表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
33/68

33 願望と現実と


 前髪の隙間から、暗い海が見える。


 僕はのろのろと腕を動かして、岸へと向かってボートを漕いだ。

 心にはぽっかりと大きな穴が開いている。暑い夏のはずなのに、僕の心は冷え切っていた。



 彼女を泣かせてしまった。これで、2度目だ。


 リスタートを切ったはずなのに、振出しに戻ってしまった気分だ。

 いや、振出しなんて、そんな甘いものじゃない。僕は彼女にはっきりと拒絶されたのだ。もう何も始まらない。再び彼女を追う事なんて、僕に許されてはいないのだ。

 最悪だ。最初からやり直してやりたい。


 これまでの自分を思い起こして、緩やかに首を横に振る。いいや違う、違う。本来なら、とっくの昔にこうなっていた。そう、1度目のあの時に、僕はあの子を失っているはずだった。


 初めてあの子にキスをした、あの時に。

 泣かせてしまった、あの時に。



 彼女を泣かせた次の日の朝、僕は一人でバイトに向かうつもりでいた。


 あんなことがあったんだ。彼女からは、避けられるに決まってる。疑いようもなく、距離を置かれる事しか想定していなかったのに、自宅の前であの子は僕を待っていた。


 驚いて。驚きすぎて真っ白になった頭を急いで切り替えて、カラカラになった喉からなんとか声を絞り出そうと試みる。昨日の謝罪をするべきか、冷たい態度で彼女をきっぱり拒否するべきか。迷いながら口を開き、グルグルと思考を巡らせても纏まらず、結局僕は、形ばかりの挨拶を彼女に向けていた。


「……雛ちゃん、おはよう」


 意気地のない僕は、そのまま彼女の側を、そっと通り過ぎようとした。

 それなのに。


 あの子の華奢な指先が、僕の動きを引き留める。可愛い唇から謝罪の言葉が漏れてくる。怖い思いをさせたのに、変わらず、側に居たいなんて告げられて……

 遠慮なんて、しないでいいと言ってくる。


 泣かせたのに。嫌がる君に、自分勝手にキスをしたのに。謝るのは僕の方なのに、なぜかあの子の方が僕に縋って追いかける。


 ――――逆だろ?


 側に居たいのは僕の方なのに。君に触れていたいのも、僕の方なのに。本当は引き留めて縋りたいのも、どれもこれも行動に移す勇気がないだけで、全部僕の方なのに。

 あの子が僕を追ってくる。


 こんなの。前と、一緒じゃないか……


 心臓がどくりと跳ねた。僕と彼女の関係は、あんな事件を経ても尚、変わらないままなのか。そこまで僕はあの子にとって、『男』ではなく『兄』なのか。気まずいのも、焦るのも、ドキリとするのも何もかもが僕の方だけで、あの子は平気なままなのか。

 この調子だといつまで経っても変わらない。僕はあの子に惑わされ、振り回され続けるだけじゃないか――――


 情けない現状と、彼女への苛立ちと、どうしようもない自分への焦りに、どんどん腹が立ってきて。

 ぷちりと、僕の中で何かが切れた。

 

 

 気が付けば手を伸ばしていた。

 小さくて柔らかなあの子の手に、僕は掴みかかっていた。


 

 追いかけさせてやるもんか。

 振り回されてやるもんか。


 繋いだ手を、緩ませてなんかやるもんか。警告してやったのに、聞かない君が悪いんだ。僕はもう遠慮しない。優しいお兄さんの役なんて、2度としてあげられない。


 あの子が首を傾げてる。態度を変えた僕を見て、大きな瞳に戸惑いの色を浮かべてる。そんな彼女の様子を見て、僕は密かに留飲を下げていた。

 

 そう、少しは焦ろよ。僕の事、もっと意識しろよ。僕だって、やられっぱなしじゃないからな。追われる前に追ってやる。君が僕にした事を、今度は僕が君にしてやるよ。追いかけられるのはもう、おしまいだ。


 にっこりと微笑んで、僕は君を追い詰める。

 そうだ、これが正しい道なんだ。



 ――――君を追いかけるのは、僕の方だろ? 


 


 ◆ ◇




 9年もの間、ぐずぐずと行動できずにいた癖に。吹っ切ってしまえば、自分でも不思議なほど、するすると彼女に迫る僕がいた。


 手を繋ぐべく、僕の方から手を伸ばす。あの子のアイスに歯を立てる。彼女の部屋に押し掛けて、容赦なく可愛いよと告げてみる。自分の方から好きだ好きだと囁いて、思いのままに遠慮なく、あの子の身体を抱きしめる。


 僕の行為は加速する。最初は、それでも抑え気味に動いていたのに、段々と歯止めが効かなくなってきた。時折やり過ぎてしまった部分があったのは認める。けれど、仕方ないじゃないか。


 あの子が、真っ赤な顔をするんだ。


 僕に平気で抱きついてきた、あの子が。いつも平然として、余裕たっぷりに僕に絡んできたあの子が、僕に追いかけられて頬を赤く染めている。余裕を無くして、慌てて視線を逸らしてる。


 ピタリとくっついた彼女から、強くて速い心臓の音が伝わってきた。


 間違いない、僕はあの子に意識されている。その事にはっきりと気が付いて、気持ちが高揚せざるを得なかった。追いかけた甲斐があった。兄からの脱却、薄い望みだったそれが現実となっているのだ。


 彼女が僕の腕の中にいる。激しい鼓動を纏わせながら、僕に身体を委ねてる。耳まで真っ赤に染め上げて、へにゃりと表情を緩ませて、潤んだ瞳で僕を見上げている。この反応は間違いない、彼女も僕が好きなんだ。

 僕はすっかり騙されていた。



「――その好きは、僕の好きと同じなの?」


 問いかけておきながら、否定されると僕は思っていなかった。 黙ったままの彼女を見て、都合のいいように僕は勝手に解釈しはじめた。こんな顔をするなんて、同じに決まってるじゃないか。彼女の好きは僕の好きと同じだよ。


 彼女から甘い香りが漂ってくる。抱き寄せた身体は華奢なのに柔らかくて、心地がいい。ずっと手に入れたいと思い焦がれていたこの子が、ようやく自分のものになる……

 逸る気持ちに、返事が来る前に、我慢できずに僕は顔を近づけた。


 恐る恐るキスをして。拒否されないのを合意なのだと判断し、夢中になって彼女の唇を貪った。そうしていると、いつからだろう。右手に感じるあの子の頭が、もぞもぞと動いている事に気が付いた。慌てて顔を離す。

 改めて彼女の顔を見て、僕は一気に頭が冷えた。


 唇が真っ直ぐに引き結ばれている。彼女は、今にも泣きそうな顔をしていた。



「ごめんね、あたし、ユウにぃの事は、お兄ちゃんとして好きなの……」 


 背筋を冷たいものが走った。

 ぼたぼたと涙を零し始めた彼女を見て、焦って腰に回していた手を離す。それでも彼女は泣き止まない。僕のせいだ。僕はまた、この子を泣かせてしまっている。


 なんてことだ。彼女も僕を好きだとか、思い上がりもいい所じゃないか。彼女が抵抗しないのは、僕を受け入れてくれたから。そんなのは、僕の勝手な願望だった。彼女はキスに驚いて、動きを止めていただけだったのに。本当は、嫌がっていたのに……





「もうお昼だよ。葉山くん、これ食べなよー?」


 肩をポンと叩かれ、みんなのいる場所まで戻っていた事を思い出した。

 吉野さんに焼きそばのパックを渡され、苦笑しながら押し返す。食欲なんてちっとも沸いてきやしない。


「さっきからずっとぼんやりしちゃってさぁ。いいのー? 雛ちゃんが相良くんに絡まれちゃうよー?」


 いいも悪いも僕にはもう……邪魔する資格もありゃしない。


 雛ちゃんは波打ち際に座っていた。僕らのシートから目で追える位置だ。傍らには、彼女に話しかけようとしている相良くんがいる。胸がちくりとして、なるべく視界に入れないよう、僕は顔を逸らした。


「シートの上でじっとしてないでさぁ、ビーチバレーでもしようよー」


 とてもじゃないがそんな気分になれない。吉野さんに引かれた腕を、僕はやんわりと払いのけた。拒否の意味を込め、首を軽く横に振る。


 しばらくすると、3人のはしゃぐ声が聞こえてきた。どう誘い掛けたのか、雛ちゃんまで楽しそうにボールを追っている。笑っている顔を見てホッとすると同時に、暗い気持ちでいるのが自分だけなのだと感じで、また、溜息をついた。


 3人の様子を遠目から眺めていたら、うっかりと吉野さんと目があった。にんまりと笑われ、ウインクをされる。苦い笑みを返してから、ごろりとシートの上に寝転んだ。



 雛ちゃんじゃないけれど、僕も最初は、吉野さんから好意を寄せられていると思っていた。


 本当に僕は思い上がるのが得意らしい。いや、やたら視線を感じて、勘違いしないでいられる方がおかしいのだ。

 なぜかいつも、チラチラと見られている。頻繁に遊びや食事に誘われる。戸惑いつつ適当にかわしていたけれど、雛ちゃんがバイトを始めてしばらくした頃、ようやく理由を悟った。


「葉山くんって雛ちゃんが好きなんだね。意外だなぁ。私、高校時代の葉山くん達を知ってるからさー、そっちの趣味しかないのかと思っていたよ」


 僕は面白半分に観察されていただけだった。

 やたらと誘われていたのも、どうやら(りん)との関係を詳しく聞きたかっただけらしい。脱力するとともに、ものすごく焦った。


 麟との事を吉野さんは知っている。雛ちゃんにだけは隠しておきたかったのに、バラされたらどうしよう。しかも、僕の気持ちも知られてる……


 幸い、吉野さんは好奇心が旺盛なだけの気のいい人で、口止めを頼むとあっさり了承してくれた。なおかつ、僕に協力的に行動してくれる。僕をからかって楽しもうとする節があるのが難点だけど、彼女はこれでも一応、僕を応援してくれているのだ。


「まさか、吉野さんとの仲を疑われているとは思わなかったな……」


 嬉しかった。

 雛ちゃんが嫉妬してくれたのだと思った。


 あぁ、僕は本当に馬鹿みたいだ。嫉妬、そりゃしたんだろ。なんてことはない、彼女は大好きな『お兄さん』が取られると思ったんだ。僕の期待するような種類の嫉妬じゃなかった、ただそれだけだ。


 これから、彼女とどう接すればいいのだろうか。はっきりと振られて、諦めるしかないと言うのは分かってる。普通に考えれば、あの子から僕を避けるようになるだろう。

 けれど、もし。もしも彼女が、前回のように、変わらず僕の側に居ようとするならば。今までのような関係を求められたら、僕は―――――


 そんなの、絶対に無理だ。

 優しいお兄さんはもう演じられる気がしない。



「こうなりゃ、徹底的に逃げるしかないな」


 ぎゅっと目を閉じる。瞼の裏にはあの子の涙が焼き付いていた。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雛の兄・麟のお話です♪
いじわる王子
バナー/楠木結衣様

雛の友達・紗英と蓮のお話です♪
可愛くない
バナー/楠木結衣様
― 新着の感想 ―
[良い点] ここ5話くらいのジェットコースター展開に、手に汗握りまくりです。すごい。まさかの勘違いからの、まさかの再告白からの、この天国から地獄展開! ユウにぃ、受難! 雛ちゃん、手ごわいですねー。両…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ