43 ゼロになる
ピピピピピピピピ……………
狭いワンルームの部屋中に、タイマーの音が鳴り響く。
冷蔵庫に張り付いているそれに指を伸ばし、音を止めた後、熱のこもる器を僕は慎重に持ち上げた。
立ち上る湯気から、柚子の香りが漂ってくる。
今日の昼食は塩ラーメン。といっても、お湯を入れて3分で食べられるようなものじゃない。生麺だけを購入し、スープは自作を試みてみた。鶏がら出汁の素に塩コショウ、アクセントに柚子の皮を忍ばせている。柑橘の爽やかな香りに心が満たされて、自然と食欲が湧いてきた。
我ながら、いい出来だ。
「雛ちゃんにも食べさせてあげたいな……」
ポロリと零れた言葉にぎょっとして、打ち消すようにスープをごくりと嚥下した。作り立てのラーメンは灼けるように熱い。僕は慌ててコップを掴み、中の水を飲み干した。
「はあ……。なにやってんだか」
雛ちゃんから逃げるようにこの家にやってきて、早、一ヶ月が経過した。
親には通学が大変だからと言えばすぐに納得してくれた。元々、迷う距離ではあったのだ。あの子と離れたくないが為に、実家に居座っていただけで……
彼女と距離を置きたい今、大学の側で暮らす方が圧倒的に楽ではある。
元々、料理はそこそこ出来た。掃除と洗濯も、特に大変な事もない。一人暮らしを始めて気付いたのだが、どうやら僕には生活力があるようだ。ワンルームがゴミ溜めになることもなく、こまめな自炊をして健康的な生活を送ることが出来ている。
まあ。する事が特にないから、家事に勤しめているとも言えるか……。
ベランダからは日の光が差し込んでいる。いい天気だ。今日は絶好のお出掛け日和と言えるだろう。生憎と、一緒に出掛ける相手など、どこを探してもいないけど。
隣の家に雛ちゃんがいない。それはつまり、麟もいないという事だ。実家とここじゃ距離がある。いくら麟でも、わざわざ休日に、それも2時間近くもかけて僕の所に来やしない。本物の恋人じゃあるまいし。
「恋人……か」
失恋の傷を癒すには新しい恋が一番だという。僕もそれには同意する。これが漫画の世界なら、隣の部屋には可愛い女の子が住んでいて、好意を寄せられたりするのだろう。実際は、くたびれた中年のサラリーマンだったり、ガタイのいい男子学生だったりするのだけれど。
現実なんてこんなもんだ。可愛い女の子との素敵な出会いなど、そう都合よくあるはずもない。
雛ちゃんの存在自体が、僕の人生において出来すぎていたんだ。
麟との事があるとはいえ、そもそも僕はモテるタイプじゃない。お世辞にもカッコイイとは言えない、平凡な顔つき。低くはないけれど、特に高くもない身長。穏やかで優しいといえば聞こえはいいものの、実態は相手に強く出られないだけの情けない性格。
面白い事を言えるわけでもなく、これといった特技もない。地味で、目立たなくて、パッとしない。『いい人なんだけど……』で終わってしまう典型的なタイプだと、僕自身も感じてはいる。
こんな僕が、あんな可愛い子に懐かれるだなんて……もう二度とないだろな……
美味しかったはずのラーメンなのに、味がしなくなってきた。熱いスープで皮膚が傷んだのか、口の中がやけにひりついている。食欲はとっくに失せていたけれど、なんとか我慢をして、黙々とラーメンを食べ終えた。
もう胸がいっぱいだ。流しに食器を運び、スポンジを手に取ろうとして、止まる。
僕のこの手に、雛ちゃんの小さな手が重なっていたんだよなぁ……。
左腕を少し持ち上げた。僕のこの腕に、柔らかい感触を押し当てながら、あの子の華奢な腕が絡みついてきてたっけ。困惑するばかりの僕の背中に、嬉しそうに抱き着いてきたよなあ。
僕の期待する意味とは違えど、ユウにぃ大好き、なんて言ってくれたっけ……。
あーだめだ。ちっとも忘れられない。
忘れてしまいたいのに。その為に一人暮らしを始めたのに、結局僕は、雛ちゃんの事ばかり考えてしまっている。
未練がましすぎるだろ。
いい加減、別の子に目を向けるんだ。僕はあの子にフラれたんだ。雛ちゃんは僕の事を、恋愛する相手だなんて思っちゃいない。好意は向けられているけれど、それは大好きな隣の家の『お兄さん』だ。自己評価の通り、彼女にとって僕は『いい人』で終わってる。
僕に触れられて真っ赤な顔をする可愛い姿だとか、潤んだ瞳で僕を見上げる扇情的な姿だとか、そんなものに騙されてはいけなかったんだ。
雛ちゃんの事は諦めたつもりでいた。関わらずに過ごしていこうと決意した。それなのに、側にいるとどうしても、やりすごす事が出来ないでいた。
相良くんとかき氷を食べにいく――そんな事にすら僕は反応してしまう。
あの時は焦った。見つかった事にもひやりとしたものの、それ以上に、雛ちゃんの態度が反則すぎて……。
雛ちゃんは全然分かっていないんだ。分かってないから、吉野さんに嫉妬するような発言を簡単に口にするし、あんな顔を僕に平気で見せてくる。
あんなにもの欲し気な瞳でじっと見つめられて、僕の理性がどうなるのかなんて、あの子は、まったく分かっちゃいないんだ。
抱きしめてしまいそうになった。
危なかった。求めれられているのだと、うっかり勘違いするとこだった。
本当に僕は、無害そうな顔をしたどうしようもなく有害なやつだ。過去に2度もあの子を泣かせているのに、危うく3度目を繰り返してしまう所だった。
必死で抑え込んで事なきを得たものの、次はどうなるのか、自分で自分が信用できない。これ以上側にいると、僕はまたあの子を泣かせてしまう。それも酷く泣かせてしまう。
だからこうして、物理的に距離を取るのが一番いい。
あの時。
もしも欲望に負けて、この手を彼女に伸ばしていたら――――
僕の腕の中に、きつくあの子を閉じ込めて。滑らかな頬の感触を楽しみながら、可愛い顔をこちらにゆっくり向けさせて。真っ赤に熟れた、柔らかな唇と心ゆくまで触れ合って、そして…………
「―――さて、散歩がてらスーパーでも行くか」
しょうもない妄想を、僕は強制的に終了させた。
家の中で暇を持て余していると碌な事を考えない。少しは外の空気を吸いに行かなければ。
幸い今日は晴天だ。僕は財布とエコバッグを手に取り、玄関の扉を開けるのだった。
◆ ◇
「あの、すみません!」
スーパーからの帰り道、知らない女性に声を掛けられた。
なんてことはない。駅までの道のりを問われただけだ。温和な外見のせいなのか、僕はこうして道を尋ねられることが多い。
「あそこにある、コンビニの角の信号を右に曲がってから2つ目の………あ、3つ目だっけ……」
語尾が段々と弱くなる。
駅なんて、普段は滅多に使わない。大学までは、もっぱら自転車通学だ。一人暮らしを始めるまでは電車を利用していたけれど、最寄り駅が今住んでいる場所とは違う。
どうしよう。歩けば分かるんだけど、説明となると自信がないな……
少し迷って、僕は駅までの案内を申し出た。どうせ暇なのだ。このまま家に帰っても、余計な妄想をして自己嫌悪に陥るのが関の山だろう。それなら、散歩がてら駅まで歩いている方が、100倍マシというものだ。幸い、荷物の量は多くない。
こういう時だけは、警戒されにくい自分の外見に感謝する。ナンパと間違われる事もなく、女性は素直に僕の好意を受け取ってくれた。
「本当にありがとうございました」
「いえ、お気をつけて」
特に迷う事もなく、無事、最寄り駅まで案内出来た。笑顔でお礼を言われ、安堵すると同時に温かい気持ちになっていく。感謝の言葉に僕は滅法弱い。気の進まない事でも、相手が喜んでくれるのなら、それだけでまぁいいかと思えてしまうのだ。
お人好しだと麟には心配されたっけ。まあ、麟の頼み事が、一番とんでもない内容だった訳だけど。
「―――あれ?」
さっきの女性を見送りがてら、駅の入り口を眺めていると、こちらへ駆け寄る少女が見えた。
思わず目をこする。
僕は幻覚を見てしまうようになったのか。
長い髪をたなびかせ、白い頬を上気させている。
彼女は、僕の姿を捉えて弾ける笑顔を見せた。
「ユウにぃ、会いたかった……っ!」
幻聴まで聞こえてくる。
可愛い声で、可愛い言葉を口にする。ありえない現象に、困惑して後ずさったものの、どんどん彼女は距離を詰めてくる。
このままだと、ぶつかる―――――!
「―――――っ!」
どさりと派手な音がして。
2人の距離がゼロになる。
僕の胸の中に、雛ちゃんが勢いよく飛び込んできた。