31 彼の『好き』は
首を、ゆったりと斜めに傾げた。
頭上からは太陽があたしたちを照りつけている。真夏の日差しは、遮るもののない海の上にいるせいか、くらくらと熱い。ユウにぃも暑いのか、頬を赤く火照らせている。
―――妹としてじゃないよ。
告げられた言葉の意味を、ゆっくりと回らない頭で推し量る。乱れる心音に邪魔されて、思考がちっともまとまらない。えっと、えっと……
首を横に振る。だってそんなわけがない。彼はいつも、あたしを小さな子どものように甘やかしていて、妹のように接していて……
―――妹としてじゃないよ。
ううん違う、違うよ。だってユウにぃは……
「ユウにぃが好きなのは吉野さんじゃないの……?」
「え……どうして吉野さんが出てくるの?」
自分の発言に、喉がつっかえたように苦しくなってきた。ユウにぃの顔をまともに見れなくて、でもやっぱり気になって、あたしは上目でチラリと彼を見た。
「だって、デートの約束していたよね」
「そんなの、した覚えないけど?」
「隠さなくてもいいよ。あたし聞いちゃった。休憩室でユウにぃ、吉野さんと予定のすり合わせしてたよね。晴れるといいですねって言ってたし……」
ユウにぃは首を傾げている。眉をハの字に曲げてしばし考え込んだ後、突然ぷっと吹き出した。
「雛ちゃん雛ちゃん、それ、やっぱりデートじゃないよ」
「じゃあなんなの。なんで笑ってんの」
「それさ、今日の話してたんだよ。みんなで海行くのに、吉野さんに予定聞かれたから答えていただけで……雛ちゃんも吉野さんに聞かれなかった?」
「ううん、あたし先輩から聞かれた」
「あ、そう……」
なんだ。デートじゃなかったんだ………
笑いながら否定され、あたしはホッとして息を吐く。けれど勘違いが気まずくて、恥ずかしくなってきたあたしは、ぷくっと頬を膨らませて、ユウにぃをじろっと睨んだ。
「あっ、でも! 一緒にご飯食べに行くって言ってたし。やっぱりそういう関係なんじゃないの……?」
なんて酷い態度。それなのに、あたしに睨みつけられて、なぜか彼は嬉しそうに口元を緩ませている。
「どうしたの雛ちゃん、ムキになって。もしかして妬いてくれてるの?」
「そっ、そんなんじゃないもん……」
自分の両頬に、ピタリと手のひらを当ててみた。膨らんだ頬には熱がこもっている。そんなあたしを見てにっこりと微笑みながら、ユウにぃがまた、あたしの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「吉野さんとはなんでもないよ。最近知ったんだけど、あの人は高校が同じだったんだ」
知ってる……
「だから麟との事も把握されててさ、からかわれているだけだから」
「からかってくる人と一緒にご飯食べに行ったの? ユウにぃって苛められたい人の?」
「まさか、違うよ。言いふらされたくなかったから、口止めも兼ねて話をする為に行っただけで……まぁ、根掘り葉掘り聞かれて本当、困ったけど……」
「そんな、秘密にしたいような事なら、断ればよかったのに。学校中に広まっているのに、口止めとか今更じゃない?」
「別に誰に知られてもいいんだけどさ」
気まずそうに頬を掻きながら、ユウにぃはあたしに向き直った。
「ただ……雛ちゃんにだけは、内緒にしておきたかったんだ。さっきみたいに、変に誤解されたくなかったから」
あたしの目を見て、念を押すようにゆっくりと、一つ一つ丁寧に彼が言葉を紡いていく。
「まさか、吉野さんとの事も誤解させてるとは思わなかったよ。あのね雛ちゃん、はっきり言っておくけど、僕は吉野さんと、もちろん麟とも恋愛関係になんかないし、そういう意味では2人の事をなんとも思ってないからね」
疑いようもない。ユウにぃはホントのことを言っている。彼はこんな風に真面目な顔をして、嘘をつくような人ではないのだ。
吉野さんとは、本当になんでもないんだ。
お兄ちゃんとも、なにもなくて……
「ユウにぃに恋人は、いなかったの……?」
「恋人なんてどこにもいないよ。疑わないでよ、頼むから」
「そっか、違ったんだ…………」
全てが、あたしの思い込みだったのだと理解した瞬間、身体中から、へにゃりと力が抜けていった。
のどに手をあてる。さっきまで感じていた重苦しさが消えていて、すっと軽くなっていて……
なぜか目頭から、熱いものがつぅと流れてきた。
「雛ちゃん?」
あれ、おかしいな……。
張り詰めていたものが溶けて、ぼろぼろと、あたしの目から涙となってあふれていく。なにも悲しい事なんて無いのに。ただ、ユウにぃに恋人がいなかったって、はっきり分かっただけなのに。
どうしてあたしは、泣いているんだろう……。
意味も分からずあたしは涙を零していた。ユウにぃがおかしなあたしをじっと見つめながら、そっと両手を伸ばしてきた。
あたしの口から、ちいさく声が漏れる。背中に温もりを感じると同時に、あたしは彼の胸に引き寄せられていた。
温かいユウにぃの腕の中。大好きな彼の匂いに包まれて、あたしは胸がいっぱいになってきた。
大きくて温かな左手があたしの背中を優しくさする。もう片方の手は、あたしの右肩に触れている。
ユウにぃの手のひらは、昔からちっとも変わっていない。あたしに差し伸べられるこの手は、いつでも温かくて優しいんだ。
「ユウにぃ、あったかいね」
「雛ちゃんもね」
涙はいつしか引いていた。彼の肩に顔を埋めたまま、照れくさい気持ちを誤魔化すようにへへっと笑うと、背中をさすっていた手があたしの腰に回り、動きを止めた。
ぴったりとくっついた彼の身体から、逸る心音が聴こえてくる。
あたしの身体からも似たような音が、たぶん向こうに流れてる。
「ねえ。雛ちゃんも僕が好き………?」
彼の声が耳元で響いて。一際、心臓が大きく跳ねた。
あたしは……あたしは……
「そりゃ好きだよ……。あたしユウにぃのこと、昔からずっと好きだもん……」
「そうじゃなくてさ。―――その好きは、僕の好きと同じなの?」
ユウにぃの声がほんの少しだけ低くって。言葉の端は微かに震えていた。
彼の様子がいつもと違いすぎている。あたしは、どうしていいか分からずに言葉が続けられないでいた。だって、妹としてじゃないよ、なんて、あたしは彼に告げられていて。
だって、それじゃあ、ユウにぃの好きは………
あたしの心臓が、バクバクと激しいものになっていく。
「雛ちゃんは僕の事……お兄さんとしてじゃなくて、男として、好きだと思ってくれている?」
あたしの好きは……
顔をあげると、ユウにぃの熱い眼差しと目が合った。
彼の視線を受け止めて、あたしの頬が熱くなる。きっと、耳まで真っ赤になっている。だってもう、どこもかしこも熱くって、あたしから湯気が出そうになっている。目尻には、さっきとは別の種類の涙が溜まりかけていた。
ユウにぃの瞳が甘やかに揺らめいている。
「その顔が、答えだと思っていいの―――?」
あたしの、答えは―――――
いつの間にか、彼の右手があたしの後頭部を抱えていた。後ろに反らす事のないよう、しっかりと固定されている。もう片方の手は、変わらず腰に回されたままで。
ユウにぃの顔がゆっくりと近づいてきて。
柔らかそうなこげ茶の髪が、あたしの前髪に優しく触れた。
「あ………」
漸く漏れた、あたしの小さな声が――――
瞬く間に、彼に飲み込まれていった。