24 ユウにぃと吉野さん
休憩室に入ろうとしたら、中から声が聞こえてきた。
ユウにぃと吉野さんだ。扉の前で、あたしは動けないでいた。
「葉山くんってシフト、土日メインだったよねー。じゃあ行くのは平日にしようか。都合悪い日あるなら教えて?」
「バイト以外には何も予定ないんで、平日ならいつでも大丈夫ですよ」
「そうなんだー、了解っ。じゃ、また確定したら伝えるねー」
なに? 2人でお出掛けするの?
ユウにぃってば。
吉野さんとデートとか、するんだ………。
「楽しみだねー。楽しもうね」
「晴れるといいですね」
ユウにぃが穏やかに微笑んでいる。あたしの大好きな笑顔だけれど、その先にいるのはあたしじゃない。
吉野さんが嬉しそうだ。そんな吉野さんを見て、ユウにぃが微笑んでいる。ドアの隙間から覗く2人は、あたしの入り込めない世界に見えた。
チクチクとした痛みを胸に感じて、あたしはたまらず目を伏せた。
胸が、苦しい。
目の前の光景が、吉野さんの立ち位置が、たまらなく羨ましい。あたしには届かない。彼には手を伸ばせない。そこは、あたしの近づけない場所なんだ。だってあたしは、ユウにぃに恋をしていない。
吉野さんにも言われてたっけ……
『でもね、お兄ちゃん離れもしないと駄目だよ。いつまでも一緒には居られないんだよ?』
分かってる。そこはあたしの居場所じゃない。だってあたしは妹だもん。彼女なんかじゃないんだもん。
あたしがそこに居られるのは、本当に今のうちだけなんだ。ユウにぃに彼女が出来てしまえばもうおしまい。彼の部屋で過ごすことも、手を繋いでここに来ることも、勿論、あたしの部屋に来てくれる事も、何もかも終わってしまうのだ。
分かってる。あたしはユウにぃと、いつまでも一緒には居られない。
吉野さんと仲良く喋るユウにぃを見て。あたしは、苦しくて泣きたくなってきた。
◆ ◇
「あれ、雛ちゃん。入んないの?」
扉の前でジッとしていたら、後ろから明るい声が聞こえてきた。
相良先輩だ。
「どうしたの……って、葉山さんと吉野さんじゃん。なに喋ってんだろ」
「…………」
「あれ、もしかして雛ちゃん……泣いてる?」
「なっ、泣いてないよ! 元気いっぱいだし、あたし!」
ごしごしと目元をこする。にっと口角をあげ、笑顔を作って振り向いた。いつでもどこでもにっこりスマイル、バイトであたしが獲得した技だ。
振り向いた先にいた先輩は、珍しくも真面目な顔をしていた。あたしと目が合って、真顔になって、それからふっと表情を緩めた。
「そっか、俺と一緒の海、楽しみにしてくれてるの?」
「え、海? え、そういえばそんな約束してたっけ……」
「誤魔化しちゃダメだよ? 夏休みになったらみんなで海行く約束してたでしょ。いつにするか、予定詰めないとね」
普段通り、愛想のいいスマイルを浮かべている。
うん、いつもの先輩だ。
以前の先輩は、あたしの肩や腕に無遠慮に触れてきたけれど、最近はそういう事がなくなっている。どうやら、鬼兄の蹴りが効いているようだ。
先輩も根に持っていないようだし、よかった。兄もたまには役に立つんだな。
「そういや、雛ちゃん水着持ってる? 新しい水着、一緒に買いに行こうか」
「いっ!?」
触れては来ないけれど、お誘いの手は緩まない。
ほんと、ポジティブでめげない人だな。
「俺も新しいの欲しいと思ってたんだよね。ペア水着とかいいな。みんなびっくりするよ」
相良先輩と、ペアルック?
そんなのあたしもびっくりだよ。絶対絶対着たくない!
「そんなに激しく首横に振らないでよ、さすがの俺も傷つくよ? ペアは冗談としても、プレゼントするから見に行こうよ」
「いりませんっ!」
タダより怖いものはない。あたしはきっぱりはっきり、先輩の申し出にお断りを入れてやった。
しかし先輩の表情は、これっぽっちも曇らない。
傷ついてないよね、この人……
「嫌なら仕方ないな。水着を贈るのは諦めるからさ、せめて喫茶店でおごるくらいはさせて? ちょっとくらい、俺にもカッコつけさせてよ」
「えっ!? 一緒に出掛けるのは決定事項なの?」
「決定決定♪」
「でもあたし……」
「今日、雛ちゃんも俺とあがり一緒でしょ? 善は急げって言うし、早速見に行こうよ」
「えぇ……」
これって善なの?
善ってかんじ、どこからもしてこないけど!?
「相良くん、駄目だよ」
先輩の強烈な押しに、不覚にも負けそうになっていると、ユウにぃの声が聞こえてきた。
ばっと振り返ると、休憩室のドアが完全に開いていて、彼があたしの後ろに立っていた。咎めるような目つきをして、先輩に視線を向けている。
「葉山さん?」
「雛ちゃんは、今日、僕と約束してるから。だから駄目だよ」
「えぇ………そうなの?」
「あと水着も。僕と見に行く約束しているから、だからごめんね」
ユウにぃ、怒ってる……。
言い方はソフトだけれど、顔は全然笑っていない。彼は、強引すぎる先輩に怒ってる。
あたしの為に。あたしの代わりに、怒ってくれている。
ユウにぃは、あたしが困っていた事に、ちゃんと気付いてくれたんだ。
吉野さんと喋っていたのに、それよりも、あたしを助けに来てくれたんだ。
嬉しくて、目の端に涙が滲んできた。
「雛ちゃん、葉山さんの言ってる事ほんとなの?」
「うん、ユウにぃと約束してるの。だから無理なの、ごめんなさい」
「は――っ。まぁ仕方ないか……。また今度、埋め合わせしてね!」
悔しそうに言って、先輩は厨房の方へ戻って行った。
ほんと、とことんめげない人だな。
埋め合わせってなにさ……
「あ、ありがとユウにぃっ」
振り返ってお礼を言った。ユウにぃはあたしの顔を見て、眉をギュッと寄せた。
「あいつに、なにかされた?」
「なんにも……。ちょっと強引に誘われただけで、ユウにぃが助けてくれたから、へーきだよ」
「遅くなって、ごめんね」
「何もなかったのに、どうしてユウにぃが謝るの?」
「でも、雛ちゃん泣いてる……」
彼の長い指先が、あたしの目尻に優しく触れて、雫をそっと絡め取る。
どくりと胸が鳴って。あたしは、ぱっと彼の手を払いのけた。
「し、し、心配かけてごめん! あたしの為に嘘までついてくれて、ほんとにありがとう!」
「嘘なんてついてないよ。海もプールもここ数年行ってないからね、水着買わなきゃと思ってはいたんだ」
「そういえば、あたしも海とか何年ぶりだろう……」
「だからさ。バイトが終わったら、一緒に水着見に行こうか」
じっと見つめられて。
また、どくりと胸が鳴った。ぱっと目を逸らして、横を向く。
「僕と、来てくれる?」
不安げな表情をして、ユウにぃがあたしの顔を覗き込んだ。
顔が近い。唇が、近いよ。
顔から湯気が出そうになってきた。どっくんどっくんと、心臓がますます煩くなってくる。こんな調子で一緒にお出かけとか、大丈夫かな。あたしの心臓、持つのかな。
でも。ユウにぃと一緒に行きたい……
「うん……行く……」
だって、彼と過ごす時間には、終わりがあるって知ったから。
ユウにぃは明日にはもう、吉野さんの彼氏になっているかもしれないのだ。
そうしたらあたしは2度と、こうして一緒にお出かけ出来なくなる。一緒に街に出て、買い物なんて出来なくなる。
こんな風にデートなんて、出来なくなる。
……って、これデートじゃないしっ!
ぶんぶんと首を振った。違う、これはデートなんかじゃない。隣の家に住む兄みたいな人と、一緒に買い物に行くだけなんだから。
彼だって一人で行くのが億劫で、あたしを誘っただけなんだ。他はみんな、みーんな都合が合わなくて、だからしょうがなく、あたしで我慢しているだけなんだ。うん、きっと、そうなんだ。
他意は、ない。ない。ないんだからっ!
―――そう、デートは、あたしとじゃなくて。
彼はあたしとじゃなくて、吉野さんデートとをする。2人で、どこか出掛けに行こうとしている。あっちは本当の、本物の、デートだ。あたしとの、ちょっとした買い物とは、訳が違う……
鼻先がツーンとして。もう一度涙が滲んできた。
ユウにぃとのお出かけが、嬉しくて、楽しみで、幸せな気分になればなるほど、これが最後になるかも知れないと感じて、とても悲しくなって、あたしはまた、胸が苦しくなっていた。