4 可愛いのは、何センチ?
思いのほか、暑くて重い。
あたしは、分厚い黒のコートを、前をきっちりと閉じて着こんでいた。そのままだと裾が地面に着いてしまうので、両手で必死にたくし上げている。
春休みも終盤を迎え、ぐっと暖かくなってきた。
今日みたいな良いお天気の日は、カットソー1枚だけで過ごせる気温になっている。防寒力の高い、想像以上に優秀なコートのようで、あたしの身体がじわじわと汗ばんできた。
隣の家のチャイムを鳴らすと、珍しく出てきたのはおばさんじゃなくてユウにぃだった。黒ずくめのあたしを見て、変な顔をしている。
「こんにちは、………雛ちゃん?」
「あれ、今日おばさんいないんだね」
「うん、今スーパー行ってる。それよりそのコート、麟のでしょ?」
「そう! こっそり借りてきたから、お兄ちゃんにはナイショだよ?」
怪しげなあたしに、何か言いたそうにユウにぃが視線を向けている。さらっと放置して靴を脱ぎ、ピンクの玄関マットに足を乗せた。
兄は背が高い。180は軽く越えている。だからコートも丈が長くって、あたしの全身を隠してもまだ裾が余ってしまう。
丁度いいと思って借りたんだけど、こんなに重いとは思わなかった……。
ぱっと両手を離した。家の中なら引きずってもいいよね!
2階の部屋に向かおうとしたら、後ろから心配するような声が聞こえてきた。
「雛ちゃん、コート脱がないと足元危ないよ?」
「大丈夫っ、コートはユウにぃの部屋で脱ぐよ!」
「でも裾踏んでる……」
「ひゃっ!」
階段を登ろうとして、足がコートにつっかえた。
バランスを崩して倒れそうになったけれど、後ろから息を飲む音と共に、2本の腕が素早くあたしに伸びて来た。
「………ほら、危ない」
彼もびっくりしたのだろう。見上げると至近距離に、ユウにぃの焦ったような顔があった。
ちくん、と胸が痛む。
「………ごめんなさい」
……こんな風に。
ユウにぃの忠告を、あたしはいつも素直に聞き入れない。言われた時は大丈夫だと思い込んでいて、結局、いつもこうして失敗する。こうして、ユウにぃにフォローをさせてばかりいる。
こういう所が子どもっぽくて、あたしは、妹になっちゃってるのかなぁ……。
あたしを抱き締めるユウにぃの腕に、ほんの少しだけ力が入った。無事で良かった、とポツリと呟きながら、ポンポンとあたしの肩を叩いた後、温かな腕は緩やかに離れていった。
今度はこけないようにしよう……。
反省したあたしは、コートの裾を握り締め、再びたくし上げた。
「それでも着たままでいるんだね」
「うんっ。脱ぐのはユウにぃの部屋に着いてからって決めてるの!」
「雛ちゃんは本当、僕の言う事聞かないよねえ……」
ユウにぃが、肩を竦めて苦笑した。さっきまで感じていた重量感が、失せている。振り返ると、ユウにぃがコートの裾を持ち上げてくれていた。
◆ ◇
「あのね、あたし大事な事に気付いたの」
「………うん?」
ユウにぃが少し首を傾げた。
部屋の入り口で突っ立っているあたしを、怪訝そうに見つめている。
「まだユウにぃに見せてなかったなーと思って」
「何を?」
「今度通う、高校の制服だよっ!」
じゃーん!と効果音を口にしながら、黒の重くて暑いコートを脱いだ。中から、高校の制服に身を包んだあたしが現れた。
紺の上着に、チェックのベスト。襟はセーラー風になっていて、ボウタイよりは少し太めのリボンが真ん中に付いている。スカートは、腰ではなく片側だけ肩にかかるような形で、カッターシャツの上から着こむタイプのデザインだ。袖口はパブスリープになっていて、可愛い。
そう、あたしの通う高校の制服は可愛いのだ!
この可愛い制服姿を、ユウにぃに見せておきたかった。
そして……可愛いって言って欲しい!
ご満悦のあたしを目の前にして、ユウにぃが口元に手を当てうつむいて、我慢できなさそうに肩を震わせている。
ちょっとそこ、笑う所じゃなくて、可愛いって褒めるとこ!
「そのために麟のコート着てきたの!?」
「だって、ギリギリまでナイショにしたかったんだもん」
「どうしてギリギリまでナイショにする必要があるの……」
「その方が見せた時に、『おおっ!』って反応してくれるかと思って……」
気のせいなんかじゃない。
あたしが何か言うたびに、ユウにぃの笑いが増幅されている……。
「この制服、可愛いでしょ?」
「ああ、うん」
「あたしの制服姿、可愛いでしょ?」
「うん、……うん」
可笑しそうなユウにぃにムッとしつつ、紺の上着を脱いだ。個人的には、この格好でカッターシャツが半袖なのが、一番可愛いスタイルだと思ってる。
ひとしきり笑って、ようやく落ち着いたのか、ユウにぃが再び視線をあたしに向けた。
目元にはまだ、薄っすらと涙が滲んでいる。
「可愛いよ、雛ちゃんに似合ってるね」
「……………ほんと?」
「ほんとほんと」
腹が立っていたのに。可愛いの一言で、口元がにんまりと緩んできた。
うう……ユウにぃの可愛い、超嬉しい!
「あのねっ、可愛く着こなす為に、あたし今、色々研究中なのっ!」
「そうなの? そのままで十分可愛いと思うけど?」
「この上着はない方が可愛いから、普段は脱いでいようかなぁ、とか。ベストはボタンを外して、前を開けた方が可愛いなぁとか、どう?」
「僕にはちょっとその違いがよく分からないけれど……たぶん、雛ちゃんならどれも可愛いと思うよ」
穏やかに笑みながら、ユウにぃが可愛いを乱発してくれている。
制服……見せに来て良かった!
晴れやかな笑顔を浮かべ、あたしはスカートの裾に両手をかけた。
「一番迷ってるのが、スカート丈なんだよね。春休みの内に縫っちゃおうと思ってるんだけど……どのくらいの長さが一番可愛いと思う?」
スカートは、既定のサイズだと膝より少し下になる。このままだと確実に野暮ったい。そして浮く。
両手を少し上げてみた。膝小僧より5センチ上のライン。落ち着いた雰囲気の長さだ。
「この位が無難かなぁ。でも、ちょっと物足りない気もするよねえ。ねぇ、ユウにぃはどう思う?」
「どう……って言われても……」
「もっと短い方が可愛いと思う?」
スカートの裾をぐいと持ち上げた。
太ももが半分くらい外に出る。
中学の時の体感だと、この位の子が大半だった気がしてる。大半の子が同じような長さというのは、周囲から外れないようにしている結果なだけで、可愛さを求めた結論ではない。おそらく、人によってベストな長さは違うのだ。あたしは、出来れば可愛さを追求したい。
スカートのセンスのいい丈の長さって、難しい。短い方が可愛いと思うけれど、短くしすぎるとバカっぽく見えてしまうのだ。周囲から浮かず、可愛く見えて、なおかつ品や知性も残せる絶妙なラインはどの辺にあるのか、考えるとどんどん分からなくなってくる。
「やっぱりこの位かなぁ。うーん……もうちょっと短くてもいいのかなあ……」
思案しながら、細かく裾を上下させていたら、突然、両手首をユウにぃに掴まれた。
「雛ちゃん」
ユウにぃの声が、鉛のように低くて重い。
びっくりして、あたしの手からスカートが離れる。裾が、あたしの膝の下まで降りた。
「………ユウにぃ?」
顔を上げると、ユウにぃが苦虫を噛み潰したような表情をしている。
あれ? なんか、怒ってる……?
「これが一番いいと思うよ」
「えー……」
これ、一番ダサいデフォルトサイズっ!
「この長さが、一番可愛いと思う」
「…………」
不満しかないけれど。
珍しく機嫌が悪そうなユウにぃに、珍しくあたしはぐっと言葉を飲み込んだ。
「ああ、そうだ」
思い出したように、ユウにぃがあたしにそれを告げた。
「雛ちゃんに言っておこうと思って。僕ね、バイト決まったんだ」
「そういえば前にチラシ見てたね。結局どこにしたの?」
「国道沿いのファミレスだよ」
「あそこかぁ。じゃあ、あたし食べに行くね!」
「いいけど……僕の担当はホールじゃないから、会えないと思うよ?」
「ええ、そうなんだ。残念……」
ぷっと頬を膨らますあたしから、ふいとユウにぃが視線をずらす。
「それでね、土日メインで入るから――――今週末から、来てもらっても、家にあんまりいないかも」
言葉を濁しながらそう告げたユウにぃに、あたしの心がざわりと音を立てるのだった。