29 ユウにぃの恋人
無我夢中で、あたしは砂浜を走り抜けていた。
ユウにぃに捕まりたくない一心で、ろくに回りも見ないまま……
「わっぷ!」
そうして走っていると、ぽよんと弾力のある何かとぶつかった。そりゃそうだ。ここは、人気のない砂浜などではないのだ。周囲を見ずに走って、誰かとぶつかったとしても、ちっともおかしくなんかない。
急速に頭が冷えた。しまった!と後悔したものの、もう遅い。
弾みで、あたしの身体がぐらりと後ろに揺れる。
「大丈夫?」
よろけそうになったあたしの腕を、その人が素早く掴んだ。
腰の周りにも、もう一本腕が回される。しっかりと安定させた状態で、あたしの身体は引き起こされた。
「すす、すみません。前、ちゃんと見てませんでしたぁ……!」
「いいよ、密着できてラッキーだし」
「わわ、先輩!」
顔をあげると、へらりとした軽い笑顔の主がいた。
相良先輩だ。体格のいい先輩は、あたしのタックルを余裕で受け止めていた。良かった、ぶつかったのちびっ子とかじゃなくて……
目の前には薄っすらと日焼けをした、逞しい胸板が広がっている。
……ん? 逞しい……?
「あれ? あたし先輩とぶつかったんですよね? おっかしいなぁ……もっとこう、ぽよんとしていた気がするんだけど……」
お腹に視線を向けたけど、全然ぽよぽよしていない。
むしろ引き締まっている。あっれー?
「あのさ。俺って言うか、俺の持ってたコレとぶつかったんだよね」
先輩が地面を指さした。足元に、大きなボードの浮き輪が転がっている。
あたしは先輩の腕の中からすり抜けて、しゃがみ込んだ。浮き輪をツンツンとつつく。
「そんなすぐに離れなくても……。もうちょっと、俺の腕の中にいてくれても良かったんだよ?」
「あぁ、これかぁ、ぽよんぽよん」
「あれ? ところで雛ちゃん、葉山さんがすごい形相でこっちにやって来るんだけど、何やらかしたの?」
「わわ! ほんとだ、ユウにぃが怒ってる! なんで? ちょっと逃げただけなのに……!」
うう、やっぱりお話、聞かなきゃダメなの……?
「逃げずに謝りなよー」
「やだ、怖いっ!」
地面に落ちているボードを抱きしめながら、あたしは先輩の背中に回り込んだ。
でっかい先輩の影に隠れ……られないかな?
「雛ちゃん、こんなところで相良くんと何やってんの?」
地を這うような低い、ひくーいユウにぃの声。
恐る恐る顔を向けると、ユウにぃがあたしの至近距離で立っていた。非常に苛立った様子で、あたしを見下ろしている。
「ご……ごめんなさいっ!」
やっぱり、先輩の後ろに隠れ切るのは無理だったか……。
「突然逃げ出すからびっくりしたよ。ごめん、そんなに怯えないで。僕は怒ってる訳じゃないんだ。さっきも、雛ちゃんを責めるような話がしたかった訳じゃない」
「分かってる……。ユウにぃの言いたい事は、だいたい分かってるの。だから逃げちゃって……ごめんなさい」
「分かってて逃げたの? そんなに、僕の話は聞きたくなかったの?」
やるせない表情をした彼を見て、胸がチクチクと痛んできた。
「うん……聞きたくなかったの」
ユウにぃに彼女がいるなんて、あたしは知りたくなかったの。
でも。やっぱり、そんなワガママ言っちゃいけないんだ。
お話、ちゃんと聞かなきゃ。
「だめだよね。ごめんねユウにぃ。あたしちゃんと聞くから、お話して?」
「………。じゃあ、ちょっとこっちに来てくれる?」
「ここでいいよ。心の準備は出来てるし、サクッと告げてくれたらいいから」
ユウにぃは、あたしと相良先輩をチラチラと見比べた。
何やってんの? さっきの勢いはどうしたの?
まごまごしてないで、さっさと話してよ。
「なに、なんの話? 葉山さん、俺がいちゃ言いにくいような事?」
「先輩はとっくに知ってるよ。だから気にしないで話して?」
「え? 相良くんにも知られちゃってるの? で、でも……」
ユウにぃはやっぱり気まずそうに、先輩をチラリと見つめている。
なに、恥ずかしいの?
今更だよ。先輩にはとっくの昔にバレてんだから。
「ごめ、僕が気にするから、お願いこっちに来て……」
ユウにぃが顔を赤らめながら、あたしに向かって手を伸ばす。煮え切らないユウにぃの態度に、段々我慢が出来なくなってきた。
やめてよ。そんな風に改まれたら、あたしのせっかくの決心が揺らぐじゃない。こういうのは思い切ってパパっと言って貰える方が、サクッと受け止められるのに!
「もう、ユウにぃったらなに勿体ぶってんの? 彼女が出来たなら出来たって、さっさと言えばいいじゃない!」
「―――――え、彼女?」
気の抜けた声が2人分、聞こえてきた。
ユウにぃと、なぜか先輩も、ぽかんとした様子であたしを振り返っている。
あれ、おかしなこと言ったかな?
あたしはおずおずと、推測の結論を2人に向かって述べてみた。
「だから、ユウにぃは吉野さんと、付き合っているんでしょ?」
「―――――え、吉野さんと、付き合っている?」
2人とも、揃って首を傾げている。
あれ、違う?
「吉野さんじゃないなら、一体誰が彼女なの……?」
先輩がユウにぃをちらりと見た。
「葉山さんに彼女なんて、いないですよね?」
「いないよ相良くん。雛ちゃん、なに変な事言い出してるの?」
ええっ!?
先輩が言ったのに? ユウにぃに、恋人がいるって言ったのに!
自分の発言をすっかり忘れているのか、先輩は腰に手を当て首を傾げている。
「彼女じゃなくて――――彼氏がいるんですよね?」
―――はぁっ?
先輩、なに突然変な事言ってんの?
ユウにぃは男の人なんだよ? どうして彼女じゃなくて、彼氏になるの?
そんなの、いる訳ないじゃない!
ユウにぃがぎょっとしたような顔を先輩に向けた。先輩はなんでもない顔をしている。今日も暑いね! と同じくらいのノリで、サラッと当然のことのようにそれを言い放った。
「てかさ、麟さんと付き合ってんでしょ?」
――――――えっ……?
あたしの腕から、ボードの浮き輪がポロリと落ちた。
◆ ◇
頭の中、真っ白。
身体が硬直して動かない。口は半開きのまま、表情が固まってしまっている。今のあたし、きっとすごいマヌケな顔してる。でも、しょうがないよね、だって、だって…………
ユウにぃとお兄ちゃんが!?
ありえない、そんなの絶対絶対、ありえない!
白からようやく復活したあたしは、首をぶんぶんと勢いよく横に振った。振りすぎてくらりとしつつも、きりりと目に力をこめ、ユウにぃを見上げる。
ありえないよねっ、と言おうとして、言葉が詰まった。
ユウにぃはパッチリと目を見開いて、口をパクパクとさせている。
ねえ。顔、真っ赤なんだけど……
「相良くん、なんでそれ知ってるの……?」
「なんでって、有名だったじゃないですか。俺の姉ちゃん、葉山さん達と同じ高校なんですよねー。姉ちゃんに散々聞かされましたから」
「相良くんって……もしかして相良さん……」
ねえ、まさか、ほんとなの………?
先輩の顔、自信満々なんだけど!
ユウにぃ、さっきから全然、否定してないんだけど!
「……ユウにぃ?」
「雛ちゃん……これはその、なんというか色々あって……」
「ユウにぃ、ほんとにお、お兄ちゃんと……?」
「いや、違うんだ! 違わないけど違うんだ!」
ユウにぃが、変。
いやに狼狽えている。あたしに対して、はっきりしない物言いをしながら、先輩の姿をチラッチラ気にして見ている。
「今も続いてんですよね? 姉ちゃんの友達に葉山さん達と同じ大学の人がいて、たまに話聞きますよー」
「…………さっ、相良くん……!」
「あれ? 雛ちゃん驚いちゃって、もしかして知らなかったの?」
う、嘘~~~~~~~!!!!
いやっ、鬼兄とユウにぃとか、いやっ!
どういうことなの。家に帰ったら、お兄ちゃんの胸倉つかんでやる。がくがく揺らして、思いっきり問い詰めてやる!
興奮したあたしの腕を、ユウにぃががっちりと両手で掴んだ。
「雛ちゃん、話があるからこっちに来て!」
「ええっ!? これ以上、一体どんな衝撃の話があるっていうの……?」
「いいからこっち!!」
「あ、葉山さん! 待ってくださいよ~、俺これから雛ちゃんとボードに乗って遊ぶとこなんですから~!」
ずりずりと引きずられていくあたしの後ろを、先輩がボード片手に追いかけてきた。気のせいか、周囲の視線を集めてしまっている気がする。
なんだこの構図……。
「ユウにぃ、落ち着いて? もう分かったから。ユウにぃと、その……お兄ちゃんの事、あたし分かったから」
「雛ちゃんは、全然分かってない……」
ユウにぃは真っ赤な顔をして、唇の端を噛みしめて、焦った様子であたしをどこかに連れて行こうとしている。こんな必死なユウにぃ、見た事ない……
「あれ、こんなところにみんないたんだー」
緊迫した空気の中、吉野さんの呑気な声が聞こえてきた。
屈託のない笑顔をあたし達に向け、手を振ってくる。ユウにぃに軽くウィンクをしてから駆け寄って来て、それから吉野さんは、なぜか先輩の腕に自分の腕を絡ませた。
「探してたんだよー、相良くん」
「えぇ!? なんで俺!?」
「冷たいもの欲しくてさー。お店の場所教えてよ」
「俺に聞かなくても、あっちの建物に店いくつか入ってますよー?」
「そんな適当な事言わないで、ちゃんとナビ頼むよー」
「ナビって……ナビって……現地でもしなきゃいけないんすかぁ……?」
「当然だよ! 頼りにしてるんだから、頼むよー!」
がっちりと腕を組んだまま、吉野さんがずるずると先輩をひきずっていった。
先輩、体格いいのに、吉野さんになすがまま引きずられていくだなんて。
ああ。豊満な胸の感触に、抵抗しきれないんだね……。
遠ざかる2人に、あたしはそっと手を振った。先輩のボードが、砂浜にぽつんと取り残されている。
「ごめん、痛かった……?」
ユウにぃがあたしの腕から手を離した。
「ユウにぃ……」
「どうしても2人きりで、話がしたかったんだ」
ユウにぃは真っ直ぐに、あたしを見つめてきた。