33 願望と現実と
前髪の隙間から、暗い海が見える。
僕はのろのろと腕を動かして、岸へと向かってボートを漕いだ。
心にはぽっかりと大きな穴が開いている。暑い夏のはずなのに、僕の心は冷え切っていた。
彼女を泣かせてしまった。これで、2度目だ。
リスタートを切ったはずなのに、振出しに戻ってしまった気分だ。
いや、振出しなんて、そんな甘いものじゃない。僕は彼女にはっきりと拒絶されたのだ。もう何も始まらない。再び彼女を追う事なんて、僕に許されてはいないのだ。
最悪だ。最初からやり直してやりたい。
これまでの自分を思い起こして、緩やかに首を横に振る。いいや違う、違う。本来なら、とっくの昔にこうなっていた。そう、1度目のあの時に、僕はあの子を失っているはずだった。
初めてあの子にキスをした、あの時に。
泣かせてしまった、あの時に。
彼女を泣かせた次の日の朝、僕は一人でバイトに向かうつもりでいた。
あんなことがあったんだ。彼女からは、避けられるに決まってる。疑いようもなく、距離を置かれる事しか想定していなかったのに、自宅の前であの子は僕を待っていた。
驚いて。驚きすぎて真っ白になった頭を急いで切り替えて、カラカラになった喉からなんとか声を絞り出そうと試みる。昨日の謝罪をするべきか、冷たい態度で彼女をきっぱり拒否するべきか。迷いながら口を開き、グルグルと思考を巡らせても纏まらず、結局僕は、形ばかりの挨拶を彼女に向けていた。
「……雛ちゃん、おはよう」
意気地のない僕は、そのまま彼女の側を、そっと通り過ぎようとした。
それなのに。
あの子の華奢な指先が、僕の動きを引き留める。可愛い唇から謝罪の言葉が漏れてくる。怖い思いをさせたのに、変わらず、側に居たいなんて告げられて……
遠慮なんて、しないでいいと言ってくる。
泣かせたのに。嫌がる君に、自分勝手にキスをしたのに。謝るのは僕の方なのに、なぜかあの子の方が僕に縋って追いかける。
――――逆だろ?
側に居たいのは僕の方なのに。君に触れていたいのも、僕の方なのに。本当は引き留めて縋りたいのも、どれもこれも行動に移す勇気がないだけで、全部僕の方なのに。
あの子が僕を追ってくる。
こんなの。前と、一緒じゃないか……
心臓がどくりと跳ねた。僕と彼女の関係は、あんな事件を経ても尚、変わらないままなのか。そこまで僕はあの子にとって、『男』ではなく『兄』なのか。気まずいのも、焦るのも、ドキリとするのも何もかもが僕の方だけで、あの子は平気なままなのか。
この調子だといつまで経っても変わらない。僕はあの子に惑わされ、振り回され続けるだけじゃないか――――
情けない現状と、彼女への苛立ちと、どうしようもない自分への焦りに、どんどん腹が立ってきて。
ぷちりと、僕の中で何かが切れた。
気が付けば手を伸ばしていた。
小さくて柔らかなあの子の手に、僕は掴みかかっていた。
追いかけさせてやるもんか。
振り回されてやるもんか。
繋いだ手を、緩ませてなんかやるもんか。警告してやったのに、聞かない君が悪いんだ。僕はもう遠慮しない。優しいお兄さんの役なんて、2度としてあげられない。
あの子が首を傾げてる。態度を変えた僕を見て、大きな瞳に戸惑いの色を浮かべてる。そんな彼女の様子を見て、僕は密かに留飲を下げていた。
そう、少しは焦ろよ。僕の事、もっと意識しろよ。僕だって、やられっぱなしじゃないからな。追われる前に追ってやる。君が僕にした事を、今度は僕が君にしてやるよ。追いかけられるのはもう、おしまいだ。
にっこりと微笑んで、僕は君を追い詰める。
そうだ、これが正しい道なんだ。
――――君を追いかけるのは、僕の方だろ?
◆ ◇
9年もの間、ぐずぐずと行動できずにいた癖に。吹っ切ってしまえば、自分でも不思議なほど、するすると彼女に迫る僕がいた。
手を繋ぐべく、僕の方から手を伸ばす。あの子のアイスに歯を立てる。彼女の部屋に押し掛けて、容赦なく可愛いよと告げてみる。自分の方から好きだ好きだと囁いて、思いのままに遠慮なく、あの子の身体を抱きしめる。
僕の行為は加速する。最初は、それでも抑え気味に動いていたのに、段々と歯止めが効かなくなってきた。時折やり過ぎてしまった部分があったのは認める。けれど、仕方ないじゃないか。
あの子が、真っ赤な顔をするんだ。
僕に平気で抱きついてきた、あの子が。いつも平然として、余裕たっぷりに僕に絡んできたあの子が、僕に追いかけられて頬を赤く染めている。余裕を無くして、慌てて視線を逸らしてる。
ピタリとくっついた彼女から、強くて速い心臓の音が伝わってきた。
間違いない、僕はあの子に意識されている。その事にはっきりと気が付いて、気持ちが高揚せざるを得なかった。追いかけた甲斐があった。兄からの脱却、薄い望みだったそれが現実となっているのだ。
彼女が僕の腕の中にいる。激しい鼓動を纏わせながら、僕に身体を委ねてる。耳まで真っ赤に染め上げて、へにゃりと表情を緩ませて、潤んだ瞳で僕を見上げている。この反応は間違いない、彼女も僕が好きなんだ。
僕はすっかり騙されていた。
「――その好きは、僕の好きと同じなの?」
問いかけておきながら、否定されると僕は思っていなかった。 黙ったままの彼女を見て、都合のいいように僕は勝手に解釈しはじめた。こんな顔をするなんて、同じに決まってるじゃないか。彼女の好きは僕の好きと同じだよ。
彼女から甘い香りが漂ってくる。抱き寄せた身体は華奢なのに柔らかくて、心地がいい。ずっと手に入れたいと思い焦がれていたこの子が、ようやく自分のものになる……
逸る気持ちに、返事が来る前に、我慢できずに僕は顔を近づけた。
恐る恐るキスをして。拒否されないのを合意なのだと判断し、夢中になって彼女の唇を貪った。そうしていると、いつからだろう。右手に感じるあの子の頭が、もぞもぞと動いている事に気が付いた。慌てて顔を離す。
改めて彼女の顔を見て、僕は一気に頭が冷えた。
唇が真っ直ぐに引き結ばれている。彼女は、今にも泣きそうな顔をしていた。
「ごめんね、あたし、ユウにぃの事は、お兄ちゃんとして好きなの……」
背筋を冷たいものが走った。
ぼたぼたと涙を零し始めた彼女を見て、焦って腰に回していた手を離す。それでも彼女は泣き止まない。僕のせいだ。僕はまた、この子を泣かせてしまっている。
なんてことだ。彼女も僕を好きだとか、思い上がりもいい所じゃないか。彼女が抵抗しないのは、僕を受け入れてくれたから。そんなのは、僕の勝手な願望だった。彼女はキスに驚いて、動きを止めていただけだったのに。本当は、嫌がっていたのに……
「もうお昼だよ。葉山くん、これ食べなよー?」
肩をポンと叩かれ、みんなのいる場所まで戻っていた事を思い出した。
吉野さんに焼きそばのパックを渡され、苦笑しながら押し返す。食欲なんてちっとも沸いてきやしない。
「さっきからずっとぼんやりしちゃってさぁ。いいのー? 雛ちゃんが相良くんに絡まれちゃうよー?」
いいも悪いも僕にはもう……邪魔する資格もありゃしない。
雛ちゃんは波打ち際に座っていた。僕らのシートから目で追える位置だ。傍らには、彼女に話しかけようとしている相良くんがいる。胸がちくりとして、なるべく視界に入れないよう、僕は顔を逸らした。
「シートの上でじっとしてないでさぁ、ビーチバレーでもしようよー」
とてもじゃないがそんな気分になれない。吉野さんに引かれた腕を、僕はやんわりと払いのけた。拒否の意味を込め、首を軽く横に振る。
しばらくすると、3人のはしゃぐ声が聞こえてきた。どう誘い掛けたのか、雛ちゃんまで楽しそうにボールを追っている。笑っている顔を見てホッとすると同時に、暗い気持ちでいるのが自分だけなのだと感じで、また、溜息をついた。
3人の様子を遠目から眺めていたら、うっかりと吉野さんと目があった。にんまりと笑われ、ウインクをされる。苦い笑みを返してから、ごろりとシートの上に寝転んだ。
雛ちゃんじゃないけれど、僕も最初は、吉野さんから好意を寄せられていると思っていた。
本当に僕は思い上がるのが得意らしい。いや、やたら視線を感じて、勘違いしないでいられる方がおかしいのだ。
なぜかいつも、チラチラと見られている。頻繁に遊びや食事に誘われる。戸惑いつつ適当にかわしていたけれど、雛ちゃんがバイトを始めてしばらくした頃、ようやく理由を悟った。
「葉山くんって雛ちゃんが好きなんだね。意外だなぁ。私、高校時代の葉山くん達を知ってるからさー、そっちの趣味しかないのかと思っていたよ」
僕は面白半分に観察されていただけだった。
やたらと誘われていたのも、どうやら麟との関係を詳しく聞きたかっただけらしい。脱力するとともに、ものすごく焦った。
麟との事を吉野さんは知っている。雛ちゃんにだけは隠しておきたかったのに、バラされたらどうしよう。しかも、僕の気持ちも知られてる……
幸い、吉野さんは好奇心が旺盛なだけの気のいい人で、口止めを頼むとあっさり了承してくれた。なおかつ、僕に協力的に行動してくれる。僕をからかって楽しもうとする節があるのが難点だけど、彼女はこれでも一応、僕を応援してくれているのだ。
「まさか、吉野さんとの仲を疑われているとは思わなかったな……」
嬉しかった。
雛ちゃんが嫉妬してくれたのだと思った。
あぁ、僕は本当に馬鹿みたいだ。嫉妬、そりゃしたんだろ。なんてことはない、彼女は大好きな『お兄さん』が取られると思ったんだ。僕の期待するような種類の嫉妬じゃなかった、ただそれだけだ。
これから、彼女とどう接すればいいのだろうか。はっきりと振られて、諦めるしかないと言うのは分かってる。普通に考えれば、あの子から僕を避けるようになるだろう。
けれど、もし。もしも彼女が、前回のように、変わらず僕の側に居ようとするならば。今までのような関係を求められたら、僕は―――――
そんなの、絶対に無理だ。
優しいお兄さんはもう演じられる気がしない。
「こうなりゃ、徹底的に逃げるしかないな」
ぎゅっと目を閉じる。瞼の裏にはあの子の涙が焼き付いていた。