23 60秒では終わらない
ユウにぃが本を読んでいる。
その周りであたしがチョロチョロと、好き勝手にして過ごしてる。それが、ここ数年の定番だった。2人きりで過ごす週末の、よくある光景だった、のに。
変化後のユウにぃは、あたしと一緒にいる時に、本を読まなくなった。
「雛ちゃん、これ見ようよ」
今日は一緒に映画を見るつもりのようだ。
ユウにぃが選んで薦めてきたものは、あたしの大好きな洋画のコメディものだった。面白そうなパッケージに心惹かれ、笑顔で首を縦に振る。
あたしの反応に気を良くしたのか、彼が嬉しそうに微笑みながら借りてきたDVDをセットして、テレビから離れた場所に腰を下ろした。あたしもワクワクしながら、彼から少し離れた場所に座り込んだ。
真横になんて、座らない。
そう、あたしは適正な距離を置く。
彼を困らせないためにも、きちんと距離を置く!
「おいで」
それなのに。テレビをじっと眺めていると、妙なセリフが隣から聞こえてきた。首を傾げながらぐるりと横を向くと、ユウにぃがあたしに向けて両手を広げている。
「特等席で見ていいよ」
「えっ……」
特等席って、まさかユウにぃの膝の上……?
春先の出来事があたしの脳裏を掠めていった。
そう、あの時のあたしは、そんな事を言ってユウにぃの膝の上に座り込んだのだ。あの時は嫌がられた気がするんだけど、今は、いいの………?
固まるあたしに構わず、にっこりとユウにぃは微笑んでいる。
「ユウにぃは、そういうの嫌なんじゃないの?」
「嫌じゃないよ。雛ちゃんなら、僕は全然構わないよ」
「でも……」
「どうしたの、遠慮して雛ちゃんらしくないね」
あたしの身体が竦んでる。妙な抵抗感を感じてる。
あの時は平気だったのに。彼の体温を意識して、胸がどくんと跳ねあがる。肩がキュッと縮こまる。手のひらを、あたしはぎゅっと握り締めていた。
「それとも、雛ちゃんこそ嫌になったの? 以前は僕の膝の上に座りたがっていたのに」
「い、嫌になってないよ。座る……」
彼の眉が不安そうに寄せられる。あたしは慌てて同意をし、ゆっくりと彼に近寄った。
ユウにぃに近づくのは、嫌ではないんだ。あたしはユウにぃが好きだから。お兄さんとしてだけど好きだから。だから側に行くのは全然、嫌じゃない。
ユウにぃの背中が好きだった。ユウにぃの手のひらが好きだった。彼と触れ合うのが好きだった。恋だとあたしは勘違いしてたけど、くっつく事自体は、それとは関係なしに好きだったのだ。
困らせるから止めようと思っただけで、嫌だから止めたい訳じゃない。
ただ……なんとなく、ためらってしまっているだけで。
心臓が、どくりと鳴っているだけで。
目をギュッとつぶって、そろそろと、ユウにぃの膝の上に腰を下ろした。
真っ暗闇にいるせいか、バクバクとした音がやけに大きく耳につく。
「やっぱり降りた方がいいよね? 重いでしょ、あたし」
「全然重くないって」
「ユウにぃ、足痛くなっちゃうよ?」
「雛ちゃんは軽いよ。だからそんなこと気にしなくていいんだよ」
本当に何もかもが逆になっている。困らせていたのはあたしの方だったのに、今はあたしが困ってる。頬が真っ赤に染まってる。このままこうしていると、あたしが、どんどんあたしじゃなくなりそうだ。
なんでもない。なんでもないんだ。
ユウにぃの足の上に座っている。ただそれだけ……
黙ってじっとしていると、ユウにぃが後ろからぎゅっとあたしを抱きしめてきた。
どくん、と心臓が一際大きく跳ね上がる。閉じていた目が、ぱっと見開いた。
ななななななな、なに!?
「ゆっ、ユウにぃ!?」
「……そういえば、前にこうしていた時にさ、雛ちゃんギュってして欲しがっていたよね」
「うん……」
「今日も、してあげるよ」
息が、止まりそうになる。
ああ、やっぱりあたしは、おかしい。
だって心臓が、ありえないほど激しく鳴っている。
シャツ越しに触れ合っている背中が、熱い。熱くてたまんない。
だめだ。このままだときっと、映画に集中できない。離れて欲しいけれど、本当の事なんて言えやしない。あたしは、必死に別の言い訳を探し出した。
「あ……それなら、また60秒数えないとだね。えっと、いち、に、さんっ……」
「数えなくていいよ」
60秒だけ耐えようと、駆け足気味に数を数え始めたあたしを、ユウにぃがやんわりと制止した。
「映画が終わるまでずっと、こうしているから。今日は数えなくていいよ」
「え…………」
「それとも、僕に離れて欲しいの………?」
言葉が、なにも出て来ない。
離れて欲しいけれど。それはこうして、ユウにぃに抱き締められるのが嫌だから、じゃ、なくて。あたしの心臓が、おかしくなっている、からで。映画を見たいのに、背中にばかり意識が、いってしまって。このままだとあたしは、ユウにぃの事ばかり考えてしまう……
――――変だよね。
今までのように側にいたいって、あたしが彼にお願いしたのにね。
こんなの、今まで散々、あたしからやってきたのにね。
今更戸惑っているなんて。
彼の事は、お兄さんだと思っているのに、ドキドキしちゃっているなんて。
だから離れてだなんて……言えないよ。
「ううん、このままでいて……」
背後でユウにぃが、ふふっと満足そうに笑った。あたしを抱きしめる腕の力が、きゅっと強いものになる。それにつられて、あたしの胸もきゅっと締め付けられたように、苦しくなってきた。
どうしたんだろう。
ユウにぃへの好きが、恋愛の意味で好きじゃないって気付いた途端、ドキドキするようになっちゃった。
あたし、おかしくなっちゃった。
……ううん、きっと逆なんだ。
今までのあたしがおかしかったんだ。
ユウにぃといえど男の人だもんね。
こんな風にくっついてたら、ドキドキするのも当たり前なんだよね。
うん。これでフツーなんだ。
恋していないと分かって。慕っているだけだと気付いて。あたしは目が覚めたんだ。やっと落ち着いて現実を眺めてみたら、ユウにぃが、兄は兄でも『隣の家の』お兄さんだという事を、あたしは知ってしまっただけなんだ。
くっつかれて、実の兄のように気持ち悪くはないけれど、ちょっと動揺しちゃうんだ。だって本当の兄妹ではないから。恐らくそういうものなんだ。
これが、きっと、たぶん、フツー。
サエ。あたしも大人になったよ………
サエの冷めた表情を思い浮かべ、あたしの心が落ち着いてきた。
ユウにぃに抱きしめられたまま、映画をじっと見る。期待通りの面白い内容に、背後の温もりを忘れて、いつの間にかケラケラとあたしは笑い転げていた。
「――――っ!」
あたしの笑う声が、止まった。
あたしの首筋に、ユウにぃが顔を埋めてきた。
肌に何度も当たる吐息の熱で、あたしの顔が一気に赤く染まっていく。
ど、ど、ど、どうしたの………。
もしかして、寝ちゃったの?
まさか、こんな笑える面白い映画で、ユウにぃってば眠れちゃうの!?
激しく動揺するあたしを余所に、ユウにぃの頭はぴくりとも動かない。そういえば、さっきからユウにぃはちっとも笑っていなかった気がする。これは、絶対に寝ているな………。
どっどっどっどっ
心臓が早鐘を打つ。もはや映画の内容なんて、ちっともあたしの脳に届かない。
まずい。
このシチュエーションは、まずい。
せっかく心安らかでいられたのに。
あたしの心臓がおかしくなってしまう。どうしよう。どうにかしないと……
首筋に触れていた吐息が、柔らかいものに変化した。
これは。
これは。
ユウにぃの唇だ………!
もう限界だ。あたしは白旗をあげた。どうにも耐え切れなくなって、両肘を真後ろに勢いよく突き立てる。背後から、軽いうめき声が聞こえてきた。ごめん、ほんとうにごめんなさい。
身をよじって、ユウにぃから離れようともがいていると、寝起きのせいか、熱っぽい瞳の彼と目が合った。
あたしの攻撃で、やっと目が覚めたようだ。
「ごめんっ、あたしちょっとトイレ!」
ゆっくり寝かせてあげられなくて、ごめんね。
恋愛映画を見て眠りこけてしまったあたしに、彼はずっと肩を貸してくれた。難しい本を読んで眠くなってしまったあたしに、彼はずっと膝を貸してくれた。
ごめんね。それなのにあたしは、ユウにぃのようにさせてあげられなくて、ごめんね。
乱暴なことまでしちゃって、ごめんね。
悪いのはあたしの方なのに。
優しい彼は。
トイレから戻ったあたしに、なぜか、謝ってくれたのだった。