28 触れたくて
砂浜の上には、先輩持参のレジャーシートが広げられていた。
シートは多人数用の大きなもので、4人で使うのに十分な広さがあった。おかげで、シートを忘れたあたしも、砂浜に直接荷物を置かずにすんだ。
相良先輩ありがとう。足踏まなくて良かった…。
というか、浮き輪の類も忘れてるしっ!
バッグ、パンパンなのに、おかしいな……。
お弁当なんてもちろん持ってきていない。水筒ですら入っていないのに、ほんと、なに入ってんだろ、このでかいバッグ……。
「雛ちゃん、しょんぼりしちゃってどうしたの? 後でこれ一緒に乗ろうよ~」
「やだっ!」
広いレジャーシートの上で、先輩が大きなボードの浮き輪に空気を入れている。
いいな。楽しそうだな。でもそのボード2人乗りだよね。ごめんなさい、先輩と2人で乗るの、ヤダ……
吉野さんが身体中にペタペタと何かを塗りたくりながら、興味津々に先輩のボードを眺めている。
「いいもの持ってるね~、相良くん。それちょっと貸してよー」
「えぇ!?」
「ゆったり寛げそうなサイズだねー。私これに乗って運転の疲れを癒したいなー」
「もう……貸してもいいけど吉野さんは後ですよー? 俺達が先に使うんで」
先輩の中ではもう既に、あたしと乗る事が決定事項になっているようだ。
おかしいな。さっきしっかり、ヤダって言ったのに……
吉野さんの向こうにはユウにぃがいた。胡坐をかいて座りながら、眼鏡に何かを取り付けている。前髪に隠れて、顔はちっとも分からない。
あたしの手がふわりと宙に浮く。はっとして、すぐに腕を下ろした。
「あたし、先に海行ってくるねっ!」
あたしは、パタパタと海に向かって勢いよく駆け出していた。
砂浜を走っている内に、息が切れてきた。
足取りが重くなってくる。うつむいて、とぼとぼと歩きながら波打ち際まで辿り着き、あたしはゆっくりとその場に腰を下ろした。
膝を立て、足をぎゅっと両腕で抱え込む。周囲には、キラキラと光る滑らかな白い砂が広がっていた。
潮の、香りがする。
あたしの身体の、胸のラインまでざぷんと波が跳ね上がる。海水が飛沫となって弾け飛んだ後、あたしの熱を引き連れて、するすると波が海へと去っていく。
ただそれだけの事なのに。繰り返しそれを眺めている内に、少しづつ心が落ち着いてきた。
そうだ。あんなの、気にするような事じゃない。
ただ、前髪が邪魔そうに見えただけ。作業がやり辛そうに見えたから、手助けしたくなっただけ。
車での出来事も、そう。
あれはどういうつもりだったのか、ちらっと気にはしたものの、たぶんそこに大した理由なんてないんだ。エアコンが寒くて冷えたとか、手を置いたら丁度真下にあたしの手があったとか、たぶん、そういった何でもないことなんだ。
「隣、座っていい?」
波に揺られながらジッとしていると、あたしの横に長い影が伸びてきた。振り向くと、ありふれた紺の水着が視界に映る。こげ茶色の髪を揺らして、ユウにぃがあたしを見下ろしていた。
なんでもない。だから、あたしはコクリと頷いた。
ユウにぃはホッとしたように表情を緩め、あたしの隣に腰を下ろした。あたしは再び視線を落とし、自分に絡む波を眺めていた。
「雛ちゃんて、昔から波打ち際が好きだったよね」
「そうだった……?」
「うん、海に来るといつもこうしてた」
好きなのは、ユウにぃが側にいたからだ。
泳げるようになるまで、あたしは足の着く所でしか遊べなかった。自分の背丈よりも深い場所は、浮き輪に乗った状態でも怖かったのだ。だからいつもこうして、海の端っこで海水に浸かっていた。
ユウにぃは泳げるのに、そんなあたしに付き合って、いつも隣に居てくれた。海を眺めながら、ささやかな波に揺られている。1人だとすぐに退屈になりそうなその遊びは、2人だと飽きることなく楽しめた。そうしている内に、いつしか、波打ち際があたしのお気に入りの場所になっていた。
ざぷん、と、二人の周りに飛沫が跳ねる。
柔らかな水着のスカートが、波の勢いに押されてくしゃりと形を歪めだす。引いていく波に、ゆるりと押し戻されたそれがふわりと水面に漂って、すぐに萎れて太ももに張り付いていく。
何度も繰り返されるそれを、あたしは飽きることなくじっと眺めていた。
ユウにぃがぼそりと小さく呟いた。
「もしかして、怒ってる?」
「え……?」
「雛ちゃん、車降りてからずっと僕を避けてるよね。目もすぐに逸らしちゃうし」
「ユウにぃの気のせいだよ」
「―――でも雛ちゃん。下唇、キュッと突き出したままだよ?」
「これは……っ」
気を抜くと。
自分の感情が、あたしの知らないどこかに流されてしまいそうで。
波に、打ち消してもらうまで。
揺れ動く水面を眺めながら、じっと堪えていただけだ。あたしが、あたしのままでいられるように。
「怒っている訳じゃ、ないから……」
潮の香りに紛れて、隣からユウにぃの匂いが漂ってくる。
ちらりと真横に目を向けた。彼は、あたしを優しい眼差しで見つめていた。
ああ、打ち消せない……
無意識にあたしは手を伸ばしていた。
こげ茶色の柔らかな前髪を、5本の指で掬い上げる。過去のあたしが、いつもそうしていたように。
ユウにぃの顔が露わになった。あたしと目が合って、彼がふわりと嬉しそうに微笑んだ。
「良かった、怒らせたかと思ってた」
「怒ってないよ。怒るのはユウにぃの方だよ」
「どうして僕が怒るの?」
「だってこれからあたし、怒ることするんだから……」
耳元で、息を飲む音がした。
あたしはユウにぃの胸元に顔を埋め、正面から抱き着いていた。
頬に触れる素肌から、彼の激しい鼓動が聴こえてくる。あたし今、すごいことしてる。
ごめんなさい。
髪に触れたくなって。
手を伸ばしたら今度は、ユウにぃに触れたくなっていた。
ユウにぃが硬直したまま動かない。
困らせてごめんね。ユウにぃ、あったかいね。
あたしの心臓がバクバクと音を立てている。それでもユウにぃと触れているのは心地いい。
この好きが、恋ではないと気付いても、やっぱり変わっていなかった。ここは、あたしの大好きな場所なんだ。
ユウにぃ、怒ってる?
でも何も言わないから。
以前のように、離れてくれって言わないから。あたしを振り解こうとはしないから。
だからたぶん怒ってない。たぶん、突然の事に驚いているだけだ。ちょっと困っているだけだ。
大好きな匂いに包まれて、あたしの心がじんわりと満たされていく。ごめんね、もう少しだけ困らせたい。
もう少しだけ、こうしていたい……
きゅっと腕に力を籠めた。
ごくりと喉の鳴る音がして、ユウにぃの口から言葉が漏れた。
「雛ちゃんに、言いたい事があるんだ」
真剣な声色に引き寄せられ、上を向くと、そこには真剣な目をしたユウにぃがいた。
あたしを真っ直ぐに見つめている。口元が、なにかを言いたそうに、パクパクと小さく動いている。彼の頬はほんのりと赤く染まっていた。
何? 何を言う気なの……?
「僕はね………」
胸が、ざわりと嫌な音を立てた。
いきなり抱きついたあたしを、たしなめるのかと思ったけれど、違う。
だって言い方が変に改まってるし、なによりも雰囲気がいつもと違いすぎる。妙に言いづらそうにしているし、これは、これは……
ユウにぃ、彼女の話をする気なんだ……!
「いやっ!」
あたしは反射的に声をあげ、耳を塞いでいた。
聞きたくない。
ユウにぃの彼女の話なんて、あたしは聞きたくなんかない。
「ひ、雛ちゃん?」
あたしは立ち上がり、走り出していた。
「いや、なんにも聞きたくない!」
「ちょっ……待って!」
待たないよ!
だって、はっきり聞いてしまったら、もう、おしまいになってしまうから。
ユウにぃが、慌ててあたしを追いかけてくる。よっぽど話がしたいんだ。なのにあたしが嫌がって、こうして彼から逃げている。
駄々っ子のような、事してる。
わがままは卒業するって決めたはずなのに。困らせるのは止めにしたはずなのに、やっぱりあたしは変わってない。自分の希望を押し通す事ばかり考えている、以前のあたしのままなんだ。
先輩の言う通り、ユウにぃには恋人がいたんだ。
ああ、あの部屋に、あたしは入れなくなってしまう。週末に2人で過ごせなくなってしまう。彼の隣に並ぶのは、あたしじゃない他の女の子になって……
あたしは、彼の側にはもう……居られない。
後ろからあたしを呼ぶ声が聞こえたけれど、あたしの足は止まらない。
現実から遠ざかるように、あたしは必死で走り抜けていた。