21 優しい兄と大事な妹
学校が終わって家に帰ると、玄関にユウにぃの靴が置いてあった。
お兄ちゃんのものでも、お父さんのものでもない、男物の靴。ユウにぃの髪の色と同じ、こげ茶色の靴。どこにでも売っているような、なんでもない靴なのに、履き慣れてくたびれた靴を見て、なぜだかあたしはどきりとした。
ローファーを脱いだ後、彼の靴の隣に自分の靴を、そろっと並べて置いてみる。
ユウにぃの靴、大きいな。
あたしの足が小さいだけなのかな。23センチ、平均的だと思うけど。
「むむむ……」
隣り合った2つの靴をじっと眺めていると、なんだかもぞもぞと、落ち着かなくなってきた。慌てて自分の靴を、彼の靴から離れた場所に置きなおす。
うんうんよしよし、これでよし。くっつかないって決めたしね。靴と言えど、あんまり近寄っちゃダメだよね。
―――ユウにぃ、お兄ちゃんの部屋にいるのかなぁ。
階段の下から2階を見上げ、右側に目を向ける。あそこに今、ユウにぃがいる。
手すりに手を置いて、2階へと続く階段に足をかけた。数え切れないほど通り抜けてきた階段なのに、壇上へ登る時のような、ぎこちない手足の動きになっている。
誰にも見られていないのに、変なの。自分の家にいて緊張するとか、意味わかんない。
トクトクトク、と、心臓の音が早くなってきた。
「ひゃっ!!」
あと3段で登り終えるという時に、兄の部屋の扉が開き、ユウにぃが廊下にやってきた。
「おかえり雛ちゃん。……ごめん、驚かせちゃった?」
「ううん平気。ただいま、ユウにぃ」
あたしの足が止まる。
2階の廊下は狭いので、人が2人、ギリギリすれ違える程度のスペースしかない。
先に進めなくてジッとしていると、ユウにぃがあたしを見て不満そうな顔をした。
「雛ちゃんは、本当に僕の言う事聞いてくれないよね」
「――――え?」
「スカート、切っちゃったでしょ」
「わわ、これは違うの!」
入学前に見せた冬物のスカートは、そのままなの。
今履いている夏物のスカートは、ちょっとハサミ入れちゃったけど……
だって暑いんだもん!
みんな、冬物はそのままだけど、夏物は切ってるんだもん!
女子の世界は厳しいの。右に倣えが鉄則なの。1人だけデフォルト丈貫くとか、いくら大好きなユウにぃの頼みでも聞いてあげられないの。
鬼兄の抱擁よりも無理なのよ、分かって……!
「こんなに短くしちゃって……」
ユウにぃがあたしのスカートをじっと見て、批難めいた声をあげた。
言うほど短くもないはず。膝上15センチ程度だし。こんなの普通サイズだし。心奈はもっと短いし。
「これね、夏物なの。ユウにぃに見せた冬物のスカートはあのままだよ」
「ああ、よく見ると生地が違うね。でもさ、こっちも元のままで良かったと思うよ」
「だってみんなこうしてるんだもん……」
「足、出すぎ」
憮然とした顔で、彼があたしの足に目を遣っている。気恥ずかしくなってきて、あたしは慌てて、両手を広げて自分の太ももに蓋をした。
「もう、そんなにジロジロ見ないで! それよりお兄ちゃんの部屋に戻らなくていいの?」
「それはいいんだ。雛ちゃんが帰ってくるまで麟の部屋で待っていただけだから。僕は、雛ちゃんに会いに来たんだ」
「そ……うなんだ」
「雛ちゃんの部屋にお邪魔しようと思ったんだけど、迷惑だった?」
「ううん。迷惑なんて、そんな事ないよ。ユウにぃならいつでも歓迎だよ?」
「ありがとう。じゃあ着替えたら教えて、行くから」
本当にユウにぃは、変わっちゃった。
兄の部屋ばかり訪れて、あたしにはちっとも会いに来てくれなかったのに。
こうしてあたしの部屋に来ようとするなんて、不思議で、どうしていいか分からなくて、願いが叶った今、あたしは嬉しさよりも戸惑いの方を強く感じてる。
廊下でユウにぃとお喋りしていると、うるさかったのか、兄が部屋から顔を覗かせた。鬼の出現に、咄嗟に身構えたものの、あたしは何もされなかったし、言われもしなかった。
普段の兄なら絶対邪魔してくるはずなのに、ビックリするほどなんにもない。おかしい。
兄はあたしを見て、ちょっと驚いたように片眉を上げた後、そのまま大人しく引き下がっていった。
お兄ちゃんまでおかしいし!
2人とも、一体どうしちゃったのよ。
◆ ◇
「懐かしいなぁ……」
あたしの部屋で何をすればいいのか、戸惑っていると、ユウにぃがアルバムを見たいと言い出した。彼の部屋であたしがやっている事と同じだ。ホッとして、嬉しくなって、あたしはいそいそとアルバムを取り出した。
あたしのアルバムには、結構な確率でユウにぃが登場する。母親同士仲が良く、子供の年齢が近いとなると、お出かけやイベントの類を共にする機会が多いのだ。あたしも一緒になって、懐かしい写真を眺めていた。
「この時の雛ちゃん、可愛かったよね」
彼の指さした写真は、夏祭りの写真だった。普段着の彼と兄に挟まれて、浴衣姿のあたしが真ん中に写っている。
恐らく、あたしが小学校低学年の頃のものだ。
「小さい頃は誰でも可愛いんだよ」
あたしの口から可愛くない言葉が漏れる。憎まれ口のようなものを、兄ではなくユウにぃにぶつけている事に、自分で少し驚いた。
あたし、なんでこんな言い方しちゃってるんだろう。
「雛ちゃんは、今でも可愛いけどね」
困ってうつむいたあたしの頭を、彼がそっと撫であげた。びっくりして、心臓がドクンと音を立てる。
ユウにぃが、変。
あたしに可愛いって言うなんて、変。
「ほ、ほんとにそう思ってる?」
「思ってるよ。今日も可愛いよ」
「ほんとかなぁ……」
「やけに疑うんだね。この頃から、ずっと変わらずに可愛いよ、雛ちゃんは」
そ、それって、あたしは未だにちびっ子のようだってこと?
そっか。ユウにぃの目には、まだまだあたしは小さな妹に見えているのか……。
うんうん、そうだそうだ。落ち着けあたし。
「覚えてる? この日浴衣にジュースを零して、雛ちゃん泣いちゃったんだよ?」
ユウにぃが写真を見ながらくすりと笑みを漏らした。
「せっかくの浴衣が台無しになって、それで泣いてるのかと思っていたら、『あたしのいちごジュースぅぅ!』なんて声あげちゃってさ。僕と麟で必死になって浴衣を拭いてもちっとも泣き止まなかったのに、新しいジュースを買ったらピタッと涙が引っ込んで、笑い出したんだよね」
「そそそ、そんなの全く覚えてないし! そういう昔の話、しなくていいし!」
写真を見つめるユウにぃの目が、優しくて。
胸がいっぱいになってきた。わがままで、迷惑ばかりかけたのに。あんな事まで言ったのに。それでも彼はまだ、あたしの事を大事な妹だと思ってくれているのだ。
ユウにぃはもう、あたしに怒っていないんだ。
だからなの?
ユウにぃは、変になったんじゃなくて。
あたしの望み通り、側に居ようとしてくれてるの……?
「ありがとう、ユウにぃ」
「どうしたの? 突然」
「ユウにぃはやっぱり、優しいお兄さんだよ。あたしも優しい妹になるからね」
「雛ちゃん………」
ユウにぃの手が伸びて、再びあたしの頭に触れた。
「僕は本当に、そんなんじゃないんだ」
ポツリと呟きながら、大きな手が、愛おしそうにあたしの頭を撫でつける。
否定をしてみせるけど、あたしの目は誤魔化せない。ユウにぃはやっぱり、優しいよ。
だって、あたしの頭を撫でる彼の手つきは、とてもとても優しいんだもん。
口元がにやけてくる。あたしは温かい気持ちになりながら、しばらくの間、大人しく撫でられているのだった。
◆ ◇
玄関でユウにぃを見送って、部屋に戻ろうとすると、階段の上であたしを待ち構える影がいた。
鬼兄だ。
一瞬身構えたけれど、兄の様子を見てあたしの拳の力が抜ける。兄は、鬼のようではなかった。あたしを見て、なんとも気の抜けた顔をしている。
そういや、お兄ちゃんもなんか変なんだった。
まぁ、どうでもいいけど……
「なぁ、雛」
おかしな兄をスルーして、自分の部屋に戻ろうとすると、ためらいがちに呼び止められた。驚くことに、鬼のものとは思えないような穏やかな声だ。首根っこも掴まれていない。
本格的におかしい。
「お前さ、侑が好きなのか?」
はあっ!?
なに、いきなり変な事聞いてんの?
というかそれ、前にあたしから言ったよね。ユウにぃが好きって堂々と言ったはずだよね。あの時は確か、馬鹿にされたと思うんだけど……
「え、好きだよ?」
「まじか……」
ええっ!?
なんか、前と反応違うんだけど。あっさり信じてくれてんだけど。
兄が口元に手を当て、あたしをジロジロと見回している。そういやあたし、『彼氏ならユウにぃがいい』なんて言ったっけ。
あたしの好き、勘違いされてるのかな……。
好きだけど、恋愛の好きって訳じゃない。
あたしの想い、間違いだって分かったんだし、訂正しとこ!
「もちろん、お兄ちゃんとして好きって事だからね? ユウにぃの彼女になりたいとか、そーいうんじゃないからね」
「そうなのか?」
「そうだよ。あたしも大人になったんだよ」
「なんだ、雛も進歩してんじゃねーか。小学生から中学生くらいには成長したのか。良かったな」
むかっ!
元に戻ってるし。いつもの、ふてぶてしい態度の意地悪で鬼な兄に、戻っちゃってるしー!
「うん、まぁそうだよな。雛だしな」
訳の分からないことを呟きながら、兄は自室に戻って行くのだった。