8 わくわくお泊りごっこ
僕のベッドに腰掛けたまま、雛ちゃんが部屋をぐるりと見回している。
「わーい、ユウくんのお部屋だ~!」
お泊りごっこ、すなわちおうちデートがそんなにも嬉しいのか、雛ちゃんはご機嫌のようだ。可愛い足をブラブラとリズミカルに揺らしながら、視線をあちこちに向けている。
僕の家は、典型的な学生の住むワンルームとなっている。特別変わった間取りでもなければ、ドラマに出てくるような広くて豪華な部屋でもない。ありふれた一人暮らしの男の部屋、決して、眺めて楽しいものでは無いと思うんだけど……
「ユウくんのお部屋って全然散らかってないね~。あたしの部屋よりずっと綺麗だよ」
なぜか雛ちゃんは楽しそうだ。
そういえば、昔っからからこうだったな。雛ちゃんは僕の部屋に入り浸るのが大好きで、面白みのない僕の部屋でいつも楽しそうにしてたっけ。
時折、彼女にとっては興味深い、僕にとってはどうということのないものを発見しては、目を輝かせていたのを思い出す。
『ねえねえ、ユウにぃ。これなあに?』
にこりと持ち上がる口の端。ぱっちりと開いた瞳に、弾む声。生き生きとした彼女の姿は、あの頃からちっとも変わらない。
しかし。あんまりキョロキョロされると、ちょっと緊張するな。
見られて困るようなものなんて、放置していなかったはずだけど……。
たぶん。たぶん……
「そこそこ片付いてる方だとは思う。でも、麟の部屋もこんなもんだよね」
「あたしね、お兄ちゃんの部屋は立ち入り禁止を言い渡されてるの。酷いと思わない?」
麟の名前を出した途端、彼女の頬がぷくっと膨れた。
不満そうにしているけど、雛ちゃん。
……それ、絶対過去に何かやらかしたな。
「よし、ここに決めた!」
にっと口角をあげて、雛ちゃんがベッドからぴょんと飛び降りた。
ボストンバッグの中からラズベリー色をした可愛い置時計を取り出して、小さな顔の横に並べてくるりとこちらに向き、僕ににこっと微笑んだ。
「只今の時刻は、ごご、4時、30分です♪」
―――いや、違うだろ。
雛ちゃんが僕の部屋にやってきて、まだ30分すら経ってない。
「あのさ雛ちゃん、今はまだ午前中だよ?」
「そんなことくらいちゃんと分ってるよ! 外の世界は現在午前の9時30分。でもこのおうちの中は、今は午後の4時30分なの。おっけー?」
「……なに、その設定」
「どうせならリアリティを追求しなくっちゃ」
大真面目な顔をして、雛ちゃんがチェストの上に時計を置いた。愛らしいラズベリーの色味がこの部屋にまるでそぐわなくて、一際パッと目に入る。
彼女の言う通り、時計の針は4時30分を指していた。実際の時間よりも、およそ7時間ほど針が進んでいる。
「ねえ、ユウくん。今夜はおうちでごはん食べようよ」
「―――ん? 夜は家に帰るよね」
「そうじゃなくて! 今は4時30分でしょ? だから、あと3時間くらいで晩御飯の時間になるの。おっけい?」
「あぁなるほど……」
本当は昼の12時だけど、夜の7時のつもりになって『夕飯』を食べるという事か。
7時間先の時間になったつもりで過ごす……どうやらこれが、彼女にとっての『お泊りごっこ』というものらしい。理解した僕は彼女に合わせることにした。
「雛ちゃんは、『夕飯』ここで食べたいの?」
「うん。だってせっかくの『お泊り』なんだもん。お外じゃなくて、おうちがいいな」
なんとなく分かってきた。『お泊り』なんて単語を口にしてるけど、ほんとに泊まると言う意味じゃなくて雰囲気で言ってるだけなんだよね。夕方には帰るって言ってたしね。
僕を見上げる雛ちゃんの瞳が、期待に染まりキラキラと輝いている。
了解了解。雰囲気を味わうだけで喜んでくれるなら、いくらでも僕は君に付き合うよ!
「じゃあ買い物行こうか。今、冷蔵庫の中たいしたもの入ってないんだ」
「うんっ!」
雛ちゃんのしなやかな手が、僕の指先に触れてくる。行く先は近所のスーパーなのだけど、僕の心は明らかに弾んでいた。
――よし、今日はいい1日になりそうだ!
◆ ◇
ユウくんのアパートから10分ほど歩いて、あたし達は目的地に到着した。
店内に入ると、ユウくんが入り口付近に並べてあるカートを手に取り、それにレジカゴをセットした。持参したエコバッグをカートの取っ手にぶら下げて、通路を進んでいく。その一連の動作があまりにも自然で、あたしは小さく吐息を漏らした。
「ユウくん、すごい……手慣れてるね」
「一応、ちゃんと自炊してるからね。ここ、品揃えは薄いけど家から近いんで、よく来るんだよ。あ、卵安いな、買っとこ」
そう言って、ユウくんが卵のパックをカゴに入れた。側にあるポップには、ワンパック98円と書かれている。
ふーん、これって安いんだ。
「牛乳も切らしそうだし、ついでに買っとくか」
ユウくんの視線の先を辿ると、あたしの横に幾つかの牛乳パックが並んでいた。そのうちの一つに半額と書かれたシールが貼ってある。
「あ、これ安いよ! 半額だって」
得意気になって、シールの貼られた牛乳を手に取り、カゴに放り込もうとすると、ユウくんが困惑の表情を浮かべながらそれをやんわりと押しとどめた。
「ごめん雛ちゃん。これ安いけど、賞味期限が今日までだから別のにして?」
「…………」
なんだろう、この敗北感。
そもそもユウくんは、あたしよりもずっと料理が上手なんだけど……買い物の時点ですでにあたしとの差をかんじる……
がっくりと肩を落としていると、ユウくんが慰めるように頭を撫でてくれた。ユウくんは本当に優しい。
「雛ちゃん、夕飯なにかリクエストある?」
「ん……そうだね、あたし、ユウくんの好きなものがいいな」
「え? 僕?」
「うん。どうせ作るなら、ユウくんが食べたいものを作りたいじゃない?」
「……え………」
そう、今日はあたしが夕飯を作るつもりだ。
ネックレスのお礼に何かお返しがしたくって、欲しいものを彼に聞いてみたけれど、返ってきた答えは全くもってあたしの予想を裏切らないものだった。
『いいよ、いいよ』
って、だめ! そんなのだめ! あたしはちゃんとお返ししたいの!
そんなに遠慮するのなら、せめて、夕飯くらいはあたしに作らせて!
そりゃユウくんほど上手くは作れないだろうけど。というかカップラーメンくらいしかまともに作れないあたしだけど、安心して。
ちゃんとしたレシピさえあれば、後は気合いと根性で、きっとなんでも作れるはずだから……!
決意に満ち満ちたあたしに、ユウくんはなぜか笑顔のまま一瞬時を止めた。
「……い、いいよいいよ、雛ちゃんはお客さんなんだし、僕が作るよ」
「いいよいいよ、ってユウくんそればっかり言うよね……。あのね、あたしはお客さんじゃなくて、彼女なんだよ? ねえねえ、彼女の手料理ってやつ、ユウくんは食べてみたくないの?」
「た……食べてみたくない事もないけど、もっと先でもいいかなぁっていうか……雛ちゃんこそ、彼氏の手料理ってやつ食べてみたいよね、ね?」
妙に強い口調で念押しされたけれど……ユウくんの作るご飯とか何度も食べたことあるもんっ!
「ネックレスのお礼も兼ねてご馳走したいの! あたしの作ったご飯、食べて欲しいな!」
「ネックレスのお礼って言うならさ、僕の方こそご馳走させてよ! 料理って結構好きだし、僕としては雛ちゃんに食べてもらえる方が断然嬉しいんだけどな、ね?」
ユウくんへのお礼であたしがご馳走されるとか、意味わかんないしっ!
あたしも負けじと詰め寄るものの、ユウくんは、普段とは違ってなぜか一歩も引こうとしなかった。
◆ ◇
買い物を終えて家に帰ると、もう5時半を回っていた。
ベランダの窓から明るい昼の光が差し込んでいたので、厚手のカーテンを引いて部屋を暗がりにする。蛍光灯のスイッチを押して、人工的な明かりをつけた。
ユウくんの謎理論とあたしの正論がぶつかり合った結果、夕飯は一緒に作る事にした。
メニューはハンバーグ。時間も時間だし、早速夕飯の支度を始めなくっちゃ。
張り切って、持参したエプロンを身にまとう。携帯でハンバーグのレシピを検索していると、その隣でユウくんが手際よく玉ねぎを刻み始めた。
すごい、レシピ見なくても作れるんだ……
あたしはそっと携帯を閉じた。
ユウくんに、聞こ。
現実を突きつけられたあたしは、大人しくユウくんを師として仰ぐことにした。
「ねえユウくん、あたしは何をしたらいい?」
「あ、そこで僕の応援でもしてくれる?」
え、応援て、料理に入るの?
入んないと思うな、あたし!
あたしはむくれながらユウくんににじり寄った。
「あたしは真面目に聞いてるの」
「じょ、冗談だってば。じゃあ……、レタス洗って適当な大きさにちぎってくれる? 出来たら、このボウルの中に入れといて」
「了解です、先生!」
「洗剤なんて使わなくていいからね。流水だけで十分だから」
ユウくん先生は穏やかに微笑みながら、冗談のような注意事項をあたしに告げてきた。
……ユウくんてば、あたしを一体何だと思ってんのかな。いくらなんでもこのあたしでも、野菜洗うのに洗剤なんて使わないしっ!
納得いかない。使いかけのレタスを冷蔵庫から取り出して、一枚、乱暴に葉を剥がす。切り口の部分が赤い色に染まっていて、汚い。スポンジで必死にこすってみたけれど、びくともしない……。
「ねえねえ、この赤いのってカビ? 全然落ちないんだけど。タワシどこ?」
ユウくんがぎょっとした顔をして、あたしの手からレタスを奪った。
「ちょっ、雛ちゃん! その赤い部分は汚れじゃないからね? 変色してるだけだから全然問題なく食べられるけど、見た目が気になるなら貸してよ。切るから」
そうなんだ。さすが先生、詳しいな。
でも、言ってくれたらレタスくらい自分で切るのに……。
その後も始終この調子で、なぜか、妙な扱いをあたしは受け続けるのだった。