5 妹ではなくなった、あの子
侑視点回。短めです。
制服のスカートを翻し、ようやくあの子が僕の部屋から姿を消した。
じゃあね!と無邪気に笑う彼女に、不審がられないよう、穏やかな笑みを浮かべてみせる。玄関先で彼女を見送った後、部屋に戻った僕はずるずると床にへたり込み、大きく息を吐いていた。
あぁ危なかった。
部屋の中には、さっきまでそこにいた彼女の余韻が薄っすらと漂っている。僕のものでは無い甘い匂いが、惑わすように鼻腔をくすぐってくる。
払いのけるように首を振った後、自分の手のひらが、固く握り締められている事に気が付いた。
開いた手の内が、嫌に汗ばんでいる。くすりと、自嘲するような笑みが自然と漏れていた。
視線が、吸い寄せられるように窓の外へと移動した。60秒とかからない距離にあるあの子の家が目に入る。
彼女は今、自分の部屋にいるのだろうか。
目を細めて、斜め向かいに視線を固定する。ピンクのカーテン越しに、蛍光灯の明かりが見えた。
―――あの子を、妹として見れなくなったのは、一体いつからになるのだろうか。
僕が小学4年生の時に越してきた、隣の家の女の子。特別な事は何もしていないのに、初めて会った時から何故か彼女は僕に懐いてくれた。僕の事をユウにぃと呼んで、兄のように慕ってくれた。
一人っ子だったせいか、彼女の反応は僕にとって、妹が出来たようで嬉しかった。外で駆け回るのが苦手な僕は、彼女と一緒に部屋で遊んでばかりいた。
妹のように懐いてくれる彼女を、僕はひたすら兄のように可愛がった。膝の上に彼女を乗せて、本の読み聞かせをしてあげる。宿題を一緒にして、分からない所を教えてあげる。物欲しそうな目で見つめてくる彼女に、僕のおやつを分けてあげる。
彼女が落ち込んでいる時には、頭を優しく撫でてやり、彼女が泣き出してしまった時には、抱きしめて背中をトントンと叩いてやった。あの子に、優しくて頼りになる兄だと思われたかった。
彼女の無邪気な笑顔を、眺めているのが好きだった。
僕にとって彼女は、可愛い妹そのものだった。
それなのに。それが狂いだしたのは何時からか。問われても、はっきりとした答えは出て来ない。彼女が中学生になり、初々しい制服姿を見せてくれたその時もまだ、可愛い妹のようだと思えていたのだ。
恐らく歯車は少しずつ、僕を狂わせていたのだろう。
彼女から漂う匂いが、次第に僕を惑わす甘いものへと変化して。
抱き着いてくるあの子の身体が、いやに柔らかいものだと感じるようになっていき。
徐々に、徐々に、僕の心をあの子が侵食していった。
「ほんと、最近やばすぎる……」
彼女は僕に、本当によく懐いてくれている。
もう15歳の女の子なのに。そんな事をすっかり忘れているかのように、僕に平気で抱き着いてくる。愛らしい声で、大好きだよと言ってくる。
天使のような、可愛い笑顔を向けてくる。
手を、伸ばしたくなってくる。
でも勘違いしてはいけない。
僕にはちゃんと分ってる。あの子の好きは、僕の好きとは違うのだ。
彼女は僕の事を、男として好きな訳じゃない。僕の事は、隣の家に住む優しい『お兄さん』だと思っている。
そう、彼女は僕の事を、兄のように慕って懐いているだけなのだ。
あの子の好きは、僕の好きとは違ってる。
兄の殻を破ってしまいたいと、彼女に触れられるたびに心が疼く。
けれど、それをすればあの子は、怯えて僕から逃げるだろう。彼女にとって僕は、そういう対象ではないのだから。
だから僕は怖がらせないように。優しいお兄さんの仮面を被り、君に笑顔を向けている。
欲望を押し殺して、笑顔で取り繕って、余裕なフリして君の前に立っている。
もう限界だ。
高校生になった彼女は、中学の頃よりもぐっと可愛くなってきた。ぐっと、女の子らしい身体つきになってきた。今までと同じように触れられて、僕はもうそろそろ耐えられない。
部屋で2人きりでいる事が、段々しんどくなってきた。彼女の誘惑に、優しい兄で居続ける自信がなくなってきた。
少し、距離を置こうと思う。
アルバイトを口実に、部屋にいる時間を減らそう。あの子と、触れ合う時間を無くしていこう。そうしている内に、僕も他の子に意識を向ける事が出来るかもしれない。僕の事を兄としか見てくれないあの子を、忘れる事が出来るかもしれない。
―――あの子は、寂しがるだろうか。
ズキリと胸が痛む。
大丈夫。高校生活が始まれば、僕の事などすぐに忘れてしまうだろう。忙しい毎日に紛れ、大抵の幼馴染の男女がそうであるように、自然と疎遠になるのだろう。
可愛いあの子が、僕ではない男に微笑む日も、きっとすぐにやってくる。
その瞬間を想像して、喉の奥がぐっと苦しくなってきた。
僕は慎重に息を吸って、吐きだした。