2 やっぱり妹のようなあたし
「ユウにぃ、どうして起きてるのっ!?」
月曜の朝、午前10時15分。
あたしは今朝も、彼の部屋にやってきた。
今は春休みの真っ最中。
毎日がお休みで、だから曜日感覚がおかしくなっているのだろう。ユウにぃが昨日寝坊したのもきっと、そのせいだ。
――なんて、思っていた。のに!
ユウにぃはシャツにジーンズというラフな格好で、ローテーブルの側に片膝を立てて腰掛けていた。眼鏡もちゃんと掛けている。コンビニやスーパーに置いてある薄い情報誌らしきものを、手に取って眺めていた。
昨日と全く同じ時間にやって来たのに、今朝はちゃんと起きてるし。
普通逆だよね。デートの方を寝坊するってどうなの……。
むくれるあたしを見て、ユウにぃがくすくすと笑いだした。
「あれ、起きてちゃまずかった? 雛ちゃんは僕に悪戯するつもりだったの?」
「ふんっ。イタズラなんてしないもんっ」
「そんな事言って雛ちゃん、寝てる僕の足の裏を楽しそうにくすぐっていたよね」
「あれは……遊んで欲しかったのに、ユウにぃが全然起きてこないから……って! そんなの、小さい頃の話だしっ!」
ユウにぃてばあたしのこと、小学生だと勘違いしてない?
こう見えても花の女子高生なんだから!
………まだ、入学前だけど。
「ちょっ、雛ちゃん!?」
むっとして腕を伸ばす。ユウにぃの背後に回り、しがみつくように抱き着いた。
あたしの体重が背中にかかり、彼の身体が、ガクンと大きく後ろに揺れる。手にしていた情報誌がポロリと床に落ちた。
「だって昨日は寝てたのに、今朝はちゃんと起きてるんだもん……」
「あ~…昨日は本当にごめん。雛ちゃんと映画に行くのが楽しみで、前の日よく寝付けなかったんだよ」
それ嘘だっ!
上手いこと言って誤魔化そうとしてる……
「あたしだって楽しみで寝付けなかったけど、ちゃんと起きてきたもんっ」
「分かった、分かったから離れよう雛ちゃん……く、苦しいから」
あったかいこの背中、大好き。
嬉しい時も、悲しい時も、ちょっぴり腹の立つ時も、こうしてぎゅっとしたくなる。こうして甘えていたくなる、あたしのお気に入りの場所なんだ。
子供の頃は笑って許してくれたのに、今ではすっかり敬遠されるようになってしまった。いつもすぐに、離れるように言われてしまう。
「いい子だから、降りよう? ね?」
「ふんっ! ユウにぃってばすぐにあたしを子供扱いするんだからっ」
「………てないのは、雛ちゃんの方だよ……」
「え? なに?」
「いや、なんでも」
身体を伸ばして、ユウにぃの顔を覗き込んでみた。
困ったような表情をしている。
窓の外に視線を彷徨わせながら、ふぅと溜息をついていた。
悲しくなってくる。
あたしはこうしていたいのに、ユウにぃはあたしにくっつかれるのが嫌なんだ。
「あ、そうだ雛ちゃん。昨日のお詫びに、僕のお勧めの喫茶店に連れて行ってあげるよ。とても美味しいケーキが置いてあるお店なんだけど……どうする?」
「行く!行きたい!連れてって!」
「じゃあ取り敢えず降りて」
「うんっ」
わーいっ。ユウにぃと、もっかいデートに行ける!
しかも美味しいケーキだなんて最高すぎ……
……はっ。
あたしの頭をユウにぃが、満足そうにポンポンと叩いている。もう片方の手で口元を隠しているけれど……緩んでるの、隠しきれていないから!
結局、上手いこと言われて、あたしは誤魔化されてしまうのだった。
◆ ◇
ユウにぃとは、知り合ってもうすぐ9年になる。
あたしが小学校一年の時、この街に引っ越してきて、お隣さんになったのだ。
知っている子が誰もいない小学校に通うことに、幼いあたしは不安を感じていたらしい。引っ越しをして最初の登校日、あたしは玄関を出てすぐに、ぐずって地面にしゃがみ込んでいた。学校に行きたくない、なんて叫びながら。
『雛っ! いいからさっさと行くぞ!』
兄に力づくで引きずられようとしていた時、あたしの目の前に、手のひらがすっと伸びてきた。
『雛ちゃん、僕と一緒に行こう?』
顔をあげると、穏やかで優しそうな男の子が、あたしを見てにっこりと微笑んでいる。
『だぁれ?』
『僕は葉山侑、雛ちゃんのお隣さんだよ。よろしくね』
あたしを包み込むような彼の柔らかな笑顔に、不思議と不安が吹き飛んでいた。
『ランドセル重そうだね』
笑顔だけじゃない。ユウにぃは言葉も態度も優しかった。穏やかな声が心地よくあたしの耳に届く。
『うん、めちゃくちゃ重たいよ……』
『小学校って結構荷物が多いから、1年生だと大変だよね。水筒持ってあげようか?』
『いいの?ユウくんが重くなっちゃうよ?』
『僕は雛ちゃんよりお兄さんだから、平気なんだよ』
『そうなんだ、ありがとう!』
教科書の詰まったランドセルは正直、重かった。
上靴に水筒に体操服……荷物がいっぱいで、それも足取りの重い原因の一つだったのだ。
『ユウくんは何年生なの?』
『僕は4年だよ』
『ええ、お兄ちゃんと一緒だ! じゃあ、ユウくんじゃなくて、ユウにぃだね!』
ふふ、と、穏やかにユウにぃが微笑んでくれた。
あたしも笑顔になっていた。
繋いでくれた手は、ぽかぽかで温かくって。
この日からあたしは、学校に通うのが楽しみになっていた。
ユウにぃの手は、あたしのお気に入りになっていた。
◆ ◇
「わぁ! 可愛いお店……!」
「インテリアが素敵だよね、ここ。ケーキはもっと素敵だから、期待していいよ」
ユウにぃお勧めの喫茶店は、家から少し遠かった。
電車に乗って4駅目で降りて、大通りから細い道を住宅街の方に向けて進んでいく。駅に降りた時点で、あたしはすぐにピンときた。ここ、ユウにぃの通っていた高校の近くだ。
―――このお店、誰と来たんだろう……
外観からして、女の子が好みそうな雰囲気のお店だ。2階建てで、窓や壁には緑のツタがお洒落に絡まっている。木製のドアの横には観葉植物が飾られていて、その隣にはセンスのいい黒の横長のベンチが一つ、置かれていた。
「あれ、どうしたの雛ちゃん。急に静かになっちゃって」
「ううん、なんでもないの。ただちょっと……どうしてこんな可愛いお店、ユウにぃが知ってるのかなーって不思議に思っただけなの」
「あぁ。高校からの帰り道に、偶然ここ見つけてさ。麟連れて寄ったんだよ」
なんだお兄ちゃんとかぁ、良かった。
そう、あたしには3つ年上の兄がいる。ユウにぃと違って、冷たくて意地悪な兄がいる。兄は羨ましい事に、ユウにぃと同い年なのだ。中学も高校も、大学だっておんなじで、ずっと一緒に通ってる。
学校帰りにユウにぃと2人で寄り道するとか、なんて羨ましいの兄よ……。
「いいなぁ。あたしもユウにぃと同じ年に産まれたかったなぁ。あたしも一緒に寄り道したかったー……」
「雛ちゃん……。分かった、今度は麟も誘って3人で来ようか」
「ううん、お兄ちゃんは誘わなくていいの。あたし、ユウにぃと2人がいい」
「そんな事言っちゃ駄目だよ」
ユウにぃが苦笑している。
お兄ちゃんと仲良くするんだよ、なんて思っているに違いない。
………ああ。
ユウにぃは分かってない。まったく分かってくれてない。
あたしは、ユウにぃと寄り道がしたいのに。ユウにぃと登下校がしたいのに。
ユウにぃと一緒に居たいのに。
お兄ちゃんなんてどうでもいいからっ!
しょぼくれたあたしの頭を、ユウにぃがなでなでしてくれた。ユウにぃは本当に優しいお兄さんだ。妹のような扱いは悲しいけれど、大きな手は、思い出の中の手と同じように温かかった。
「おいしいっ!」
しょぼくれたあたしは無事、復活した。
スイーツのパワーは絶大だ。イチゴのミルフィーユとストロベリーティーに、あたしはあっさり陥落した。
「良かった、喜んでくれて」
「イチゴ大好きだもんっ。ストロベリーティー置いてあるなんて、すごいよここ。めったに置いてないんだよ?」
「うん、だから、雛ちゃんを連れてきたかったんだ。好きなの知ってたから」
びくりとした。ユウにぃの瞳が、一瞬甘く揺れたように見えたから。
とっさに視線を落とす。ユウにぃはイチゴのショートケーキを頼んでいた。粉糖のまぶされた大きなイチゴが一つ、生クリームの飾りの上に鮮やかに乗っていた。
美味しそうなイチゴだなぁ。いいなぁ。
「僕のイチゴ、あげようか?」
顔を上げると、ユウにぃが少し首を傾けながら、くすりと笑っている。
これって、妹どころか……ちびっこ扱いされてない?
………でも、欲しい!
ごくりとあたしの喉が鳴る。
あたしのちっぽけなプライドは、欲望の前に脆くも崩れ去った。
「欲しい欲しいっ、くれるの? いいの?」
「いいよ、イチゴ好きなんでしょ。あげるよ」
「わーい、ありがとっ!」
あーん、と口を開けた。
遠慮のないあたしに呆れたのか、ユウにぃが目を開いて固まっている。しょうがないなぁと呟いてから、イチゴをフォークで刺し、あたしの口に放り込んでくれた。
甘酸っぱいものが、広がっていく。
「イチゴ美味しいっ。ユウにぃ、大好きっ!」
チラリと見上げると。
ユウにぃは、ちょっと照れくさそうな、顔してた。