37 口止め
カーテンの隙間から漏れる朝の光がくらりと眩しい。今日もいい天気のようだ。
興奮しすぎていたせいか、今朝は普段よりもずっと早くに目が覚めた。意気揚々と着替えをし、あたしは軽やかに階段を駆け下りた。
今日は、待ちに待ったバイトの日。
相良先輩も同じシフトの日。
ふふふ、しゃべってやる。
先輩に、ホントの事ぜ~んぶ、しゃべってやる!
リビングに入ると兄がいて、ソファに座って寛いでいた。あたしをチラリと一瞥し、フフッと薄い笑いを浮かべる。
むわー、腹立つ!
なにその笑い。なんでわざわざあたしを見て笑うかな?
いつもならじろっと睨むとこだけど、今のあたしは一味違う。敢えて、余裕たっぷりに微笑みながら、兄に朝の挨拶をした。
「お兄ちゃん、おはよう。もう起きてたんだ、早いね」
「早いって、もう9時過ぎてるからな。雛が遅すぎんだよ」
あたしの笑顔に眉をひそめながらも、兄がいつも通りの憎まれ口を叩いてきた。今日も最高に意地悪だ。
けれども、今朝のあたしは2味違う。にっこり笑ったまま食パンをお皿に乗せ、冷蔵庫を開けた。
「おい、雛。イチゴジャムなら切らしてるぞ」
「ええっ!?」
「さっき俺が食べて、なくなった」
「えええ―――っ! 朝のパンにはイチゴジャムってあたし、決めてたのにぃぃぃぃぃぃ!」
「なんだよ、文句あるならもっと早く起きて来いよ。ジャムはないけどバターならあるから、そっち使えばいいだろ」
シンクには空の小瓶が置かれていた。ラベルには、あたしの好きなイチゴのマークが描かれている。
兄めっ! 普段はバター派の癖に。
どうしてこういう日に限ってジャムなのよっ!
言い返そうとして、ぐっと思いとどまった。今日のあたしは3味違う。大人しくバターをレンジにかけ、パンにぐりぐりと塗りたくった。
ふん、不敵に笑っていられるのも、今のうちよ。
その憎らしい顔、あたしが真っ青にしてやるんだから!
バタートーストを口に運んだ。バターの風味と塩分が口の中に広がって、これはこれで悪くない。むしゃむしゃと荒く平らげて、あたしは急いで家を出た。
◆ ◇
従業員用出入口の扉を開け、中に入ると、ユウにぃと吉野さんが通路の端で喋っていた。
朝っぱらから元気のないユウにぃに、吉野さんがケラケラと明るく笑いかけている。いつもなら、すごすごとUターンしている現場だけれど、今日のあたしは強気だ。堂々と2人の間に割り込んで、聞き取り調査に勤しんだ。
「相良くん? まだ来てないよ。いつも10分くらい前に来るから、まだまだじゃないかなー?」
「そっかぁ。ありがとう吉野さん」
「どうしたのー? 相良くんになにか用?」
「ええ………大事な話があるんです!」
拳をぐっと握り締める。10分前、10分前っと。
時計を見たら、普段より30分も早かった。
早く来すぎだし、あたし。
時間がたっぷりあるので、あたしは取り敢えず更衣室に入り、制服に着替えることにした。厨房組はラフな私服でOKだけど、客の目に触れるホール組には制服が貸与されている。紺のひらひらのスカートに白いエプロン姿。更衣室には全身映る鏡もあって、その前で腰のリボンをキュキュッと結んだ。
くるりと一回転して、うん、完成♪
それでもまだまだ時間があったので、あたしは扉の前で先輩を待つことにした。可愛さの欠片もない、シルバーの地味な扉をじっと見つめてみる。扉は年季が入っているのか、全体的にすすけていて、汚い。はっきりいって、見ていて楽しいものじゃない。
すぐに飽きて、あたしはブラブラと視線を彷徨わせた。
………あれ?
曲がり角の陰に、誰かいる。吉野さんだ。もう一人は、靴しか見えないけれど、間違いない。あのこげ茶色の靴はユウにぃだ。
吉野さんが、ユウにぃに向かってクスクスと笑みを漏らしてる。ほんと、あの2人仲いいな。ユウにぃってば、早く家を出て早くここに着いて、いつも何してるのかと思ってたけど、こうして吉野さんとお喋りしてたのか……。
「こんにちは~雛ちゃん!」
「ひゃあ!」
突然、両肩をポンと軽く叩かれた。
振り返ると待ち人だった。あー驚いた。びっくりして、飛び上がりそうになっちゃった。
「こんなところでどうしたの? もしかして俺を待ってたの?」
「ええ、そのとーりです!」
「え、マジで!?」
先輩が驚いて、あたしを不思議そうな目で見ている。まあそうよね。先輩を待ち構えているあたしなんて、過去のあたしが見たらびっくりものよ。
「なに、大事な話でもあるの?」
「はい、そのとーりです!」
「うわ、マジで!?」
びっくりするのは分かるけどさ、先輩。
自分から正解言っといて、あたしの返事に驚かないで……。
あたしはわざとらしく、コホンと咳払いをした。
時間がない。パパっとササっと、真実を伝えないと。
「大事な大事なお話、それは、あたしのお兄ちゃんとユウにぃのお話です!」
「えー、葉山さんと麟さんの話? なんだ、俺に愛の告白するんじゃないの?」
「やだ、そんな予定は全くないですよ?」
不満そうな顔されても困るんだけど……。
あたし先輩の事、断りまくっているのに、どうして愛の告白なんて言葉が出てくるんだろ。謎だ。
「はいはい、あの2人の話ね。で、何? 2人の高校時代の話でも聞きたいの?」
「それなんですけど、先輩の勘違いなんです!」
「勘違い?」
「そうです、あの2人、本当は―――――ふがっ、むが、もごっ…………」
付き合っていない、と言おうとして。
背後から伸びた大きな手に、あたしの口はぎゅっと塞がれていた。
「止めなよ」
耳に熱い、彼の吐く息が触れて。
とくりと甘く、胸の鳴る音がした。
あたしの背後にユウにぃがいる。あたしの口を塞ぎながら、もう片方の手であたしの肩を抱き寄せて、耳元に唇を寄せている。
かかる吐息がくすぐったい。肩に置かれた手が熱い。口を塞ぐ手のひらからは彼の匂いがした。
熱が、頬に移る。
あんなに意気込んでいたのに。
兄への怒りが、言葉と共に喉の奥へすうっと、消えてしまった。
黙りこくったあたしを見て、ひとまず安心したのか、口を覆う手が少しだけ緩んだ。唇が多少動かせるようになって、あたしはぼそぼそと、後ろに向かって言葉を投げた。
「誤解……解かなくて、いいの?」
う………
今、喋っちゃ、だめだ。
言葉を発するたびに、あたしの唇が彼の手のひらに、掠めるように触れてしまう……。
「いいよ。解く必要もないから、黙ってて」
耳元で再び囁かれて、あたしの胸がドクンと大きく反応した。
ああ、だめ。
心臓の音がバクバク、うるさくて。
このままだと、後ろにいるユウにぃにも聞かれちゃうよ……。
返事をしようとして、喋れない。
こくりと軽く頷くと、背後の熱はようやくあたしから離れて行った。
「……葉山さん? ……雛ちゃん?」
先輩があたしとユウにぃを見比べて、首を傾げている。
ああ、先輩にはもう、黙ってるんだっけ……
頭がうまく回らない。
「勘違いってなになに? 雛ちゃん、なにか言いかけてたよね?」
「いえその、勘違いしていたのはあたしです。なんでもないので、先輩は気にしないで下さいね」
「え~、なんか誤魔化してるでしょ。雛ちゃん顔真っ赤だよ?」
「…………っ!」
あたしの後ろにはまだ、ユウにぃがいる。
「葉山さんに何言われたの? 完熟トマトみたいな顔しちゃってさぁ」
やだ、それ以上何も言わないで!
ユウにぃが……変に思うじゃない……
「べべべ、別に何もっ! きょ、今日は朝から暑くて、のぼせちゃったのかなぁ~? おっかしいなぁ~? 後でかっ、かき氷でも食べに行こうかなっ!」
「雛ちゃんほんと怪しいよ? すごい噛みまくってるよ?」
「ききっ、気のせいなんですよ?」
もうっ! あたしなんて放っといて、さっさとあっちに行ってよ!
これ以上、真っ赤なあたしの追求なんてしないでよぉ……!
「外は暑いけど、ここはエアコン効いてて涼しいよねえ。て、葉山さんも赤いような?」
「えとえと、先輩も一緒にどうですかっ? きっと美味しいですよ、かき氷っ!」
「行く!」
「冷たい冷た~いかき氷、楽しみですね~♪ それじゃそろそろ、あたし行きますね~!」
「俺もすっごい楽しみだな~。じゃあ、また後でね~!」
本当に、人生は何が起きるか分からない。
勢いって怖い。焦って誤魔化しているうちに、あたしはなぜか、先輩とかき氷を食べに行くことになっていた。