表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
43/68

43 ゼロになる


 ピピピピピピピピ……………



 狭いワンルームの部屋中に、タイマーの音が鳴り響く。

 冷蔵庫に張り付いているそれに指を伸ばし、音を止めた後、熱のこもる器を僕は慎重に持ち上げた。


 立ち上る湯気から、柚子の香りが漂ってくる。


 今日の昼食は塩ラーメン。といっても、お湯を入れて3分で食べられるようなものじゃない。生麺だけを購入し、スープは自作を試みてみた。鶏がら出汁の素に塩コショウ、アクセントに柚子の皮を忍ばせている。柑橘の爽やかな香りに心が満たされて、自然と食欲が湧いてきた。

 我ながら、いい出来だ。


「雛ちゃんにも食べさせてあげたいな……」


 ポロリと零れた言葉にぎょっとして、打ち消すようにスープをごくりと嚥下した。作り立てのラーメンは灼けるように熱い。僕は慌ててコップを掴み、中の水を飲み干した。


「はあ……。なにやってんだか」


 

 雛ちゃんから逃げるようにこの家にやってきて、早、一ヶ月が経過した。


 親には通学が大変だからと言えばすぐに納得してくれた。元々、迷う距離ではあったのだ。あの子と離れたくないが為に、実家に居座っていただけで……

 彼女と距離を置きたい今、大学の側で暮らす方が圧倒的に楽ではある。


 元々、料理はそこそこ出来た。掃除と洗濯も、特に大変な事もない。一人暮らしを始めて気付いたのだが、どうやら僕には生活力があるようだ。ワンルームがゴミ溜めになることもなく、こまめな自炊をして健康的な生活を送ることが出来ている。


 まあ。する事が特にないから、家事に勤しめているとも言えるか……。


 ベランダからは日の光が差し込んでいる。いい天気だ。今日は絶好のお出掛け日和と言えるだろう。生憎と、一緒に出掛ける相手など、どこを探してもいないけど。


 隣の家に雛ちゃんがいない。それはつまり、(りん)もいないという事だ。実家とここじゃ距離がある。いくら麟でも、わざわざ休日に、それも2時間近くもかけて僕の所に来やしない。本物の恋人じゃあるまいし。

 

「恋人……か」


 失恋の傷を癒すには新しい恋が一番だという。僕もそれには同意する。これが漫画の世界なら、隣の部屋には可愛い女の子が住んでいて、好意を寄せられたりするのだろう。実際は、くたびれた中年のサラリーマンだったり、ガタイのいい男子学生だったりするのだけれど。

 現実なんてこんなもんだ。可愛い女の子との素敵な出会いなど、そう都合よくあるはずもない。


 雛ちゃんの存在自体が、僕の人生において出来すぎていたんだ。


 麟との事があるとはいえ、そもそも僕はモテるタイプじゃない。お世辞にもカッコイイとは言えない、平凡な顔つき。低くはないけれど、特に高くもない身長。穏やかで優しいといえば聞こえはいいものの、実態は相手に強く出られないだけの情けない性格。

 面白い事を言えるわけでもなく、これといった特技もない。地味で、目立たなくて、パッとしない。『いい人なんだけど……』で終わってしまう典型的なタイプだと、僕自身も感じてはいる。


 こんな僕が、あんな可愛い子に懐かれるだなんて……もう二度とないだろな……


 美味しかったはずのラーメンなのに、味がしなくなってきた。熱いスープで皮膚が傷んだのか、口の中がやけにひりついている。食欲はとっくに失せていたけれど、なんとか我慢をして、黙々とラーメンを食べ終えた。

 もう胸がいっぱいだ。流しに食器を運び、スポンジを手に取ろうとして、止まる。


 僕のこの手に、雛ちゃんの小さな手が重なっていたんだよなぁ……。


 左腕を少し持ち上げた。僕のこの腕に、柔らかい感触を押し当てながら、あの子の華奢な腕が絡みついてきてたっけ。困惑するばかりの僕の背中に、嬉しそうに抱き着いてきたよなあ。

 僕の期待する意味とは違えど、ユウにぃ大好き、なんて言ってくれたっけ……。


 あーだめだ。ちっとも忘れられない。

 忘れてしまいたいのに。その為に一人暮らしを始めたのに、結局僕は、雛ちゃんの事ばかり考えてしまっている。


 未練がましすぎるだろ。

 いい加減、別の子に目を向けるんだ。僕はあの子にフラれたんだ。雛ちゃんは僕の事を、恋愛する相手だなんて思っちゃいない。好意は向けられているけれど、それは大好きな隣の家の『お兄さん』だ。自己評価の通り、彼女にとって僕は『いい人』で終わってる。

 

 僕に触れられて真っ赤な顔をする可愛い姿だとか、潤んだ瞳で僕を見上げる扇情的な姿だとか、そんなものに騙されてはいけなかったんだ。


 雛ちゃんの事は諦めたつもりでいた。関わらずに過ごしていこうと決意した。それなのに、側にいるとどうしても、やりすごす事が出来ないでいた。

 相良くんとかき氷を食べにいく――そんな事にすら僕は反応してしまう。


 あの時は焦った。見つかった事にもひやりとしたものの、それ以上に、雛ちゃんの態度が反則すぎて……。


 雛ちゃんは全然分かっていないんだ。分かってないから、吉野さんに嫉妬するような発言を簡単に口にするし、あんな顔を僕に平気で見せてくる。

 あんなにもの欲し気な瞳でじっと見つめられて、僕の理性がどうなるのかなんて、あの子は、まったく分かっちゃいないんだ。


 抱きしめてしまいそうになった。


 危なかった。求めれられているのだと、うっかり勘違いするとこだった。

 本当に僕は、無害そうな顔をしたどうしようもなく有害なやつだ。過去に2度もあの子を泣かせているのに、危うく3度目を繰り返してしまう所だった。


 必死で抑え込んで事なきを得たものの、次はどうなるのか、自分で自分が信用できない。これ以上側にいると、僕はまたあの子を泣かせてしまう。それも酷く泣かせてしまう。

 だからこうして、物理的に距離を取るのが一番いい。


 あの時。

 もしも欲望に負けて、この手を彼女に伸ばしていたら――――

 

 僕の腕の中に、きつくあの子を閉じ込めて。滑らかな頬の感触を楽しみながら、可愛い顔をこちらにゆっくり向けさせて。真っ赤に熟れた、柔らかな唇と心ゆくまで触れ合って、そして…………


 

「―――さて、散歩がてらスーパーでも行くか」


 しょうもない妄想を、僕は強制的に終了させた。

 

 家の中で暇を持て余していると碌な事を考えない。少しは外の空気を吸いに行かなければ。

 幸い今日は晴天だ。僕は財布とエコバッグを手に取り、玄関の扉を開けるのだった。




 ◆ ◇




「あの、すみません!」 


 スーパーからの帰り道、知らない女性に声を掛けられた。


 なんてことはない。駅までの道のりを問われただけだ。温和な外見のせいなのか、僕はこうして道を尋ねられることが多い。


「あそこにある、コンビニの角の信号を右に曲がってから2つ目の………あ、3つ目だっけ……」


 語尾が段々と弱くなる。


 駅なんて、普段は滅多に使わない。大学までは、もっぱら自転車通学だ。一人暮らしを始めるまでは電車を利用していたけれど、最寄り駅が今住んでいる場所とは違う。

 どうしよう。歩けば分かるんだけど、説明となると自信がないな……


 少し迷って、僕は駅までの案内を申し出た。どうせ暇なのだ。このまま家に帰っても、余計な妄想をして自己嫌悪に陥るのが関の山だろう。それなら、散歩がてら駅まで歩いている方が、100倍マシというものだ。幸い、荷物の量は多くない。


 こういう時だけは、警戒されにくい自分の外見に感謝する。ナンパと間違われる事もなく、女性は素直に僕の好意を受け取ってくれた。



「本当にありがとうございました」

「いえ、お気をつけて」


 特に迷う事もなく、無事、最寄り駅まで案内出来た。笑顔でお礼を言われ、安堵すると同時に温かい気持ちになっていく。感謝の言葉に僕は滅法弱い。気の進まない事でも、相手が喜んでくれるのなら、それだけでまぁいいかと思えてしまうのだ。


 お人好しだと麟には心配されたっけ。まあ、麟の頼み事が、一番とんでもない内容だった訳だけど。


「―――あれ?」


 さっきの女性を見送りがてら、駅の入り口を眺めていると、こちらへ駆け寄る少女が見えた。


 思わず目をこする。

 僕は幻覚を見てしまうようになったのか。


 長い髪をたなびかせ、白い頬を上気させている。

 彼女は、僕の姿を捉えて弾ける笑顔を見せた。


「ユウにぃ、会いたかった……っ!」


 幻聴まで聞こえてくる。

 可愛い声で、可愛い言葉を口にする。ありえない現象に、困惑して後ずさったものの、どんどん彼女は距離を詰めてくる。

 このままだと、ぶつかる―――――!


「―――――っ!」


 どさりと派手な音がして。


 2人の距離がゼロになる。

 僕の胸の中に、雛ちゃんが勢いよく飛び込んできた。


 


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雛の兄・麟のお話です♪
いじわる王子
バナー/楠木結衣様

雛の友達・紗英と蓮のお話です♪
可愛くない
バナー/楠木結衣様
― 新着の感想 ―
[良い点] ユウにぃのラーメンがすごく美味しそうなのに、全然美味しそうに食べないところがリアルだなぁと思います。火傷しかけて感覚が失われた口の中や、味がしないラーメンの胸につかえる感じが、世界が鮮やか…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ