3 幸せの60秒
爽やかな風が吹き抜ける、3月の下旬。
今日もあたしは、隣の家のインターホンを押していた。
音が鳴って、しばらくしてから扉が開く。
中からはユウにぃによく似た、穏やかで優しそうな女の人が現れた。ユウにぃのお母さんだ。
「あら雛ちゃん、いらっしゃい。侑なら部屋にいるわよ、上がってって」
「は~い、お邪魔しまーす!」
靴を脱ぎ、ピンクの華やかな玄関マットに足をかけた。
そっと目を閉じてみる。視界が真っ暗なままでも、あたしは彼の部屋まで辿り着けるのだ。左を向いて2歩進み、左手にある階段を左回りにねじるように15段、登っていく。もう一度左を向いて、廊下を真っ直ぐ、いち、にぃ、さん、しぃ、ご、ろく、なな。足を止めて、右にくるりと45度、回転する。
パッと目を開けると、見慣れた部屋の扉が見えた。お互いが小学生だった頃は、あたしは毎日のようにこの部屋へとやって来た。
3つも年下の、しかも女の子の相手だなんて、彼にとっては退屈だったに違いない。だけど優しいユウにぃは、あたしを追い返したりはしなかった。いつもにっこりと微笑んで、あたしと一緒に遊んでくれたんだ。
ユウにぃが中学生になると、それまでのように頻繁に訪れることが出来なくなった。部活や塾などで、彼が忙しくなってしまったからだ。それでも休日や長期休暇など、こうして隙を狙っては、あたしはここにやって来た。
本当は、あたしは彼にとって邪魔なんじゃないかと思う事がある。
本心ではうんざりしてるんじゃないかって、思ってしまう時がある。
けれど、ズルいあたしは今日もこうしてここに来る。ユウにぃと一緒に居たいから、彼の本音には触れないようにそっとして、素知らぬ振りして過ごしてる。
ユウにぃは優しいから、あたしといるのが嫌だなんて言ったりはしない。優しく笑って、あたしを部屋に迎えてくれるんだ。
おばさんも、いつも歓迎してくれる。
あたしはそれに、いつまでも甘えたままでいる。
◆ ◇
「ユウにぃ、なにしてるの?」
部屋を開けると、ユウにぃは机に向かって何かをじっと眺めていた。
少し難しそうな顔をしている。
「あぁ、こんにちは、雛ちゃん」
あたしの声に反応し、ユウにぃが振り返っていつもの笑顔を浮かべてくれた。
机の上には、新聞広告のチラシがいくつか並べられている。
「忙しかった?」
「いや、特に何かしてたって訳じゃないんだ。大学生になるんだし、バイトでも始めようかと思って、色々情報見てたんだよ」
「ふぅん、バイトかぁ。どこ行くの?」
「まだはっきり決めてないけど、家から近い所で探そうと思って。大学近辺もちょっと考えたけど、土日に通うのが大変だからね」
ユウにぃは苦笑しながら、机の上に広げられていたチラシをざっくりとかき集め、引き出しの中に仕舞い込んだ。
ユウにぃの通う大学は、片道1時間45分もかかるような場所にある。
高校まで30分のあたしからすると、ビックリするくらい遠い距離だ。けれど驚くことに、大学生だとこの位は通学圏内なのだそうだ。もちろん、この距離で下宿をしている人もいるようで、ユウにぃも最初はどうするか少し迷っていたらしい。
離れ離れの危機に、あたしもドキドキしながら事の成り行きを見守っていた。いや、見守るなんて殊勝な事はしていない。ここから通って欲しいなぁ、離れるのは寂しいなぁ、なんてワガママ言ってばかりいた。
結局、自宅から通う事にしたようで、ホッとする半面、ツキンと胸が痛んでしまう。こうしてあたしは、ユウにぃに迷惑をかけてばかりいる。
ちなみに兄も、ユウにぃと同じように自宅から通うつもりのようだ。
一緒に通学とか……それ、あたしが代わりたい……!
「ところで雛ちゃん、何持ってきたの?」
「ああこれ。ユウにぃと一緒に見ようと思って!」
手にしていたDVDを彼に差し出した。
パッケージを眺めながら、ユウにぃが不思議そうな顔をしている。
「これ有名なやつだね。恋愛ものだけど……こういうの、雛ちゃん好きだったっけ?」
「えと、急に好きになってきたの! ほら、あたしだってもうすぐ高校生になるんだし? 興味だって出てくるよ」
「ふぅん。雛ちゃんってコメディーが好きかと思っていたけど……こないだ見た映画も愉快なやつだったし」
「そういうのも好きなんだけどね~……へへっ」
取り敢えず笑って誤魔化してみた。
さすがユウにぃ、あたしの事をよく分かってる。
ユウにぃの指摘する通り、あたしは恋愛モノの映画にあんまり興味はない。
あたしは、映画は笑えるやつが好きなのだ。だからこないだのデートでも、その手の映画をチョイスした。内容は最高に面白かった。朝から積もり積もったイライラがすべて吹き飛んでしまえるくらい、笑い転げるような愉快なものだった。
家に帰って、すっかり上機嫌になったあたしは、早速友達のサエに電話をした。
デート楽しかったよ。映画すっごい面白かったの、おススメ!って。
そうしたら冷たい声が返ってきたのだ。
『雛、折角のデートなのに笑い転げてどうすんのよ。そこは恋愛モノ見て、ムード盛り上げる所でしょ!そんなんだから、いつまで経ってもアンタは妹キャラなのよ』
ぐさぐさぐさっ。
ムードかぁ。あたしとユウにぃの間に、これっぽっちも存在していないやつだ……。
恋愛ものかぁ。そういうものを2人で見れば、ちょっとはユウにぃもあたしのこと意識してくれるのかな。女の子として見てくれるようになるのかな……?
「まぁ、たまにはこういうのも面白いかもね。じゃあ、これ見ようか」
ユウにぃは無事、誤魔化されてくれた。あたしの下心には気付いていない様子で、持ち込んだDVDを大人しくセットしてくれる。本当にユウにぃはあたしに甘々だ。実の兄とは大違いだ。
テレビから離れたところに、ユウにぃが足を延ばして座り込んだので、その膝の上に腰を下ろした。
「ちょっ、どこ座ってんの? 雛ちゃん」
「え、特等席?」
「特等席じゃないよ。雛ちゃんも高校生になるんだし、もうそろそろ、子どもみたいな事するの止めなよ……」
ふん、だ。
普段は子供扱いする癖に、こういう時だけ高校生扱いするなんて、ずるいなぁ。
あたしは、ユウにぃにくっついていたいだけなのに。
「じゃあ、ぎゅっとして」
「えっ……」
「1分! 1分でいいからお願い! ぎゅっとしてくれたら降りるからっ!」
「え――……」
「ぎゅっとしてくれなかったら、降りないもん……」
「…………」
ユウにぃの声がピタリと止まった。
何やら考え込んでいるようだ。暫くしてから、大きなため息が一つ、聞こえてきた。
「……しょうがないなぁ、雛ちゃんは」
振り返ると、ユウにぃが困ったように眉根を寄せながら、両手を広げていた。
「分かったよ。ぎゅっとしてあげるから、ちゃんと数えるんだよ?」
「うんっ! ユウにぃ大好きっ!」
……ごめんなさい。
ユウにぃは嫌がっているのに、あたしはワガママばかり言っている。
こんな事だから、子ども扱いされるんだろうなぁ……。
分かっているのに、止められない。ほんとうにあたしはお子様だ。
背後から、ユウにぃの腕が伸びてきた。あたしの身体をふわりと柔らかく抱きしめる。
顔がにやけてくる。背中にくっついたユウにぃから、彼の体温がじわりと伝わって来て、とてもあったかい。この温度、大好き。
ああもう、子供扱いでもなんでもいいや。
こうしていられるなら、もういいや。
「60、59、58、57……」
ユウにぃの顔があたしの頭に近くって、少し短くて速い息遣いが聞こえてきた。耳をよく澄ませば、彼の心臓の音がトクトクとリズムよく鳴っているのが分かる。なんだか安心する音だ。
「36、35、34、33……」
わざとゆっくり数えている。ユウにぃにはたぶんバレている。この腕の中が昔から、あたしはとっても大好きなのだ。心地よくって、こうしていると、気分がすっと落ち着いていく。
いつまでもこうしていたいのに、ユウにぃはすぐに離れてしまうんだ。背中とおんなじで、ちょっとしかくっついていられない。
「4、3、2、1……ゼロ」
あーあ。60秒なんて、すぐに終わっちゃう。
名残惜しいけれど、仕方ない。約束なので、渋々あたしは膝から降りた。ユウにぃを見ると、ホッとしたように息を吐いていた。
あたしの頬が、ぷっくりと膨れていく。
そんな顔しないでよ。
あたしは残念な顔してるのに。あたしと離れて、ホッとした顔なんてしないでよ。
ユウにぃの隣に座って、持参した映画をじっと眺めてみた。
海外の映画だった。ヒロインはとても大人な女性で、あたしと全然違ってた。
こんなの見て、ムードとやらが生まれるものなの………?
愛を囁き合うシーンも、情熱的なキスシーンも、どれもこれもが、あたしには別世界にしか見えてこなかった。段々眠くなってきて、まぶたが閉じていく。身体がぐらりと揺れて、隣の彼にもたれかかっていた。
虚ろな意識の中、ユウにぃの声がぼんやりと聞こえてくる。
「僕も好きだよ、雛ちゃん。君の好きとはちょっと違うけどね」
知ってるよ。ユウにぃの好きは、妹としての好きなんだ。
あたしの好きとは違うんだ。
あたしの頭に温かいものが触れた。あたしの大好きな、ユウにぃの手のひらだ。ゆっくりと優しく動かされるそれに、ますます眠気を誘われて、程なくあたしは眠りに落ちていくのだった。