30 妹なんかじゃなくて
燦々と照りつける太陽の下、あたしはぷかぷかと海の上に浮かんでいる。
あれから結局、相良先輩は吉野さんに引きずられたまま、2人は建物の方へと消えていった。あたしは、置き去りにされていた先輩のボードを拾いあげ、ユウにぃと2人で海に出た。
話を、聞くために。
ボードの上にうつぶせに寝そべって、背中に太陽の熱を感じながらのんびりと波に揺られている。先輩のボードは、2人並んでこうして身体を伸ばしていられる広さがあって、想像していたよりもずっと快適だった。
隣を見るとユウにぃが、組んだ腕に顔を半分埋めながら、ジッと海面を見つめていた。長い前髪が眼鏡にかかっていて、目元が完全に隠れてしまっている。
「そういえばユウにぃ、海なのに眼鏡かけてるんだね」
ぽつりと呟くと、ユウにぃが顔をあげた。あたしに向けられた穏やかな笑顔には、どことなく緊張の色が浮かんで見えた。
「掛けないと誰が何処にいるのか、全然分からなくなっちゃうからね」
「下向いてると、海に落ちちゃうよ?」
「バンドで固定してあるから大丈夫だよ」
よく見ると、眼鏡のつるの部分から、アルファベットのロゴの入った黒いバンド状のものが伸びている。両サイドのつるに繫げて、後頭部で固定しているようだ。さっきシートの上で何かやってたの、これかぁ。
バンドに触れてみたくなって、止めた。万が一にも、海に眼鏡が落ちたらピンチすぎる。めちゃくちゃ怒られちゃうよ、母と兄に……
「触っちゃダメだよ」
浮かせかけたあたしの手に、良からぬ何かを感じたようだ。先手を打つように、ユウにぃの手があたしの頭に伸びてきて、わしゃわしゃと髪を掻き回した。
わわ、そんなことしたら髪の毛、崩れちゃう!
「ユウにぃこそ、触っちゃダメなんだからっ!」
今日は髪を結っているのだ。乱暴に触られたら、ぐっちゃぐちゃになっちゃうよ!
あたしは慌てて、自分の頭に手を遣った。
「あ……」
ユウにぃの手の甲の上に、あたしの手のひらが重なった。
どくんと心臓が跳ねる。焦って、あたしはパッと手を退けた。
「雛ちゃん……」
喧騒が、遠くに感じる。
いつしか、周囲には人がいなくなっていた。だいぶ沖まで進んできたようだ。少し先に、遊泳区域の限界を知らせるオレンジ色のフェンスが連なっているのが見えた。
「さっきの、違うからね」
真横から、ぼそりと呟く声がした。
「その、本当に麟と付き合っていた訳じゃないから」
「本当に……?」
それにしてはさっきの反応、クロっぽかったけど……
「だから本当に違うんだよっ! 頼むから信じてよ雛ちゃん……僕と麟なんて、ありえないだろ?」
疑いの眼差しを向けられて、よほど心外だったのか、ユウにぃが勢いよく身を起こした。反動で、ぐらりとボートが揺れる。とっさに差し出された彼の手にしがみつきながら、あたしも緩やかに身を起こしボートの上に座り込んだ。
「ありえないとはあたしだって思うけど……じゃあ、相良先輩が嘘ついてたの?」
「いや、相良くんも嘘をついてるつもりはないんだよ」
ぼそぼそと、ユウにぃは話をし始めた。
高校に入って、兄に群がる女子の数がますます増えたという事。同じクラスの子のみならず、同じ学年、更には上級生までもが兄に群がり出した事。ある日、限界を迎えたらしい兄から、付き合っているフリを頼まれたという事―――
群れた女子が怖いってのは、分かる。バレンタインの時、遠目にもヤバい空気を感じたもん。あの鬼があの日は相当参ってた。あんなノリで日々女子に囲まれてりゃ、そりゃ、嫌にもなるよね……。
なんだぁ。そっかあ、フリかぁ。
……って。フリ?
「ちょっと待って! 付き合っているフリとか、頼む相手間違えてるでしょ。おかしいよ。そういうの、普通は女の子に頼まない?」
「それは僕も思ったよ。男同士でフリしても信憑性に欠けるんじゃないかって」
「お兄ちゃん、なんて?」
「女の子に頼むと、色々と後が面倒だって」
「…………」
兄め! あの鬼畜兄め!
自分の平穏の為に、ユウにぃを怪しげな疑惑に巻き込むんじゃないっ!
「なぜか簡単に信じて貰えて、おかげで麟も静かな学生生活が送れたって喜んでいたけどね」
お人好しのユウにぃは、へらりと呑気に笑っている。
「お兄ちゃんたら、ユウにぃの優しさに付け込んでなんて酷いことを……」
「そんな、変な事はしてないから平気だよ。最初にみんなの前で宣言したくらいで、後は一緒に登下校して、一緒にお昼食べて、たまに2人で喫茶店入ってお茶してたら、女の子達勝手に勘違いしてくれてたし」
あああ、あの喫茶店!
ユウにぃに連れてって貰った、ストロベリーティーのあの喫茶店!
お兄ちゃんと一緒に行ったことがあるって……そういう目的だったのかぁ!
「ううん、じゅうぶん酷い話だよ。ユウにぃは怒っていいよ。だって、そんな事してたら彼女だって出来ないよ?」
「いいんだよ。彼女は………どうせ作れなかったから」
あたしを見つめる彼の眼差しが、切なげに揺れていて。
どきりとして、思わず目を逸らした。
「今も続いてるって先輩、言ってたけど」
「ああうん、大学でもそういう事で話通してる。麟も騒がれて大変なんだよ、ほんと」
「ユウにぃ、お兄ちゃんに甘すぎ!」
「はは、それ麟にも同じ事言われたな。雛に甘すぎるって」
「~~~~~~っ!!」
そうだ。あたしも兄の事言えないんだった。
ユウにぃに甘えて、ワガママばかり言っていたのは、あたしも一緒だ……。
「ごめんなさい……。あたしも、ユウにぃにずっと甘えてばかりいたよね」
手のひらをきゅっと握りしめる。
うつむいたあたしの頭を、大きな手が優しくそっと撫でていく。
「気にしなくていいのに。僕には、甘えてくれたらいいんだよ」
「ユウにぃ優しすぎるよ……」
「優しい訳じゃ、ない」
ユウにぃの顔が、あたしの耳に近づいてきて。
そっと囁く声がした。
「僕は雛ちゃんが好きなんだ」
あたしはまばたきを3度して。
足元に広がる青を、ぼんやりと視界の中に入れていた。
波の音が、聞こえてくる。
海水浴場で遊ぶ人達のはしゃぐ声が、潮風に紛れて、あたしの耳に微かに届く。
教室のざわつきのように、近いはずなのに遠い音。うっかりすると途切れてしまいそうな、おぼろげな音が雑多に奏でられる中、一番激しく音を立てているのはたぶん、あたしの胸の音。
「雛ちゃんが、好きだよ」
彼がもう一度、同じ言葉を口にした。
9年間。何度も何度も、聞いた事のある言葉。
知っている。彼は、あたしを妹のように好きでいてくれる。
ちゃんとわかっているのに。この言葉を聞く度に、あたしの心がグラグラ揺れる。心臓が、ドクドクと煩くなっていく。
早く落ち着かせたくて、あたしは顔をあげた。こんなの、いつものやりとりだ。にっこりと笑って、あたしはお馴染みの答えを口にした。
「知ってるよ。あたしもユウにぃが好きだよ?」
「妹としてじゃないよ」
―――――え?
風が吹いて。
彼の前髪がふわりと持ち上がる。レンズ越しに見える彼の瞳は、切なそうに細められていた。






