40 あたしが触れていたいのは
ユウにぃと一緒には、いられない。
そんな事は、あたしにだって分かってた。あれだけ避けられていたんだ。彼の様子を見ていたら、あたしから離れたがっている事くらい気づいてた。
それなのに。
はっきりと言葉にされて、ショックを受けてる自分がいる。
それまでは何処か、現実味のないふわふわとした悲しさを抱えていた。彼の側にはいられない、そう感じてはいたものの、彼の口から直接聞いた訳じゃない。あたしの悲観的な想像に過ぎないと、そうであって欲しいと、心のどこかで淡い期待を抱いていたのだと思う。
ああ、ホントにユウにぃは、あたしから離れていく気なんだ……。
「さあ、頑張るぞ!」
彼を忘れていたくって。
あたしは溜め込んでいた夏休みの宿題を、黙々とこなすことにした。
幸い、課題はたっぷり残ってる。これだけあれば暫くは、ユウにぃの事を考えずに済みそうだ。溜めといてよかった。憂鬱な宿題もたまには役に立つんだな。
夏休み最後の一週間。心奈から遊びの誘いが来たけれど、宿題を言い訳にしてあたしは速攻断った。ごめんプールとか無理だよ。水着なんて着たらユウにぃを思い出しちゃうよ。
まぁ、出掛けている場合じゃないくらい、宿題残ってんだけど……
「ううむ……さっぱり分かんない……」
数学のプリントを広げて、軽く絶望。
やだ、やっぱり溜めなきゃよかった!
夏休み前半の、まだユウにぃが手伝ってくれそうな頃に、済ましておくべきだった!
やばい……っ、これ、本気で胸を痛めている場合じゃない……っ!
やってもやっても終わりが見えない。
涙目になりながら、あたしは必死でペンを走らせるのだった。
◆ ◇
気が付けば、新学期が始まっていた。
眠い目をこすりつつ着替えを済ませ、パンにかじりつく。大学はまだ2週間ほど休みが残っているようで、リビングには兄がいた。自分の部屋で寝ればいいのに、ソファの上でぐったりと横たわっている。
酷くお疲れの様子だ。優しい妹のあたしは、兄の身体にそっとブランケットをかけてあげた。
「おはよー、心奈、サエっ!」
教室の扉を開けた時の、ガラリと響く音が、なんだか心地良い。
「おはよ~、ヒナ。今日もギリギリだねっ!」
「眠そうな顔してるわね。昨日夜更かししたんでしょ?」
「うう……実はあんまり寝てない……」
休み明けの教室には、くすぐったい空気が漂っている。
久し振りに顔を合わせるクラスメイト達に、ちょっぴり新鮮なものを感じて、妙にそわそわしてしまう。入学式のそのあとの、浮足立った気分に少しだけ、似ている気がした。
「ヒナ~、そういや宿題終わったぁ~?」
「ふふん、バッチリ完成させてきたよ!」
「えっ、マジで!?」
2人と学校で会うのも久し振りだ。この軽快なノリが懐かしい。休み中に会ったとはいえ、学校の中と外では纏う空気が違ってる。
ざわざわとした教室の中で交わされる会話に、日常めいたものを感じてホッとする。あたしは、にこやかに笑っていた。
「一週間前に、半分も終わってないって嘆いていたのに!?」
「毎日必死で頑張ったからね」
「もしかして、今年もお兄さんに手伝って貰ったの?」
「ううん、今年はお兄ちゃんが手伝ってくれたの」
――そう、珍しく今年は兄が手伝ってくれたのだ!
宿題の、山に埋もれて一週間。暇を持て余しているのか、兄が毎日のように、あたしの所にやって来た。あたしを馬鹿にして、からかって、ついでに何故か勉強を教えてくれた。
どんな裏があるんだろう。兄が宿題手伝ってくれるなんて、初めてなんだけど。それも一週間みっちり付き合ってくれるとか、ありえなさすぎて、慄くんだけど……。
「ただいまー。あれ、まだ寝てたんだ?」
今日は始業式。半日で学校を終え、家に帰ると、朝と同じ体勢のまま、リビングのソファで兄が寝転んでいた。
あたしの声で目を覚ましたようだ。頭に手を当て、気だるげな瞳をあたしに向けながら、兄がゆっくりと身を起こした。
「もうお昼だよ? お昼ごはんの時間だよ?」
「誰かさんのせいで眠いんだよ。あー、頭いってぇ……」
ほんと憎らしい兄だけど、今日だけは、さすがのあたしも何も言えない。
ごめんね。結局、明け方まで付き合わせちゃった。
おかげで宿題終わったよ、ありがとう。
超スパルタの鬼教官だったけど。
「お兄ちゃん、ありがとね」
「なんだ、雛にしては珍しく素直だな」
「お礼に今日のお昼ごはん、お兄ちゃんの分もあたしが作ってあげるね」
「はぁっ? おま、恩を仇で返す気か!」
「大丈夫、あたしだってお湯なら沸かせるんだよ?」
「焼きそばでも作るか。3玉入りだし雛も食え」
「ひどい、あたしの好意がスルーされている……!」
「焼きそば、食わねーの?」
「くっ…! 悔しいけど食べたいっ……!」
いつもと同じ毎日。変わらないやり取り。
ただ、ユウにぃだけが側に、いない。
それでもあたしは心のどこかで、元に戻ることを期待していたんだ。
だからまだ、あたしは笑っていられたのに。
それから数日後。ユウにぃが、隣の家から姿を消した。
◆ ◇
「雛ちゃん? おーい雛ちゃん、聞いてる~?」
「え、すみません先輩、ちっとも聞いてませんでした……」
「最近ずっとぼんやりしてるよね。葉山さんが辞めちゃったから?」
新学期が始まって一週間が過ぎて。
週末、バイトに行くとそこにユウにぃはいなかった。土日両方ともシフトが合わないなんて珍しい。疑問に思いつつ次の週末バイトに行くと、やっぱりユウにぃは来ていなかった。
あたしの知らない内に、彼はバイトを辞めていた。
それだけじゃない。
ユウにぃは引っ越して、隣の家からいなくなっていた。あたしが学校に行っている、平日の昼間に事を済ませていたらしい。あたしは何一つ、知らされていなかった。
おばさんと母が喋っているのを聞いて、初めてその事を知った。
『―――え? あの子、雛ちゃんに何も言ってなかったの?』
知らない知らない。なんにも聞いてない。
『侑、一人暮らし始めちゃったのよ。ここから大学に通うのが、思ったよりも大変だったみたい』
なにそれ。なにそれ。そんなにあたしから、離れたかったの……?
ユウにぃに、笑って欲しかった。
手を繋いで欲しかった。頭を撫でて欲しかった。背中に飛びついて、腕に抱きついて、こげ茶の髪に、彼に触れていたかったのに。ユウにぃの温もりを、側で感じていたかったのに。
触れるどころか、もう、見る事すら叶わないなんて―――――
「ほんとうに、一緒に居られなくなっちゃった……」
ユウにぃが何処にもいなくって、あたしの心に、ぽっかりと穴が開いてしまってる。
笑顔が上手く作れない。バイトもミスしてばかりいる。授業中もぼんやりして、昨日も先生に怒られた。こんなんじゃダメって分かっているけれど、どうにも気力が出て来ない。
「雛ちゃん……」
おかしいよね。こんな状態なのに、なぜか涙も出てこない。ただただ頭がぼんやりしてるだけ。
ぼーっとし続けているあたしの肩を、先輩がポンポンと叩いた。
「その寂しさを俺が埋めてあげるよ。バイト終わったら一緒にクレープ食べに行こう、雛ちゃんの好きな苺のクレープがあるんだよ!」
「苺のクレープ……いらない……」
「そんな事言わずにさぁ、かき氷の埋め合わせしてよ」
「うっ……!」
そういえばあたし、先輩を誘っといて途中で抜け出したんだっけ。
お金も払ってなかった気がする……
「うう、ごめんなさい。クレープ行きます、今度はあたしが奢ります……」
ほんと、今のあたしはダメすぎる。
バイトが終わって用意を済ませ、廊下に出ると、先輩があたしに駆け寄ってきた。
「雛ちゃん、記念すべき2度目のデートだね! さぁさぁ美味しい苺のクレープ食べに行こ!」
先輩にとってお出かけは、なんでもデートになるらしい。
突っ込む気力も出て来ない。もうなんでもいいよ……
「ほら、手、手!」
脱力するあたしの目の前に、先輩が手を突き出してきた。掴めと言わんばかりに、パタパタと元気よく手を振っている。
海でもそうだったけどさ。先輩ってやたらあたしと手を繋ぎたがるよね。この手の、なにがいいんだろう……
「おぉ? やった、雛ちゃんが俺と手を繋いでくれた!」
「おおげさだなぁ。先輩って手を繋ぐの好きですよね」
「そりゃあ……好きな子に触れたいと思うのは普通でしょ?」
「え……」
好きな子に、触れたい……
「それは……お姉さんにも……?」
「え?」
心臓がどくりと跳ねる。
『雛ちゃんは僕にどうして欲しいの?』
ユウにぃが好きだから、触れたい。触れて欲しい。
それは当たり前の感情だとあたしは思っていたけれど。大好きな『お兄さん』への、普通の望みだと思っていたけれど……
「先輩、お姉さん大好きなんですよね。お姉さんにも触れたいの……?」
ねえ、あたしのこの願いは、『お兄さん』に求めるようなことなの……?
「やだなぁ、そんなこと思うワケないじゃん。俺、ねーちゃん好きだけどさぁ、触りたいとは思わないよ」
「お姉さんには、触りたいとは思わない……」
「当然でしょ。なに雛ちゃん、麟さんに触りたいの?」
「………お兄ちゃんに?」
首をふるふると横に振った。
兄は綺麗な顔をしているけれど。背が高くて、すらりとしたモデル体型をしているけれど。手触りの良さそうなサラサラの髪をしているけれど……
笑いかけて欲しいだなんて思わない。手を繋ぎたいとも、抱きしめて欲しいとも思わない。もちろん、飛びつきたいとも思わない。
兄に触れたいとか、一度も思った事、ない……
先輩が嬉しそうに微笑んでいる。
「だろー? 俺がこんな風に触れたいと思うのは、雛ちゃんだけだよ」
あたしは……あたしは……
あたしが触れたいと思うのは、ユウにぃだけだ……
9月の半ば。まだまだ明るい時間帯。セミはすっかり姿を隠し、トンボが辺りを彷徨っている。地獄のような夏の暑さは和らいで、程よい熱気を携えている。
「こう見えても俺、今、結構ドキドキしてんだよ?」
あたしと手を繋いでいるだけなのに?
先輩、まるであたしみたいだね。あたしもドキドキしていたの。ユウにぃと手を繋ぐと、すごくドキドキしていたの。ねえそれって。それって……
「あ~、もう店着いちゃったなぁ。残念」
クレープ屋は空いていた。手が離れて、先輩はすごく残念そうな顔をした。そんな先輩の様子を、あたしは冷めた頭で眺めてた。
繋いでいた手に視線を落とす。あたしはなんにも思わなかった。
やっぱり、ユウにぃだけだ。
先輩と手を繋いでも――――
あたしはちっとも、ドキドキなんてしてこなかった。