36 警告
家に帰ると、玄関にユウにぃが立っていた。
何かの用でうちに来て、その帰り際らしい。廊下側で立つ兄を、段差の下から見上げている。
穏やかな笑顔を浮かべていた彼が、あたしを見て息を飲み、表情を凍らせた。
「ありがとう麟、帰るよ……」
「あぁ、またな」
「うん、また」
去って行く後ろ姿を目で追いかけた。ユウにぃは一度も振り返ることなく、隣の自宅に戻っていった。
大きなため息が漏れる。ほんとあたし、避けられてるなぁ。
今日はあれからずっと変な想像に悶え悩まされ、あたしは早々に帰宅をしたのだけれど、ユウにぃを見て沸いた頭が一気に冷えた。現実は、ご覧の通りだ。
バッグから携帯を取り出した。夕飯まで、時間はまだ十分にある。おばさんもいる事だし、隣の家のチャイムを鳴らせば、今なら、ユウにぃの部屋にお邪魔できるはず……
―――会いに、行ってみようか。
どくりと心臓が鳴って。でもすぐに、頭を振った。
ユウにぃは、あたしを見て凍り付いていた。
一言も交わす間もなく帰って行った。
そんなに、あたしに会いたくないんだ。目も合わせたくない、口も聞きたくないくらい。
そもそも、ユウにぃと会って、あたしはどうするつもりなの?
今まで通りの関係は拒否されているのに。あたしは彼になにを伝えて、なにを求めるつもりでいるの?
答えが出ない。冷ややかな声が、空白の間を破った。
「おい、雛! なに玄関先でぼけっとしてんだよ。間抜けな顔して突っ立ってないで、さっさと家の中入れよ」
「いっ、言われなくても入るし!」
マヌケとか、そんな言い方しなくてもよくない?
ほんと、お兄ちゃんてば、ユウにぃと違って優しさの欠片もないんだから。こんな鬼のような兄が、ユウにぃと仲が良いなんて。彼の笑顔を見られるだなんて……。
モヤモヤするものが、胸のうちに沸いてくる。
ユウにぃったら、こんな意地悪な兄と楽しそうに喋ってさ。笑ってさ。まさか、ホントに怪しい関係……なんて事ないよね……。
なんでもないって言っといて、まさか――――……
――――はっ。
あたし、どうかしてる。
お兄ちゃんにまで嫉妬しちゃうなんて、ちょっとやりすぎだ。
これはもう、笑うしかない。
笑って、嫌な事をパーッと忘れるしかない!
「なんだ。映画に行っといて、また映画見てるのか」
リビングでDVDを見ていたら、兄が2階から降りてきた。
こなくていいのに。あたしに厭味ったらしく絡みながら、冷蔵庫を開けて麦茶を取り出している。
「いいじゃない。笑い転げたい気分なの」
「ふーん」
適当な返事をしながら、兄がグラスにお茶を注いだ。一気に飲み干して2階に戻ると踏んでいたのに、グラス片手に、兄はソファに深く腰掛けた。
やだなぁ。居座る気だ。
「昼間に笑い転げてきたんじゃないのか?」
「ちっとも笑えなかったよ。だって今日見たやつ、恋愛ものだったんだもん」
笑うどころか……あんなの、泣くだけだ。
悩みを吹き飛ばすつもりで見に行って、大泣きしてしまうだなんて。サエにもビックリされちゃったし、あー恥ずかしい。
思い出して照れくさくなって、あたしは、わざとむくれた顔をした。
ああもう最悪。気分を変えたくて、秘蔵のコメディ映画を部屋から引っ張り出してきたのに、兄来るし。こんなのちっとも笑えないよ。
「それで仕切り直しか。やっぱ雛だな……」
「むかっ。なによそれ!」
「ほんっと、恋を知らないお子様だよなぁ、お前は」
うんうんと納得するように、あたしを見て頷いている。
どうやら兄はすごぶる暇らしい。あたしをからかう為にここにやって来たようだ。腰に手を当てながら軽くため息をつき、あたしを小馬鹿にした目でちらりと見下ろした。
そっ……そうかもしれないけど、しれないけど……!
上から目線で腹立つな。お兄ちゃんこそ人の事、言えるの!?
「そういうお兄ちゃんはどうなのよ。そういえば、お兄ちゃんてモテるくせに今まで彼女いた事ないよね。お兄ちゃんだって、初恋もまだなんじゃないの~?」
「はぁ? お前と一緒にすんなよ、雛」
「ふんっ、どーだか! そうよ。好きな子いるなら、ユウにぃに付き合ってるフリなんて頼まないよね。ということは……あっやし~い!」
「…………雛、お前、なんでそれ知ってんだ?」
兄が、口の端を歪めた。
眉をひそめて冷気を放ち、鋭い視線をあたしに向けた。
「……なんでって、有名だったんでしょ?」
「侑に聞いたのか? まさか、そんな訳ないよな」
「ユウにぃじゃないよ。相良先輩に聞いたんだよ」
「相良……? あの時のナンパ野郎か……?」
「へぇ、覚えてたんだ。そうそう、お兄ちゃんが失礼にも蹴り上げた人。先輩のお姉さんが、お兄ちゃん達と同じ高校だったんだって」
「言うなよ」
へっ!?
いやに圧のある声が聞こえてきた。あたしの肩が、びくっと揺れる。
「俺と侑がフリしてるだけだってこと、そいつには言うなよ」
「いっ、言わないけど……」
なに、その険悪な顔……
そんな顔してるのに綺麗に見えるって、何故……
至近距離で睨みつけてくる我が兄の顔を、あたしはまじまじと眺めてみた。
細められた目元には、長い睫毛がしっとりと縁を飾っている。引き結ばれた唇は、整っているのは勿論のこと、艶っぽくて品がある。程よい高さと、形の良さを兼ね備えた鼻といい、ニキビ一つ見あたらない新雪のような肌といい………
うん。やっぱり、兄は顔だけはカッコいい。そこだけはあたしも認めよう。笑顔が素敵、なんていうちっちゃなレベルじゃ全然ない。睨みつけていてもカッコいい。先輩の言う通り、イケメンの次元が違ってる。こりゃ、女の子に追いかけられもするわ。
だからなおさら理解出来ない。
「ねえねえ。お兄ちゃんはあたしと違うんでしょ? じゃあさ、フリなんてしなくても、好きな子とフツーに付き合えばいいじゃない。お兄ちゃんが頼めば、誰だって相手してくれるでしょ?」
そう、女の子に追いかけられてうざいなら、フツーに彼女を作ればいいだけだ。
なんでユウにぃを巻き込むかな。
「あのな、そう四六時中都合よく、好きなヤツとか転がってねーんだよ。フツーに、相手がいない時だってあるからな?」
「うわ、誤魔化そうとしてる! やっぱりあたしと一緒じゃない!」
「……言っとくけど中学の頃はいたからな、彼女」
「うそっ。そんな気配まるでなかったけど?」
「そりゃまぁ、1週間で別れたし」
「早っ」
「うるさいな、俺も色々あるんだよ!」
兄が麦茶を一気にあおり、音を立ててテーブルにグラスを置いた。
ええ、彼女いたの?
一週間で別れるとか、それ付き合ったうちに入れて、いいの?
「だからって別にフリしなくても……」
もごもごと言い返すと、思い切り鼻で笑われた。
てかさ、兄よ。飲み終わったなら、2階戻ろうよ……
「雛は女でいいよな。男は、よほど自分に自信のあるヤツ以外は、遠巻きに眺める無害なヤツしかいないしな。女はマジ遠慮がないから恐ろしいんだぞ」
「そ……そうなの?」
「いいか、3人だ。最初の3人、近寄ってきたら、あとはもう雪崩のように容赦なく数が増えていくんだぜ。フリでもしなきゃやってらんねぇ……」
………。
お兄ちゃん、顔色悪いよ……
「お、お兄ちゃんも大変そうだね……」
あたし、こんな顔したお兄ちゃん、昔、見た事あるんだ。
そう、あれはバレンタインという悪夢の日……
「でもさ、それなら女の子に頼めばいいじゃない。わざわざユウにぃに頼まなくてもさぁ」
「お前、女のくせに女の怖さ、知らねーの? 下手に女の子に協力なんて頼んだら、その子に危険が及ぶんだぜ? その点、男なら周囲も納得というか、あきらめムードというか、一歩引いた形で落ち着いてくれるんだよな」
サラサラの黒髪を揺らしながら、兄が満足げにうんうんと頷いている。
その原理、分からなくもないけどさ。でも、ユウにぃが可哀相なんだけど……!
「お兄ちゃんはそれで良くても、ユウにぃが可哀相じゃない!」
「いいんだよ、あいつにはちゃんと了解とってるんだから」
「了解って、ムリヤリ脅して言う事聞かせたんじゃないの?」
「おま、俺をなんだと思ってんだ?」
なにってそりゃ、鬼だよね?
「人聞きの悪い事言うなよな。だいたい、可哀相って雛にだけは言われたくねーし。お前の方がよっぽど可哀相な事してるくせに」
「え………っ」
ぎくりとした。
もしかしてお兄ちゃん、海での出来事、知ってる………?
「侑に、散々気を持たせて振ったんだろ。残酷な事するよなぁ。可哀相に落ち込んでるぞ、あいつ」
「別に、気を持たせてなんか……」
知ってるんだ……。
ユウにぃ、喋ったの? どこまで喋ったの……?
「いいか。あいつのこと兄としか思えないのなら、これ以上付きまとってやるなよ」
言われなくても、付きまとったりしないよ。
付きまとえないよ。ユウにぃに、避けられているってのに―――――
からっぽのグラスを片手に、兄がソファから身を起こした。シンクにグラスを置き、じろりと、あたしを脅すように睨みつけてから、リビングから出て行った。
なに、それ。
あたしがユウにぃに、可哀相な事をした―――?
そうかも知れないけど。そうかも知れないけど、お兄ちゃんだって絶対絶対、人の事、言えないし―――!
先輩に本当の事言うなって、どうしてよ。
そこまでしてフリ続けたいの?
ユウにぃに迷惑かけたいの?
ほんと、あたしの事言えないよね。
兄に、ふつふつと怒りが沸いてきた。
自分の事棚に上げて、好き勝手言ってくれちゃって。お兄ちゃんめ。
先輩に本当の事、絶対言ってやる……!
ぐっとこぶしを握り締めた。映画の内容はさっぱり頭に入って来なかったけど、あたしの気分はしっかりと変わったものになっていた。