34 予感
心が沈んでいる時は、身体を動かすに限るようだ。
吉野さんに誘われて、初めは気乗りしなかったのに。砂浜でビーチボールを追いかけている内に、あたしは幾分、心が軽くなっていた。
ユウにぃはシートの上で寝転んでいる。3人しかいないので、あたしと吉野さんの二人がかりで相良先輩と対戦した。
けっこう酷いハンデ戦だ。余裕で勝てると思ったのに、意外と白熱した戦いとなった。先輩は、背も高ければ手足も長い。そして運動神経も良い。ボールを追いかける姿は意外とサマになっていて、周囲から熱い視線を向けられていた。
ビーチバレーが終わり、少し休憩した後、吉野さんに連れられて今度は海に泳ぎに出た。遊んでいる間は思い悩まずに済む。頭をからっぽにしてはしゃいでいるだけで、どんどん時間が過ぎていく。
「雛ちゃん、疲れちゃったのかな? 眠そうだね。座席倒して寝てていいよー」
「いいんですか? ありがとうございます、吉野さん」
まぶたが重い。吉野さんの温かい言葉に甘えて、あたしは後部座席のシートを倒し、横になった。
「俺も雛ちゃんと一緒に、後ろでゆっくり横になりたいなぁ……」
「だめだめ、相良くんは隣でナビ頼むよー。ただでさえ疲れているところに、慣れない道運転するんだからさぁ。道案内くらいしっかりしてくれなきゃ困るよ」
「あーはいはい。分かってますよもう……」
先輩はまだまだ元気がありそうだ。
隣に座るユウにぃは、あたしに背を向けていて、頬杖をつきながら無言で窓の外を眺めている。
ここへ来る時は、あたしの手は彼の手と重なり合っていたのに。
隣に座っている彼が、今は遠く感じる。
なんとなく嫌な予感がした。ユウにぃはあれから、ちっともあたしを見ようとしない。さっきの出来事が気まずいのだとは思うけど、明らかにいつもと雰囲気が違ってる。
隣に手を伸ばした。シャツの裾を、指先でそっと掴んだ。
軽く、くいと引っ張ってみる。僅かに体が揺れたので、彼は気が付いたはず。ほんの少しだけ期待して、隣を見上げてみたけれど、やっぱり、ユウにぃはあたしを見ようとしなかった。
さみしくて、泣きたくなってきた。けれど、それよりも強い疲労に襲われて、あたしは深い眠りに落ちるのだった。
◆ ◇
嫌な予感は的中した。
ユウにぃはあたしからあからさまに、距離を取るようになった。
今までのように、一緒にバイト行くことは無くなった。あたしと鉢合わせない為だろう。彼は朝、ものすごく早く家を出るようになってしまった。
帰りも素早く支度を済ませ、あたしよりも先にファミレスから去って行く。
「ユウにぃ、まだ帰っていないんだ……」
「ごめんね雛ちゃん。あの子、最近夕飯の時間になるまで出歩いてんのよねえ」
帰宅してから隣の家のチャイムを押しても、玄関に彼の靴は見あたらない。いつも寄り道をして、どこかで時間をつぶしているようだ。
「あ、ユウにぃ、おはよ……」
「おはよう」
挨拶をすれば一応、返してはくれる。
同じファミレスで働いているのだ。仕事中には、顔を合わせることだってある。
でも、あたしと目を合わせようとはしない。素っ気ない返事をしながら、すっとどこかへ行ってしまう。仕事に関わる場面では言葉を交わしてくれるけど、あくまでも他人行儀なやり取りしかしてくれない。
もちろん、あたしの部屋を訪れる事も無くなった。
あたしもあたしで、海での出来事が気まずかったりはするので、それ以上しつこく追いかける気にもなれなかった。ほとぼりが冷めると、今までと同じような関係に戻れるのかな。期待してチラチラと彼を見るも、そんな気配はどこにも感じられなくて、溜息だけが零れていく。
休憩室に入ろうとすると、ユウにぃと吉野さんが砕けた様子で喋っていた。
リラックスした彼の姿。あたしには向けられなくなったそれを見て、胸がぎゅっと苦しくなってきた。
◆ ◇
まただ………。
あたしは、扉の隙間から2人の様子を覗き見た。
ユウにぃが疲れた様子で椅子に座っている。吉野さんが2つの紙コップに水を注いで、片方を彼に手渡した。ユウにぃはそれを気乗りしない様子で受けとり、口をつけずにテーブルの上に置いた。
吉野さんがニッと笑って、こげ茶の髪をぐしゃぐしゃと掻き回す。
ユウにぃが苦笑しながらも、ほんの少しだけ和らいだ顔をした。
最近、頻繁にこういう場面を見かけている気がする。
「仲いいな……」
2人の姿にムッとして、ポツリと小さく呟いた。
面白くない。吉野さんユウにぃの髪触ってるし……
前々から思っていたけどさ。吉野さんて、やっぱりユウにぃの事好きだよね。
からかわれているだけだ、なんてユウにぃは言っていたけどさ。そんなの絶対違うよね。好きだから構っているのを、からかわれてると思っているだけだよね。
あたしの事好きって言っておきながら、ユウにぃだってまんざらでもない様子だし。吉野さんに髪触られても、ちっとも嫌がってないし。むしろ微笑んじゃってるし。
心のどこかでは、吉野さんの事いいなって思ってたんじゃないの……?
あぁ、2人が楽しそうに喋り合っている。
吉野さんがユウにぃの肩を気安く叩いた。
あたしの苛々が止まらない。
やめてよ。触らないでよ。あたしのユウにぃに………!
「雛ちゃん、怖い顔してお腹でも痛いの? しんどいならチーフに言って、今日はもう帰らせて貰ったら?」
相良先輩の声がして、ハッとした。慌ててスマイルを顔に張り付ける。
………あたし、今、何考えてたの?
「全然ヘーキですっ!」
「最近の雛ちゃん、元気ないよね。無理しちゃダメだよー?」
「無理してないです……」
……あたしのユウにぃ?
違うじゃない。
ユウにぃはあたしのものじゃない。2人が仲良く喋っていても、吉野さんがユウにぃに触れていても、あたしに腹を立てる資格なんて、無い……。
先輩があたしの顔を覗き込んだ。
「取り敢えず扉の前でジッとしてないでさ、中入って休憩しなよ」
「え」
やだ、この中には、ユウにぃと吉野さんがいるのに……
「てか俺も、休憩しに来たんだよね」
先輩が躊躇なく扉を開けた。
開閉音がして、2人があたし達の方を向く。ユウにぃと一瞬だけ目が合った。柔らかい表情をしていたのに、あたしと目があった途端にそれは固くなり、すぐに視線は逸らされた。
本格的に、胸が苦しい。
「ほらほら雛ちゃんも来なよ、いちごオレ奢るよ~」
ユウにぃが、紙コップに入った水を一気に飲み干した。先輩に誘導されて、あたしが休憩室に入ると同時に、入れ違いに彼が部屋から出て行った。
やっぱりあたしは避けられている。
吉野さんが明るい様子で、先輩に声を掛けた。
「相良くん、私もなにか飲みたいな~」
「それ俺に奢れって言ってます……? まぁいいですけどね、こないだの車のお礼って事で」
「えー、車のお礼してくれるなら、ジュースじゃなくて別のものが飲みたいなー」
「言っとくけど俺未成年ですからね。飲みになんて行きませんよ?」
「残念、相良くんお酒飲めそうなのになぁ」
吉野さんは先輩とも仲が良い。
というかまぁ、吉野さんは基本的に誰とでも仲良く出来る人なのだ。
「吉野さんは何にします?」
「アイスコーヒー、あったかいやつ頼むよ!」
「んん?」
「冗談冗談♪ 暑いし、冷たいヤツよろしく!」
そう。あの気安さがユウにぃ限定じゃないっていうのは分かってる。
分かっているけどどうしても……苛々してきちゃうのだ。
「もう、変な事言わないで下さいよ。ちょっと考えちゃったじゃないですか」
「そんな顔しないでよ、折角のイケメンが台無しだよー」
「俺、吉野さんのおもちゃにされてる気がしてきた……」
先輩とふざけ合っている姿は、平気で見て居られるのに。
「雛ちゃんも何笑ってんの?」
ケラケラと、笑っていられるのに。
吉野さん。バイト先の先輩で、4つ年上のお姉さん。あたしが失敗した時はフォローしてくれるし、明るく励ましてもくれる。分からない事は親切に教えてくれるし、あたしは吉野さんが好きなはずなのに。
ユウにぃと笑っている時だけは、どうしても、好きだと思えてこなかった。