2 幸せいっぱいの侑くん ②
結論から言うと、僕は昨夜もろくに眠れなかった。
なにが敗因だったのか、自分でもちゃんと分かっている。あれだ。スマホ片手に、雛ちゃんとのデートを思い描きながら布団に潜り込んだのが、どう考えてみてもまずかった。
そうだ。僕は幼い頃から、遠足の前日に興奮して眠れないタイプの子供だった。この年になっても、そういう所は全く変わっていないらしい。苺ケーキを前にしてにっこにこの、最高に可愛い雛ちゃんを想像し、ニヤついている内に、眠気がどんどん去ってしまった。
そこで思考を止めておくべきだったのに。ケーキを頬張る可愛いあの子の姿から、色々とその、やましい妄想を繰り広げてしまい、いつの間にかビックリするような時間になっていた。
やばい!
と、僕が焦ったのは、お腹にヒヤリとした空気を感じて、飛び起きた頃だった。
「おはよう、ユウくん」
「あ、雛ちゃん。おはよう……。えっと、……今何時?」
恐る恐る僕が訊ねると、彼女がにぃっと嫌な笑みを浮かべる。
ああ、やらかした。時計を見なくても分かる。僕はまた寝坊をしてしまったようだ……。
「もう10時過ぎてるよ。ほんっと、いつもいつもい―――っつも、あたしとのデートは寝過ごすんだから……」
「ごめん、ほんとーにごめん」
「これはもう、お仕置きだね」
やけに冷える腹部に目を向けると、スウェットの裾がまくり上げられていて、お腹が丸出しになっていた。露出した僕の肌に、雛ちゃんが可愛らしい唇をゆるゆると寄せていく。
えっ……。何する気……
ドクン、ドクンと、心臓の音が大きくなっていく。
昨夜の妄想が頭をよぎる。いや違う。そういうのとは違う。違うって分かっているけど、彼女の吐息が肌に触れ、僕の体温が急速に上がっていくのを感じる。
すぅ、と雛ちゃんが息を吸い込んだ。
僕のお腹に口づけをする。ピタリと付けられた唇の感触に、苦しいほど心臓が跳ね上がり…………次の瞬間、苦しいのは心臓から腹筋の方にシフトされていた。
雛ちゃんは、可憐な唇を僕の腹部に当てたまま、一気に息を吹き込んできたのだ。
ぶぶぶぶぶぶぶっ!
「ひゃははははっ、やめっ、やめて雛ちゃ……はは、わはははははっ!」
「やだよーだ! お仕置きだもん、寝坊した罰なんだもんっ!」
これはしゃれにならない。くすぐったいのもさることながら、しっとりとした唇の感触にぞくりと身体が震えてくる。彼女の華奢な指も追加で襲い掛かってきた。だめだ、笑いすぎてお腹がきつい……。
かっこ悪い僕の姿に、雛ちゃんはにやにやと愉快そうに笑みを浮かべている。くそう……。
彼女の前ではかっこいい僕でいたいのに。
情けない事に。こうして、僕は彼女に翻弄されてばかりいる。
僕は身をねじって、雛ちゃんの強襲から逃れようとした。彼女はご機嫌な様子で、僕の腹にくらいつこうと追いかけてくる。僕も必死だ。雛ちゃんの滑らかな首筋に指を這わせ、勢いを削いだ。
雛ちゃんの魔の手からなんとか脱出する。荒い息をどうにか僕は整えた。
――――ふぅ。
くすぐったさが消えて、安堵したと同時にむくむくと嗜虐心が持ち上がってきた。
僕も彼女を翻弄してやりたい。沸き起こる気持ちに抗えず、僕は雛ちゃんの華奢な肩をやわく掴み、布団の上に押し倒す。
ベージュ色をした、ニットの裾に手をかけた。
僕を見上げた彼女の瞳が、不安げに揺らめいている。
同じことを、仕返ししてやろう――――
雛ちゃんのお腹にも、同じように息を吹き当ててやる。
みてろよ。涙が出るほど笑わせてやる……!
ぐいっと彼女の服をまくり上げた。思わず触れたくなるような、滑らかで綺麗な肌が冷ややかな空気の中で露出する。寒さのせいか、僕の勢いのせいなのか、彼女の身体が、心なしか微かに震えているようにも見えた。
――――あ、これはまずい。
まずすぎる……
半分寝ぼけていた僕が、やっと冷静になれたのは。
口をつけるべく白い肌に顔を近づけ、可愛いおへそを間近に捉えた頃だった。
◆ ◇
雛ちゃんに平謝りをした後、僕は10分で支度をして家を出た。
顔を洗って、着替えをして、大きく頭を振りかぶる。だめだ。彼女のおへそが、ちっとも頭から離れてくれない。ただでさえ落ち着かない僕を追い込むかのように、雛ちゃんが腕を組んできた。
柔らかい感触が、僕の右腕に押し付けられる。ぎゅむ、なんて擬音語が、どこからか聞こえてきた気がした。
雛ちゃんは非常に発育が良くて、本当に困ってしまう。人通りの多い街中を歩いていると言うのに、僕の顔がみっともなく赤く染まっていく。慌てて僕は意識して、ぎゅぎゅっと表情を引き締めた。
噛みつけた口の端が、痛い……。
「ねえ。もしかして怒ってる?」
「え?」
僕の腕にピッタリと貼り付いた彼女が、不安そうに眉をハの字に下げている。
「……お仕置き、そんなに嫌だった?」
「あ、いや、うん。悪いのは僕の方だし、別に怒ってはいないよ」
「じゃあどうしてさっきからずっと、むすっとしているの?」
「…………」
言えない。
にやけそうな顔を必死で抑えているだなんて、言えるわけがない……。
「雛ちゃんの気のせいだよ。それよりお腹が空いてきたなぁ。ちょっと早いけどランチにしようか」
僕は誤魔化すように、雛ちゃんの頭を撫でてみた。それはそれは丁寧に優しく撫でてみた。
「ユウくん朝から何も食べてないもんね。寝坊したから」
「ぐっ……ほんとごめん。おごるから許してよ」
「もう……。しょうがないなぁ」
僕に頭を撫でられて、雛ちゃんの表情がだんだん穏やかなものに変わっていく。自分のこの手に、なんでそんな効果があるのか謎なのだが、彼女にとってはお気に入りの行為らしい。
すっかり機嫌を直した雛ちゃんが、元気よく僕を先導し始めた。
◆ ◇
「うっわぁ……どうしようどうしよう、ケーキも美味しそうだけど、パイも捨てがたいの!」
早めの昼食を終え、ぶらぶらと街を歩いた後、事前に調べておいた喫茶店に雛ちゃんを連れてやってきた。
想像していた通りだ。雛ちゃんが、ショーウィンドゥに並んだ苺のスィーツ達に、すっかり心を奪われている。瞳がキラキラと輝いて見えた。
「じゃあ両方頼んで、半分づつしようよ」
「いいの? あたしの欲しいものばかり選んじゃっていいの?」
「いいよ。どっちも美味しそうだと思うし、2人でわけっこしよ」
「ユウくん優しいっ、大好きっ!」
雛ちゃんが心から嬉しそうな顔をした。
ああ、頑張ってお店を探したかいがあった。朝から色々あったけど、目前の笑顔に僕の心が癒えていく。麟には、後で改めてお礼を言わないと……。
運ばれてきた苺のケーキと苺のパイを、零れそうな笑みを浮かべながら、雛ちゃんがもくもくと頬張っている。その姿は文句なしに可愛い。いや、雛ちゃんは普段から可愛いんだけど、美味しいものを食べている時はその可愛さが10割増している。
女の子受けしそうなお店だけあって、お客さんは女性客とカップルばかりだ。その数少ない男達の視線が、ちらちらと雛ちゃんに注がれている。そうだろうそうだろう。僕の彼女は可愛いだろう。
そいつらの視線がちらっと僕に向き、なんでこいつ?みたいにほんのり眉を寄せた事にも、ちゃんと僕は気が付いている。そうだろうそうだろう。僕がなんでこんな可愛い子と付き合ってんの?って、普通はそう思うよね……。
僕にも正直よくわからない。
なんで雛ちゃんは、僕がいいんだろう。
見た目だって普通だし。これといって取り柄がある訳じゃない。あんなにかっこいい兄がいるのに、兄と比べて明らかに見劣りする僕を選んでくれるだなんて……。
時折、不安になる。
僕よりも、もっといいやつが彼女の前に現れて。そいつに持っていかれるんじゃないかって。
今ですら、ずっと一緒にいる訳じゃない。僕は大学生で、彼女は高校生なのだ。高校には出会いなんて腐るほど転がっている。こんなに可愛い雛ちゃんは、絶対に色んな奴から注目されている。麟のように、告白されまくっていたとしても僕はちっとも驚かない。
いつ。いつ、誰に奪われるか分からない。
その焦りが僕の中にあるせいか、家の中で2人まったりと過ごしたい気持ちを抱えながらも、こうして外に出かけている。この子には、僕という彼氏がいるんだぞ、と。たまらなく、周囲に知らしめてやりたい気分になってしまう。
そう思えば先週、相良くんに会えたのは僥倖だった。雛ちゃんに想いを寄せ、なおかつ僕よりもずっと見た目のいい彼は、牽制したい相手ナンバーワンだったから。はっきりと交際宣言をして、きっちりと諦めて貰えて、本当に本当に良かった……。
「ねえ、ユウくん」
「ん?」
「ユウくんは、こっちに戻ってこないの?」
「んー、通学に時間もかかるしね。こうして週末戻って来るのが一番かなって思ってる」
「そうなんだ……。さみしいなぁ」
「どっちみち平日は会えないよ?」
「そうだけどさぁ……」
ぷっくりと、雛ちゃんのほっぺが膨らんだ。
こんな事言うと怒られそうだけど、拗ねた顔も可愛い。まあ、何してても可愛いんだけど。
お店を出て、雑貨屋へ向かった。雛ちゃんに似合いそうな可愛いアクセサリーを見つけたのでプレゼントしようとすると、やんわりと彼女が断った。さっきの喫茶店も僕のおごりだったのを、地味に気にしているらしい。僕がしたくてしているんだから、気にしなくてもいいのにな。
そりゃ僕だって学生だし、奢ってばかりとか長く持たないのは分かっている。いるけれど、僕の方が3つも年上なんだ。せめて付き合いたての今くらいは、かっこつけて奢っていたかった。
固辞する彼女にばれないように、こっそりとアクセサリーをレジに向かわせた。
苺のモチーフをしたネックレス。苺の好きな雛ちゃんらしくて笑みが零れる。僕からのプレゼントを申し訳なく感じているようだけど、なんのことはない。これは、僕が身に着けて欲しいだけだ。僕のものだっていう印みたいなものを、誰かの目に触れる場所に置いて欲しいだけなのだ。
どうやって渡そうか、思案しながら帰路に向かう。
秋は日が暮れるのが早い。辺りはすっかり薄暗くなっていた。
「えー、もうさよなら? まだ18時だよ?」
「あんまり遅くなると、おばさんが心配するよ」
「そんなの。お母さんは、あたしが何してても心配するんだから」
「おばさんは雛ちゃんが可愛いんだよ。それに、よろしくって言われちゃったしね」
付き合う事になった次の日。デートの後、おじさんとおばさんが家にいたので、思い切って2人にも交際宣言をしておいた。雛ちゃんとは、今だけの関係に終わらせたくはない。早い段階で周囲の公認となり、着実に2人の信頼を得ておきたかった。
兄のような立場だった僕が、雛ちゃんと付き合っている。
そのことに、2人はなんて思うだろうか……。
身体中を言いようのない緊張感が駆け巡る。言葉はさらりと口から出てきたものの、情けないことに首から下はカチコチに固まっていた。
兄も同然な男だと安心していたのに、裏切られたと感じてしまうだろうか。幼い頃から面倒を見てくれたのは、下心があったからなのか……なんて。怪しげな疑惑をかけられてしまったらどうしよう……。違うんです、中学生になって、あちこち成長してから好きになったんです!ってだめだ、そんな弁解しようものなら、僕の信頼は間違いなく地に落ちてしまう。
おじさんとおばさんの―――主におじさんの反応をドキドキしながら窺っていると、拍子抜けするような明るい声が聞こえてきた。
「え、あなた達、もう付き合ってるんじゃなかったの?」
「なんだ、まだだったのか」
――――あれ?
「雛に内緒で侑くんが引っ越ししたって聞いて、ついに雛が愛想を尽かされたんだと思っていたわ……」
「侑くんが心の広い男で良かったな、雛」
「もー! お父さんもお母さんも、あたしをなんだと思ってるのよ……」
よく分からないけれど、歓迎ムードのようだ。
「侑くん、どうか雛をよろしく頼むよ」
「あ、はい。こちらこそよろしくお願いします」
「馬鹿な子だけど、正しく導いてやってね」
「え、あ、はあ……」
その後、念押しするように、2人から深く頼み込まれてしまった。雛ちゃんは本当に両親に愛されている。2人とも可愛い娘が心配なのだろう。妙な緊張感に包まれてしまったが、ここをしっかり押さえておけば僕の未来はきっと明るい。
とりあえず。まだ高校生の彼女を、夜遅く連れ回すわけにはいかない……。
名残惜しいけれど、しょうがない。
家の前まで辿り着き、繋いだままの彼女の手をギュッと握りしめた。
もの足りなくて。でもキスをするには人目が気になって。僕は繋いだままの手を上にあげ、頬でそっと一撫でしてから、愛しい彼女にサヨナラをするのだった。