7 突撃!お宅訪問
静かなワンルームの部屋の中、目覚ましのアラームが音を立てている。
ゆっくりと瞼をあげ、僕はぼんやりとした頭のまま枕元の携帯に手を伸ばした。アラームを解除し、起き上がろうとして、今日が休日だという事にふと気づく。
そういえば、今日は祝日だったな。
しまった。せっかくの休日なのに、普段通りの時間に目を覚ましてしまった。いや今日は2限からの日だったから、決して早くはないけれど、それでも可能なら、だらだら寝ていたいと言うのが正直なところである。
アラームの設定を外しておけばよかった。不必要に起こされて、なんだか損した気分だ。
順当に2度寝でもするか。
特にやることもないし。
雛ちゃんに会いたくて、僕は週末の度に実家に戻っている。今回のような、平日の合間に挟まれた単発の休日はどうするか、散々迷った末、僕は帰らずここで過ごすことに決めた。
本音を言えば帰りたい。
少しでもいい、あの子の笑顔を見て癒されたい。電話越しなんかじゃない、クリアな彼女の声を聴いていたい。温かい生身のあの子に、触れていたい。
けれど、僕はぐっと我慢をして今ここにいる。
だってさ。
たった一日の為に向こうに戻るだなんて、なんだか余裕がなさすぎる気がして……
それにただでさえ、週末はずっと僕が側に張り付いているのだ。せっかくの休日なのに、彼女の予定を僕だけで埋めるのもどうかという気もした。
雛ちゃんだって、僕に会うばかりでなく、他にやりたいことだってあるだろう。たまには友達と出かけたりもしたいだろ。
どうせ週末になれば会えるんだ。普段だって平日は会っていないんだから、一日ぐらい平気だろ……
なんて、自分に言い聞かせている。
こんな過ごし方をするのもこれで2回目だ。会えないと分かり切っている平日よりも、敢えて会わずに過ごす祝日の方が、ずっとキツイな……
枕に顔を埋めてぼんやりしていると、チャイムの音が聞こえてきた。
こんな朝早くに誰だよ。まぁ、もう9時すぎてるけど。
麟なわけないし。他に朝からやってくるような心当たりもない。きっと勧誘かなにかだろう。ろくでもない訪問の類だと断定し、僕は布団の中に潜り込んで素知らぬふりを決めこんだ。
ピンポン、ピンポン、ピンポーン!
ドアの向こうのお相手は、一向に諦める気配がないようだ。ピアノの鍵盤のように、派手にチャイムが鳴らしたくられている。
近所迷惑なんだけどな……
しばらくして気が済んだのか、チャイムの音が止んだ。ホッとしていると、今度は携帯が鳴り出した。
気だるげに画面に目を遣り、表示された名前を見てパッと跳ね起きる。
「雛ちゃん!」
『おっはよー、ユウくん。ねえねえ開けて?』
「へっ……?」
まさか。今のピンポンは…………
『今ね、ユウくんのおうちの前にいるの。帰って来ないって言うからさ――――会いに来ちゃった!』
携帯を耳に当てたまま、ベッドから転がるように外に出た。慌ててドアへと向かうものだから、焦って足がもつれそうになる。ガチャガチャと音を鳴らしながら、もどかしい気持ちでチェーンを外し、扉を開けた。
ああだめだ。今の僕には余裕なんて欠片もない。
「久しぶりっ!」
晴れやかな笑顔を浮かべて、雛ちゃんが僕の胸に飛び込んできた。
言葉の通り僕に飛びついてきた彼女の温もりに、頬がだらしなく緩んでしまう。
やり過ごそうとしていた休日が、一瞬で色を変えた。
◆ ◇
「びっくりさせちゃった?」
「……ものすごく」
雛ちゃんの首筋に顔を埋めると、甘い香りが広がってきた。
彼女の身を包む柔らかな生地のセーターに腕を回して、ぐっと自分に引き寄せる。スウェットとセーターを隔てて伝わるほのかな彼女の感触に、少しだけもどかしいものを感じて、僕は抱きしめる腕の力を強くした。
ぴったりと寄り添った彼女の華奢な身体から、どくどくと大きな鼓動が聞こえてくる。
「こんなことなら、帰れば良かったな……」
「もしかして、迷惑だった?」
「そうじゃ、ない」
再会の抱擁にしては長過ぎる時間が経っているというのに、僕は彼女を解放する気になれないでいた。
自分でも、こんなに雛ちゃんに飢えていたとは思わなかった……。
首筋に埋めた顔を左右に揺すり、滑らかな彼女の素肌を頬に触れさせる。そのとんでもない心地よさに、さっきまで塞いでいた胸のつかえがすっと消えていく。
こんなにも、僕はこの子に会いたがっていたのか……
あー、余裕ぶらずに帰ればよかった。
雛ちゃんにここまで来させてしまった。
「会えてすごく嬉しい……けど、雛ちゃん。ここまで遠いし、来るの大変だったでしょ?」
「大丈夫、あたし元気いっぱいなのが取り柄なの。それに、ユウくんはその大変なことを毎週してくれているんだよ?」
「僕は……いいんだよ」
雛ちゃんと過ごすために、週末ごとに僕は実家へ帰っている。
この逢瀬に、僕にばかり負担をかけていると感じているのか、彼女は何度か、こちらで会う案を僕に提示してくれている。
……でもなぁ。
泊まらせるわけにはいかないから、日帰りになる。
そうしたら、せっかくの週末なのに、1日しか会えなくなってしまうじゃないか……。
それに、ここから実家まで約2時間もの間、雛ちゃんを一人で電車に乗せておくのも心配だ。こんなに可愛いんだ、痴漢に狙われるかもしれない。道中で、ナンパされちゃうかもしれない。いや、かもしれないじゃない。される。絶対されてしまう……。
外は危険がいっぱいだ。隣の家のやつだって要注意だ。なんといっても、彼女に絡んできた前科がある。それにどうせ心配で、帰りは家まで送っていくだろうから、やっぱり僕の方から帰った方が、合理的だと思うのだ。
「ユウくん、嬉しいけどちょっと苦しいよ」
「……ごめん」
力を込めすぎていたようで、雛ちゃんが苦しげに息を漏らした。
慌てて彼女から身を離す。
ふぅと息を吐きながら、雛ちゃんが名残惜しそうに僕を見上げた。潤んだ瞳に見つめられ、どきりどきりと胸が鳴る。誤魔化すように視線を彷徨わせ、彼女の足元に紺のドットのボストンバッグが置かれている事に気が付いた。
なんだ、この荷物。
見覚えのあるこのバッグは、海に行った時に携えていたものと同じもので間違いないだろう。雛ちゃんの水着と同じ柄をした、大ぶりのボストンバッグだ。
旅行にでも使えそうなサイズのバッグを、なんで、僕のうちに遊びに来るくらいで、雛ちゃんは持ってきてるんだ。しかもこのバッグ、荷物がみっちりと詰められている……。
僕は不審なものを感じながら、恐る恐る彼女に尋ねてみた。
「重たそうな荷物だね。パンパンに膨れてるけど……何が入ってるの?」
「あ、これ? お泊りセット」
―――は? お泊り!?
悪びれることなく彼女が答えた。
そうか。僕があんまりはねつけるものだから、雛ちゃんめ。強硬手段にでたな……
しかし、こんなものに惑わされる僕じゃない。お泊りなんて冗談じゃない。雛ちゃんにお泊りされようものなら、たとえ僕が彼女に何もしなかったとしても、おじさんとおばさんから冷たい目で見られてしまう事は必死だ。
「お泊りはダメだって言っただろ! そもそも雛ちゃん、明日学校があるじゃないか……」
「大丈夫、心配しなくても夕方には帰るつもりしてるから」
「ほんとに?」
「ほんとだってば! 本物のお泊りはしないよ。お泊りはしない……けど、その代わりに!」
雛ちゃんが弾ける笑顔を見せながら、人差し指をぴっと上に突き出した。
「ユウくん。あたしとお泊りごっこ、しよ?」
お泊り……ごっこ?
意図が掴めなくて首を傾げたら、目の前の彼女も僕と同じ方向に首をこてっと傾げてみせた。
「それは……本当には泊まらないってこと?」
「そう、泊まらないの。一緒にご飯食べて、一緒にお喋りして、お泊りの雰囲気だけを味わって、夕方にはちゃんと帰るの。それならいいでしょ?」
「まぁ、ちゃんと家に帰るならいいけど……」
雛ちゃんの提示した内容は、ただの普通のおうちデートにしか思えない。それで納得して満足してくれるなら構わないけど……。
「やったぁ!」
雛ちゃんは満面の笑みを浮かべて、ベッドサイドにぴょんと腰掛けた。