1 幸せいっぱいの侑くん ①
ここから先は番外編になります。
わりと好き勝手書いていますので、何でも許せる心の広い方のみどうぞ……
もうすぐ、5限目の講義が始まろうとしていた。
「おい、侑、侑!」
時計は既に、講義の開始時刻を指している。もう幾ばくと経たないうちに、教授が教室に入って来るだろう。そのちょっとした隙間時間に、スマホの画面をじっと見つめていると、隣から声を掛けられた。
なんだろう。横を向くと、作り物のように綺麗な顔をした友人が、呆れた表情を僕に向けている。
「なに、麟?」
「お前、顔、緩みすぎだぞ……」
「えっ!?」
慌てて口元を引き締める。キョロキョロと周囲を見渡すと、女子生徒達の視線が僕に集まっていた。クスクスと遠慮のない笑い声が聞こえてくる。
うっ、恥ずかしい……。
僕は平凡な人間だけど、女の子達にはよく『見られて』いる。正確に言うと彼女たちは僕を見ている訳じゃない。僕の隣にいる麟を見ているのだけれど、巻き添えのような形で僕まで視界に入れられている。
だからこうして何かやらかすと、すぐに目撃されてしまうのだ。
「まあ、今更だからそんな気にすんなよ。自覚はあると思うけど、今週ずっと、顔にやけっぱなしだからな」
消え入りたい気持ちで机に顔を伏せていると、柔らかな麟の声が頭の上から振ってきた。
慰めのつもりなんだろうけど、全くフォローになってない。
にやけっぱなしか……。
そうだ。自覚はある。この1週間、僕の頬はだらしなく緩んでしまっている。
食堂のおばちゃん達にも囃し立てられた。
葉山くん嬉しそうだね。いいことあったんだね。彼女でも出来たのかい?
なーんて。
ははっ。よっぽどみっともない顔してたんだな、僕……。
思い出して、余計に頬が紅潮してきた。
……でも、しょうがないだろ。
だって、雛ちゃんが僕の彼女になったんだぞ!
そう、彼女。
彼女。彼女。彼女か……。あぁ、いい響きだな。
そして僕が、……か、彼氏、か。
彼氏とか、なんか照れくさいな。
ああでも嬉しい。嬉しい。嬉しすぎるっ……!
先週の土曜に思いを馳せる。
雛ちゃんが僕に会いに、ここまでやって来たあの時。正直、僕はまたあの子の『兄役』をさせられるのだと思いこんでいた。
再会して早々に、好きだよとは言われたけれど。その好きは兄としての好きなんだろって思ってた。男の人として好きだとも言われたけれど、それは僕を引き留めるための嘘なのだと疑っていた。
彼女にして欲しい、なんて雛ちゃんは言うけれど―――それは、そうすればまた元のような関係に戻れるとあの子が思っているからだ。
『彼女』は『妹』とは違うのに。
そんなことをしても、君の期待する元の関係になんて戻れやしないのに。『彼女』の響きを真に受けて、うかうかと僕が触れたなら、ほら、きっとまた君は泣くんだ――――
気を抜くと伸ばしそうになる手を必死で抑え込みながら、胸の内で盛大にため息を漏らしていたら……。
まさか。
あんな展開になるなんて。
人差し指で唇をなぞる。あの子がくれた柔らかな感触を思い出していると、引き締めたはずの口元が再び緩んできた。
隣からコツコツと肘が当たる。
「だから緩みすぎだぞ」
「あ、ご、ごめんっ」
「なんで謝ってんだよ」
くくっ、と可笑しそうに麟が声を漏らす。
「……良かったな、侑」
麟がふわりと微笑んだ。クールな外見に加え、憮然とした表情がデフォルトの、麟の笑顔はとてもレアなものらしい。
周囲からは声にならない呻き声とため息が、うんざりするほど聞こえてきた。
◆ ◇
5限目の講義を終えた後、僕は麟と一緒に電車に乗りこんだ。
今日は金曜日。雛ちゃんに会いに、僕は週末だけ実家に帰る事にした。元々は雛ちゃんから逃げたくて今の生活を始めたのだ。彼女とはめでたく恋人同士になれたのだし、もう一度、自宅通学に戻ろうかと思ったけれど、やめた。
引っ越し費用もタダじゃない。自分から頼み込んで一人暮らしをさせて貰っておいて、1ヵ月そこらで『雛ちゃんと付き合う事になったから、戻りたい』なんて、さすがに親を振り回しすぎだろう。
親だけじゃない。物件選びから引っ越しの手伝いまで、快くサポートしてくれた麟にも申し訳ない。
それに大学の近くに住む方が、生活自体は楽なのだ。片道2時間近くもかかる通学は、実習やレポートで立て込む時期になると、結構負担が大きい。
それにどうせ平日は、雛ちゃんと会えるような時間には家に帰れない。それなら通学にかかる時間の分だけ早く家に帰り、課題を手早く済ませ、余裕のできた時間で彼女と電話でもしている方がいい気がした。
「ケーキ屋?」
「うん。明日、雛ちゃんと一緒に行こうと思って」
電車に揺られながらスマホに目を向けていると、隣から麟が覗き込んできた。
「朝からずっと、スマホ眺めてにやけてるから何かと思えば……なんだ。デートの場所探してたのか」
「あんまりこういうお店知らないからね。雛ちゃんが喜びそうなお店を探しておこうと思って。麟、どこかいいとこ知らない?」
「俺がそういう店に詳しいとでも思ってんのかよ。高校時分にお前と行ったあの喫茶店くらいしか、行った事ねーっての」
………そうだった。
もうすぐ9年来の付き合いとなる、僕の幼馴染であり親友でもある麟は、基本引きこもりの人間だ。
全然、そんな風には見えないけれど……
麟は男の僕から見ても文句なしにかっこいい。周囲を見渡すと、何人かの女性が頬を上気させながら、麟をチラチラと目で追っている。
実に見慣れた光景だ。桁違いに整った容姿をしている麟は、常に誰かの視線を受けている。
にも拘らず、麟には彼女がいた事がない。中学の頃、一時期だけちょっといい感じの女の子がいたのは知っているけれど、本当にそれくらいで、麟は誰とも付き合おうとはしなかった。
もちろん遊んでいる様子もない。
……むしろ女の子というものを、徹底的に避けている。
麟の気持ちも分からなくはない。中学の頃の、女子達の騒ぎっぷりは異常で、あれはトラウマになっていてもおかしくないレベルだった。もてるのは羨ましいけれど、何事にも限度ってものがある。ほどほどに好意を寄せられる程度が一番だな、と隣の騒ぎを横目で見て、僕はつくづく感じたものだ。
ていうか。
雛ちゃんだけ側にいてくれれば、それでいいしな……。
麟のように怒涛の告白を受けた事などない僕だけど、たった一人。それも僕にとってとっておきの一人が僕を好きだと言ってくれたから、それだけで僕は満ち足りている。
どうせ僕だって1人しかいないんだ。沢山の女の子に好かれたって、正直対処に困るだけだ。世の中には平気で何股もかける奴だっているけれど、そんな気力も体力も根性も、もちろん財力も、僕には何一つ備わってはいないのだ。
「お、ここなんかいいんじゃね?」
「え、どれ、どれ?」
麟が自分のスマホの画面を僕に向けた。
可愛い外観の喫茶店で、苺フェア開催中の文字が目に入る。
「うわ、これ雛ちゃん喜びそう……!」
「あいつ苺バカだからな」
「ほんと雛ちゃん、苺好きだよね」
バカだなんて言いながらも、麟の表情がほんのり優しくなっている。
なんだかんだ言いながら、麟は雛ちゃんが可愛いのだ。
こういうのを見ていると、兄妹っていいなぁ、と一人っ子の僕は思う。昔は雛ちゃんを、妹が出来たみたいに喜んでいたのに。いつの間にか妹から女の子になっちゃったなぁ……。
一人きりの2時間は長いけれど。誰かといる2時間は、あっという間に時が過ぎていく。麟と他愛もない会話をしている内に、いつしか最寄り駅までやってきた。
駅から外に出て、麟と2人、綺麗な星空を眺めながら帰路へと向かう。時刻はもう20時だ。昼間はまだ温もりを感じられる季節だけれど、夜となると肌寒い。
軽く身を竦めながら家の前まで辿り着くと、暗がりの中、女の子が一人、立っていた。
僕を見つけて、表情を綻ばせる。
「ユウくん、おかえりっ!」
彼女が両手を広げて、僕に駆け寄り抱きついてきた。勢いよく飛び込んできたものだから、後ろによろけそうになる。
衝撃をなんとか受け止めきった後、僕も彼女の身体に両腕を回した。久し振りの雛ちゃんの温もりに、昼間の比じゃないくらい僕の表情も綻んでくる。
「ただいま……」
「あいたっ!」
麟がじろりと雛ちゃんを睨みつけ、後頭部にデコピンをした。涙目になりながら、雛ちゃんが麟をじろりと睨み返す。
「おっま、こんな時間に外でボケっと突っ立ってんじゃねえよ!」
「だって待ちきれなかったんだもん!」
「バカだバカだと思ってたけど……ここまで本格的なバカだとは思わなかったぞ。高校生にもなって、どうなるかくらい少しは足りない頭使ってモノ考えろよ」
「ひっど! ふん、お兄ちゃんなんて待ってないし」
「いいか、2度とこんなところで侑の帰りを待つんじゃねーぞ」
懐かしいやり取りに笑みが零れる。
ほんと、麟は良い兄だと僕は思う。これっぽっちも彼女には伝わっていないけど。
むくれる彼女を引き寄せる。
耳元で、そっと囁いた。
「雛ちゃん。寒いだろうし、麟の言う通り待っていなくていいよ」
「でも、すぐに会いたくて……」
「その気持ちは嬉しいけど、真っ暗だし危ないからね。おばさんだって心配するだろうし、家の中にいた方がいいよ。その代わり、明日は朝から一緒におでかけしよう? 連れて行きたいお店があるんだ」
「うん……うんっ……!」
興奮気味に声をあげた彼女が、少しだけ伸びをして、僕の頬に唇を寄せた。
冷ややかな空気の中、頬がぽっと温かい。
じわりと幸せを噛みしめて、はっとして隣を見ると、すでに麟の姿はそこにいなかった。いつの間にか家の中に入っていたらしい。
ホッとして、赤くなった頬に指を添わせる。
「明日の朝、ユウくんのお部屋に行くからね! 寝坊しちゃダメだからねっ!」
「起きる、ちゃんと起きるよ」
「ほんとかなぁ……」
前科2犯の僕に、彼女は疑わし気な視線を向けた。
大丈夫だ。今夜はちゃんと眠れるはず。明日はきっと、いつも通りの時間に起きられるはず……!
「もしも起きてなかったら、お仕置きしてやるんだから。ふふふふふ……」
怪し気に笑う雛ちゃんに、一瞬ぞくりとしつつ、彼女が家の中に入ってくのを、温かい気持ちで僕は見送るのだった。