいかがわしいシチュエーションだよね。タオルを巻いて入るにしても、何かのはずみで見えても全然おかしくないわけで……。そのくらい、幾らあの子でも分かっているはずだよね。それなのにどうして、あんな事を……
そりゃ僕は、女の子から警戒されにくい見た目をしているけれど。人畜無害そうだとか、葉山くんなら安心安全だよねとか、割と好き勝手なことを言われてきたけどさ。でも、いくら僕でも、好きな子と2人きりでお風呂に入って、襲わない保証なんてしてあげられないんだけど。
そもそも恋人同士なんだし、一緒にお風呂に入る時点で、そういう流れになると考えるのが普通だよね……
…………。
もしかして、僕は誘われてたの?
だとしたら僕は、雛ちゃんに恥をかかせたことになる。女の子からそういうことを言い出すなんて、かなり勇気がいっただろうに、僕は見ないフリをして、彼女から背を向けたのだ。今からでも遅くない、風呂場に乱入するべきなのか……!
―――いや、待て待て。落ち着くんだ。
ちょっとその解釈は、自分に都合がよすぎだろ。雛ちゃんはあんなに可愛いけれど、恋愛経験はゼロに等しいんだぞ。なんてったって、僕が初恋だって言ってたからな……
僕が初恋、かぁ。
頬が緩む。過去は過去だし、気にしてもしょうがないと分かってはいるけれど、それでもやっぱり、自分が初めてだというのは特別に嬉しいものがある。
抱きしめた時に香る、彼女の甘い匂いを。柔らかな感触を、赤く染まっていく頬を。吐息を漏らして、潤ませている大きな瞳を、知っているのはこの世で僕しかいないのだ。
まあ、僕も恋愛経験たいしてないけどさ。
そりゃ、まあ。雛ちゃんが初恋ってわけじゃないけれど。でもここまで好きになったのは、雛ちゃんが初めてだし。もちろん付き合うのも、キスだって、雛ちゃんが初めてだ。
そう、僕もたいがい、初めての経験なのだ。
だからこういう時、どうしていいか分からなくて困ってしまう。
大学の人たちの話を聞いていると、付き合ってすぐに体の関係になっていたりするようだけど、それを鵜呑みにして真似るわけにはいかないし。
だって雛ちゃんは、まだ高校1年生だ。高校1年生には高校1年生なりのペースってものがあるんだ。僕が大学生だからって、僕に合わせて、大学生の恋愛事情と同じペースでことを進めちゃダメだろう。
びっくりして泣かれても嫌だしな……
そう。付き合う前に、僕は2度彼女を泣かせている。彼女への想いがどうしても止まらなくなって、あの子にとっては性急なことをして驚かせてしまっている。
もうあんな事はしたくない。雛ちゃんが納得してからじゃないと、僕は先に進みたくはないのだ。もう2度と、怖がらせて泣かせたくない――――
……それに、冷静に考えたらアレが、ないな。
僕は今頃になって、やっとその事実に気が付いた。そうだ、僕だって今まで彼女なんていなかったんだ。必要もないのに、備えてなんて、いない。その、いわゆる妊娠防止的な、アレ。
うん、良いカンジに現実が見えてきた。
風呂場に乱入なんて、とんでもないな……。
熱気が、急速に冷めていくのを感じる。
ほどよく頭が冷えてきたので、僕はベランダを後にした。
部屋に戻って、パソコンに向かって、来週のデートに使えそうな店を検索していると、雛ちゃんが風呂から上がってきた。無邪気な笑顔で僕の隣にやって来る。
「ねえねえ、いい匂いでしょ?」
雛ちゃんの言う通り、彼女の身体からは甘酸っぱい苺の香りが漂っている。
「甘い匂いがするね。シャンプーの匂い?」
「ううん、いちごみるくの入浴剤。絶対使おうと思って、とっておきのお気に入りのやつ持ってきたんだ」
雛ちゃんが得意気な様子で、僕に入浴剤のパックを見せた。頬は上気していて、白い肌の上でバラ色に輝いている。
あー、乱入しないでほんと良かった。
にこにこと嬉しそうに笑む彼女を見て、僕は密かに胸を撫で下ろした。
僕に向かって曇りなく笑う彼女の姿に、幼い頃の面影が見えた。
こういう無邪気な姿を見ていると、本当に実感する。雛ちゃんは、見た目は大きく成長したけれど、中身はまだまだ幼い頃のまま、あまり変わっていないのだ。
「もっとよく、嗅がせてくれる?」
そう言って優しく抱きしめると、雛ちゃんの身体がピクリと跳ねた。お風呂上がりだけあって身体が普段よりもずっと温かい。
「ユウくんも入ってきなよ。あたしと同じ匂いになれちゃうよ」
「いちごみるくのお風呂に僕が入るのか……」
「美味しそうな色してるけど、飲んじゃダメだよ?」
「飲まないよ……」
頬に、触れるだけのキスを落とした。
雛ちゃんの顔が、さっきよりもほんの少しだけ、赤くなっている。それから嬉しそうに、僕の胸元にぐりぐりと顔を押し付けてきた。
いちごみるくの匂いがふわりと広がってくる。
恋人同士になる前の、頭を撫でられているだけで満足していた過去の彼女を思い出す。恋を覚えたばかりの雛ちゃんは、今はまだ、ハグとキスだけで充分満ち足りているようだ。
頭を軽く撫でてから、僕はそっと身体を離した。いっそう表情を崩した彼女に手を振って、僕はバスルームへと向かうのだった。
◆ ◇
お風呂上がりのユウくんは、いつもとどこか違って見えた。
普段が優しいお兄さんだとすると、今は優しい男の人ってかんじがする……。あたしの語彙力が残念なせいで、全然上手く言えないんだけど。
湯上り美人なんてよく言うけれど。お風呂上りは女の子だけじゃなくて、男の子もカッコよくなるものなのかもしれないな。
「わ、もうこんな時間……」
ふっと時計に目を遣ると、10時30分を指していた。
わわ、もうあんまり時間がない!
ちょっと長風呂しすぎちゃったな。だっていちごみるくのお風呂、良かったんだもん。甘酸っぱい苺の香りはうっとりするし、ミルキーなピンク色のお湯はロマンチックだし……。
ドライヤーや着替えも含め、結局、1時間くらいあたしは浴室にこもってしまっていた。
思いのほか経過していた時に、あたしは密かに焦る。
ユウくんの事だから、ギリギリでも12時―――もしかしたら、11時の時点で家に帰らそうとするかもしれない……
「ユウくん、寝よ?」
「へっ!?」
ユウくんが、飲みかけの麦茶をのどに詰まらせた。ゲホゴホとむせた声を出している。
「早く、時間がないの!」
「ちょ、ちょ、ちょっと待って!?」
「悠長に待っている場合じゃないのよ!」
電気のスイッチを押して、部屋の色をオレンジに変えた。ユウくんがグラスをテーブルに置いたことを確認し、あたしは彼の腕をぐいと引っ張った。
のんびりなんてしていられない。このままだと、就寝前のお喋りが楽しめなくなっちゃう―――!
眠る前の、ひそやかなお喋りタイム。お泊りの醍醐味であり、メインとも言えるよね。
「ひ、引っ張っちゃ危ないって、雛ちゃん……!」
「きゃ……」
勢いよく引っ張りすぎたせいか、ユウくんの身体があたしの上に倒れてきた。幸い、あたしの背中はベッドの上だったので、体重がまともにかかることはなく、思ったよりも苦しくはなかった。
「ごめんっ!」
なぜかユウくんが謝りながら、顔をあげてあたしを見下ろした。視線がぶつかって、ほんのりと頬を染めたユウくんの顔がゆっくりとあたしに近づいてくる。
お風呂上がりの彼からは、いちごみるくの匂いが漂ってきた。
ちゅ、ちゅ、と、音を立てて、彼の唇があたしに降りかかる。愛しいものに触れようとするような優しいキスに、あたしはうっとりとして目を潤ませた。
――――はっ。
そうだ。ちょっと聞いてみよう。ユウくんへのプレゼント、何が欲しいのか。
電話で聞いたときは『いいよいいよ』って言われちゃったけど……今のこのいい雰囲気なら、ポロっと本音を口にしてくれるかも……
「ねえユウくん。欲しいもの、ない?」
「………え……」
あれ?
ユウくんが、急に動きを止めてしまった。
「あたし、ネックレスのお礼に、何かプレゼントがしたいの。欲しいもの、教えて?」
「いっ……」
「いいよいいよ、は無しだからね。遠慮しなくていいから、なんでも言ってみて?」
ユウくんが、口をぎゅっと引き結んでいる。
えー、そんなに欲しいもの、ないの?
「言えないの?」
「…………」
ユウくんが、あたしからぱっと視線を逸らした。
物欲ほんとないなぁ。あたしだったら幾らでも出てくるっていうのにさ。
欲しいものがないなら、どうしよう……。
ランチをご馳走する、とかかな?
まさかこの年になって肩たたき券なんて贈っても、変な顔されるよね。
あ、でもユウくん、わりと肩凝りする方なんだよね。
あたしの腕前でよければ叩いちゃうけど?
「プレゼントだけど、別に物じゃなくてもいいんだよ? あたしに出来ることならなんでもするけど……」
「……待って。ちょっと待って待って待って…………」
しばらくうわごとのようにマテマテと呟いた後。
「……ど、どど……」
「ど?」
「ど…………」
ユウくんが、うろうろと視線を彷徨わせ。
「ど、土鍋が、欲しいです…………」
そうして。
ようやく物欲のない彼が、あたしにおねだりをしてくれたのだった。