22 逆転の好き
「どうしたの雛、ぼーっとして。もう行くよ!」
肩を叩かれて、はっとした。
目の前には、呆れた様子のサエがいた。
いつの間にか終業式が済んでいたらしい。周囲の子達が体育館の出口を目指し、大群となって列を成している。心奈がもどかしそうに、あたしの腕を引っ張った。
「もー! 明日から夏休みだからって、浮かれてたんでしょー」
夏休み。ああそうだ、明日から夏休みだったんだ。
ユウにぃの事ばっかり考えてて、すっかり忘れてた。
サエがあたしの顔を覗き込んだ。
「最近の雛、ちょっとおかしくない? やたらぼんやりしてるけど、お隣のお兄さんと何かあったの?」
何か?
ユウにぃと、何か……あった……
あたし、ユウにぃと、き……きききき……
「なに、真っ赤な顔しちゃって。マジで何かあったワケ?」
「なっ、ない、ないないない! 違うの、あれはそういうのじゃないの!」
「アレって何よ。まさかほんとに、付き合う事になったとか?」
「違うのっ! 付き合うとか、ないないないからっ! あたしね、ユウにぃの事、お兄さんとして好きだったの。付き合いたいとか、そういう好きじゃなかったみたい……」
「ふぅん……?」
サエが首を傾げている。
明日から夏休み、か。
大学は既に夏休みに突入しているようで、ここ数日、帰宅するとユウにぃがあたしの家にいる。あたしに、会いに来てくれる。
ユウにぃ、今頃、何してるのかな……
長い前髪を垂らしながら、本でも読んでいるのかなぁ。それとも、バイトかな? 今日も暑いから、コンロの前に立つのは大変だろなぁ……。
疲れて、お昼寝でもしていたりして。
ユウにぃの寝顔、当たり前だけど眼鏡外れててさ。普段より幼く見えて、ちょっと可愛いんだよね……
「ほら、雛! にやけてないで教室戻るよ!」
「わわ、ごめん!」
慌てて顔を隠した。挙動不審なあたしを見て、サエはまた、首を傾げるのだった。
◆ ◇
家に帰ると、門の所でユウにぃがあたしを待っていた。
「おかえり、雛ちゃん」
穏やかな笑顔を向けられて、どくんと心臓が鳴った。パッと目を逸らす。
「ただいま、ユウにぃ。どうしたのこんな所で?」
「雛ちゃんを待っていたんだよ」
心臓がまた、どくんと鳴って。あたしは今度は後ろを向いた。
「暑いんだから、家の中で待っていれば良かったのに。ずっと外にいなくても……いつもならまだまだ学校にいる時間だよ?」
「終業式って聞いていたからね。半日で終わると思ってたし、そんなに待ってないよ」
「じゃあ……午後から来れば良かったのに……」
ユウにぃの態度が嬉しいはずなのに。あたしの口からは、素っ気ない言葉ばかりが溢れてくる。
くすりと彼の笑う声がした。
「それより、お昼まだでしょ。うち来なよ」
「えっ?」
「今日、うちの母さんとおばさんでランチしてくるんだってさ。雛ちゃんのお昼ご飯の用意、おばさんに頼まれてるんだ」
お母さんてば、ユウにぃに何頼んでんの?
あたし、こう見えても女の子なんだけど。自分のお昼ごはんくらい、自分で用意できるんだけど?
お湯くらい、沸かせるんだから……!
「って、お兄ちゃんは?」
「麟は今日、大学に行ってるよ」
「夏休みなのに?」
「レポートをあげるために図書室にこもるって言ってたな」
「図書室なんかじゃ、お兄ちゃん静かに勉強出来ないんじゃあ……」
繰り返すが兄は女の子に人気がある。
図書室で勉強なんて、周りが騒いで捗らないんじゃないだろか。兄は部屋に引き籠っているのが、一番、平穏で安全な気がするんだけどな。
「ああ、心配しなくても大丈夫だよ。昔と違って、今はわりと静かになってるから」
「そうなんだ?」
「それに、レポートを書き上げるのには資料も必要だからね。麟の取り組んでいるテーマだと、図書室に行くしかないんじゃないかな」
ふーん。あの兄が、図書室で静かに勉強出来るんだ。
まぁ、見た目だけだもんね、鬼。じゃなかった、兄。
大学生って大人だもんね。性格の悪い男なんて、いくら見た目が良くてもモテなくなって当然だよね。
うんうん納得!
「で。雛ちゃんは、お昼ご飯に何食べたい?」
腕を組んで頷くあたしの横で、ユウにぃが優しく微笑んだ。
◆ ◇
ユウにぃとお昼ご飯を食べている。
以前は、あっさりと鬼に阻まれたのに。
飲み会なんて眉唾物の嘘で、強引に引き裂かれてしまったのに。ユウにぃにも断られ、必死だったあの時は、ちっとも思い通りにいかなかったのに。
今日はあっけないほど簡単に、彼と一緒にご飯を食べている。
「どう、美味しい?」
「うん、とっても美味しいよ! ユウにぃ料理上手なんだね」
彼のお手製チャーハンを食べている。
ユウにぃ作の、ミンチの入ったレタスチャーハンはとても美味しかった。お店のような火力は無いから、お米がパラパラとまではいかないけれど、それでも十分に素晴らしい出来栄えだ。
さすが、厨房担当しているだけの事はあるな。
どこからどうみても、あたしより料理が上手い。
「バイトで慣れたからね。喜んでもらえて良かった」
ホッとしたような顔をして、ふわりと彼が微笑んだ。穏やかな笑顔に、どきりとする。
ユウにぃの笑顔を見ていると、なぜか、心臓がどくどくと音を鳴らしだす。この妙な鼓動を消したくて、あたしは慌てて立ち上がった。
調子、ほんと狂う。
こんな笑顔、見慣れている筈なのに。ユウにぃの態度が以前と違うせいか、あたしまで以前と違うあたしになってしまってる。
「あっ、あたし、洗い物するよ!」
「いいよ。置いといてくれたら後で僕が洗うよ」
「ダメだよ! 作って貰ったんだし、せめてそのくらいはあたしにさせて?」
「気にしてるの? そんな遠慮しなくてもいいのに」
立ち上がったあたしの手に、ユウにぃの手が触れた。
どきりとして、ぱっと手を離す。
空になったお皿を持って、くるりと彼に背を向けた。
「ううん、あたしがやるの。ユウにぃこそ、遠慮しちゃだめなんだよ?」
「遠慮? 僕が?」
「ユウにぃ、まだまだあたしに遠慮してるでしょ」
気まずさを誤魔化すように、大きな声を出した。
そう、ユウにぃはあたしに遠慮してるんだ。
だからあたしに、洗い物をさせようとしないんだ。
そんなの。気にしなくたっていいのに。
「――そうだね。雛ちゃんの言う通りだよ。僕はまだ君に遠慮してる」
ユウにぃの、艶っぽい声が聞こえてきて。
背後から、彼の腕があたしの真横に伸びてきた。
思わず息を詰める。あたしの身体越しに伸びた手は、シンクの中にお皿を置いた。ことりと食器が音を立てる。
スポンジを掴む手に、キュッと力が入っていた。
「や、やっぱりね。遠慮しなくていいんだよ?」
「ほんとうにいいの?」
「いいよ。ユウにぃ、あたしに気をつかう事ないからね」
「じゃあ、雛ちゃんのお言葉に甘えて、遠慮するのやめようかな……」
「そうして!」
洗い物はあたしに任せて、座って!
スポンジに洗剤をつけ、あたしは食器類を洗い出した。それなのに、あたしの背後に立つ彼は、なぜかそのまま動かない。
座って待っていればいいのに。
後ろでジッとされると、緊張するんだけど……
落ち着かない雰囲気の中どうにか洗い物を終え、濡れた手を拭こうと横を向くと、ユウにぃがあたしの髪を一房つまんでいた。
「―――っ! ユウにぃ?」
「泡、ついてる」
そう言って、彼は長い指先で、あたしの髪を自分の顔に近づける。もう片方の指を伸ばして、髪に付着した泡を拭い取った。
「あ、ありがとう」
ユウにぃの指からパラリとあたしの髪が落ちる。ホッとしていると、彼が真っ直ぐな目をあたしに向けた。
「雛ちゃん。僕はね、雛ちゃんが好きだよ」
どくん、と、心臓が跳ねた。
分かってるけれど。その好きは、妹としての好きだって。
あたしの好きと、まったく同じなんだって。
だけどあたしの心臓は、ビックリして狼狽えている。
だって。好きだなんて、今まであたしからしか言わなかったもん。
こんなところまで、今までと逆になっている。
「あ、あたしも好きだよ……ユウにぃはあたしの、大好きなお兄ちゃんだよ」
「ありがとう……」
ふわりと微笑んで、どことなく寂し気に彼が目を伏せた。
ユウにぃの様子が以前と全然違ってる。嬉しいはずなのに、それはあたしを戸惑わせてばかりいた。