26 海と追いかけっこ
8月序盤の平日、今日は約束の海に行く日だ。
お天気は、雲一つない青空が広がっている。窓からはテープのように日の光が差し込んでいて、眩しい。今日もうだるような暑い1日になりそうだ。
あんまり暑いので、本日のヘアスタイルは2つ結びで決定だ。耳より下の位置で髪を結って、つばの広い帽子をかぶるのだ。
水着の柄と同じ、紺のドットのボストンバッグに荷物を詰めた。日帰りだけど、海に入るとなると荷物はどんどん増えていって、大きなバッグがパンパンに膨れてしまった。結構重いな、これ。
メインのバッグとは別に、あたしは斜めがけのミニバッグもサブで連れて行くことにした。財布や携帯、ポーチはここに入れておこうっと。
「雛ちゃん、準備できた?」
ボストンバッグを引きずりながら階段を下りていくと、リビングのソファに、ユウにぃが兄と並んで座っていた。ユウにぃったら、早めにうちに来て、あたしを待っててくれたんだ!
………って。
「友達と海に行くって、侑とだったのか」
「え、まあ、うん……」
兄にバレたしっ!
お父さんにもお母さんにも、『友達と海に行く』としか言ってなかったのに……
「なんだ、仲いいな」
「ちっ、違うもん! そういうのじゃないもんっ! 吉野さんや相良先輩も一緒で、4人で行くんだもんっ!」
「なに大げさに否定してんだよ。別に、侑と一緒だからって誰も何も言わねーよ。むしろ母さん安心するぞ。友達と海だなんて大丈夫かって、すっげえ心配してたしな」
お母さん……ほんとにあたしに信用、なさすぎ!
「お母さんに余計な事言わないでよ」
真実がバレたら、嘘つきの烙印まで押されてしまう。
ますます、あたしは厳しい目で見られてしまう……!
「はあ? 言うに決まってるだろ。よっぽど不安だったのか、こっそりついて行ってやれなんて言われてたんだぜ? 冗談じゃない、あんな危険なとこ俺は絶対行きたくない。侑も一緒だって伝えて、俺は堂々と部屋でのんびり過ごすからな」
お兄ちゃん……よっぽど、もみくちゃのバレンタインがトラウマなんだね……。
海辺に兄とか、あたしの監視どころじゃないよね、それ。
逆ナンにあいまくって、逃げ回る事になるんだろうな。可哀相に。ふふっ。おもしろーい。
「くそ、笑ってんじゃねーよ」
「お兄ちゃんも来る~? 一人くらい増えても大丈夫だよ~?」
「こんの、覚えてろよ……。母さんに、侑とデートだって言ってやるからな。ない事ない事、言いまくってやるからな!」
「でっ、デートじゃないしっ!」
鬼が、ニヤリと意地悪く口角をあげた。
「分かってるよ、デートじゃないんだろ? 母さんには、2人きりで海に行くって伝えといてやる。ついでに、リビングで抱き合ってキスしてたって言っといてやるよ」
「―――――っ!」
ぶわりと、あたしの顔が真っ赤に染まる。
とっさに、口元を手で覆い隠した。兄が、虚を突かれたような顔をしてあたしを見て、次の瞬間、あたしの手はユウにぃに捕まれていた。
「麟、あんまり雛ちゃんをからかうんじゃないよ。そんな嘘つく気もないくせに、もっと優しくしてあげな?」
「――――あ、あ?」
「そろそろ時間だし、行こうか」
あたしのボストンバッグをもう片方の手で掴み、ぽかんとした兄を無視してユウにぃが歩き出した。彼に手を引かれながら、あたしも一緒に玄関へと向かう。
前を歩く彼の耳は、赤く染まっていた。
◆ ◇
暑い夏の日差しの下、繋がっている手はもっと、熱い。
早足で歩いているせいか、こうして手と手が触れ合っているせいか、どくどくと胸が鳴って止まらない。
帽子のつばに手をかけて、きゅっと下におろし、深くかぶった。
待ち合わせ場所である、ファミレスの駐車場に辿り着いた。時間が時間だけに、パッと見て数えられる程度にしか車は停まっていなかった。
「2人とも、こっちだよー!」
吉野さんの声がして、あたし達は振り向いた。人気のない駐車場で、手をぶんぶんと大きく振る吉野さんに、あたしはすぐに気が付いた。
側には赤い車が停まっている。助手席には相良先輩がいたので、あれが吉野さんの車のようだ。
「なに、手なんて繋いじゃって。仲いいねー」
わわわ!
ばばっとユウにぃから手を離す。慌てるあたしを見て、吉野さんがくすくすと笑っている。
は、恥ずかしい……
「あ、ごめん! カバン持つよ!」
すっかり忘れてた。ユウにぃに、ボストンバッグを持たせたままだ!
手にばかり意識がいっちゃって、すっかり忘れてた……。
バッグを受け取ろうとして、ユウにぃに手を伸ばす。彼は笑って首を振るばかりで、結局車のトランクまで荷物を運んでもらうのだった。
海水浴場までは、車で90分の道のりだった。
高速を使って移動した後、地元の細い道を通り抜けて行く。この細い道がナビにはうまく反応しないらしく、相良先輩が道案内をしてくれた。先輩は慣れているようで、人の少ない穴場のスポットと、そこに一番近い駐車場を教えてくれた。
目的地に到着して、みんなが車の外に出た。吉野さんがトランクを開け、積んだ荷物を渡してくれる。あたしはそれをうつむきながら受け取って、輪の外側に移動した。
「相良くん、ナビありがとねー。おかげで迷わずスムーズに来れたよ」
「ここ初だとちょっと分かりにくいんですよねぇ。行きはまあ、俺がナビ役で仕方がないとして、帰りは雛ちゃんと2人で、後部座席でのんびりしたいなぁ」
「あははっ。来た道なんて、帰る頃にはとっくに忘れてるよー。相良くん、帰りも隣でナビ頼むよー」
「ええっ! 吉野さんマジっすか……もう、しょうがないなぁ……」
ぶつぶつと不満気に呟きながら、先輩があたしの隣にやって来た。あたしはそれに抵抗をせず、むしろユウにぃから離れるように、先輩の陰に隠れてこそこそと歩き出した。
「晴れて良かったね。雛ちゃんの水着姿、俺楽しみにしてたんだよ?」
「…………」
「あれ、照れてるの? 真っ赤になっちゃってかわいーな」
そう、先輩の言う通り、あたしは真っ赤になっていた。
先輩が助手席に座ったので、自動的にあたしはユウにぃと後部座席に乗り込んだのだけど、ここに来るまでの間! ずっと! ユウにぃの手があたしの手の上に乗っかっていたのだ。
うう、どういうつもりなんだろう……。
おかげで、ここまでずっとドキドキしっぱなしだ。
恥ずかしくって、あたしはユウにぃの側に近寄れないでいる。
「雛ちゃん、バッグ重いでしょ。持つよ?」
ユウにぃが近づいてきたので、あたしはするりと逃げるように、先輩の反対側に回り込んだ。後を追うように、あたしの隣に再びユウにぃがやって来たので、あたしはまた、先輩の反対側に逃げ込んだ。
自分の身体を起点にして、ちょろちょろと左右に逃げ回るあたしを、先輩が何か言いたげに目で追っている。
なにやってんだろ、あたし達。
「いい、自分で持つから、いいの!」
「そう………?」
ユウにぃの眉がキュッと寄せられて、表情が曇ったものになっていく。あたしが避けまくっているからだ。でも、ユウにぃのせいなんだから!
側に居るとドキドキしすぎちゃうから、だめだ。
ツンツンなあたしに諦めたようで、吉野さんに声を掛けられたユウにぃは、彼女と並んで歩き始めた。あんなに逃げ回っていた癖に、その姿を見て、あたしは胸がぎゅっと苦しくなってきた。
ほんと、なにやってんだろ、あたし。
先輩が戸惑ったような顔をして、あたしをチラリと見下ろした。
「あのさあ。最近、気になってたんだけど……雛ちゃんさあ、もしかして葉山さんが好きなの?」
―――――えっ?
先輩、マジな顔して、突然なに言ってんの?
ユウにぃが好きとか、先輩にも前に言ったよね。堂々と伝えて、しっかり空回りした記憶があるんだけど……
なに、先輩も鬼兄みたいに、改まってあたしに聞いてんの!?
まぁ。あの時と好きの意味は違うけど……
「好きだよ? お兄さんとしてだけど」
「え? そ、そう……かな?」
非常に歯切れの悪い返事が返ってきた。
先輩は首を傾げてる。でも少し、ホッとしたような顔をしている。なんなんだ。
お兄ちゃんといい先輩といい、なんなの?
その、あたしがユウにぃをすっ……好きみたいに言い出すの、なんなのよ……
あたし、ちゃんと分ったんだよ?
ユウにぃの事、お兄さんとして慕っているだけだって事。好きは好きでも、恋愛の好きじゃないって事、ちゃんと分かったんだから。
だから別に、そりゃユウにぃは好きだけど。彼女になりたいなんて言わないし。自分からくっつきに行ったりなんて、してないし。
なんかたまに、ユウにぃから触れてくるけれど。手とか繋ぎに来るけれど。さっきは車の中でずっと、あたしの手、触って来たけれど。でもそれだけだし。そりゃちょっとドキッとしちゃうけど、それはあたしが大人になっただけなんだし。
やっぱりユウにぃは大好きで、一緒のお出かけも楽しくて、部屋に来てくれたら嬉しいし、こっそり水着の色揃えちゃったりしたけれど。
それはあたしが、『お兄さんのように好き』ってだけなんだから。
だから違うもん。そんな風に聞かなくたって、恋愛の好きとは違うもん……。
「うん、そうだ、そうだよ。雛ちゃんは葉山さんの事、お兄さんとして好きなんだよね。俺もその気持ち、とってもよく分かるよ!」
先輩はコロリと態度を変えた。さすが切り替えの早い先輩だ。
そういや姉がいるんだっけ。先輩も、姉ちゃん好きとかいってたなぁ……
「まぁそれに、葉山さんには恋人がいるからね。好きになっても、残念だけど叶わないよね」
―――――――え!?
なんでもないようにサラリと告げて、先輩はあたしに、にこりと笑いかけた。