19 新しい朝
はぅ、と、何度目か分からない溜め息をつく。
自分でも訳が分からないまま泣きまくっている内に、いつしか涙は枯れていた。泣き疲れて、ぼーっとして、混乱していた頭がだいぶ落ち着いてきて、そして。
あたしはひたすら、ユウにぃの事を考えていた。
出会った時から優しかった、隣の家のお兄さん。
いつも穏やかに微笑んでくれて、いつでもあたしのワガママを聞いてくれて、あたしが何をやっても許して、受け入れてくれた人。
あたしは、そんな彼に甘え切っていた。彼の迷惑とか、困惑とか、気にも留めずに、むしろ華麗にスルーをして、あたしは好き勝手にやってきた。
その結果が、これだ。
布団にくるまって、意味もなく天井を見上げた。真っ暗な部屋の中で、カチカチと時計の音だけが不安げに音を鳴らしている。
どうしよう、ユウにぃを怒らせちゃった。
あたしはユウにぃが好きだった。でもその好きは、恋愛の好きとは違ってた。あたしは兄のように、ユウにぃを慕っていただけだった。
それなのに。
鬼兄の言う通りだ。あたしはユウにぃを困らせた。その気もないくせに、彼女にしてだなんて言っちゃった。止められても聞かなくって、だから怒らせちゃったんだ。
だから、ユウにぃはあんな事を―――
「ううっ………!」
頬に熱が集まってきた。
感触とか温もりとか、色々と、あれこれを思い出してしまって、熱い。顔が、めちゃくちゃに熱い。夏のせいにしたいけど、エアコンのおかげで部屋の中は冷え切っている。
だめだめ、思い出しちゃダメ!
あれはね、そういうのじゃないの。
忘れないと駄目なの。
ユウにぃだって、したくてした訳じゃないの。
あれはノーカン、ファーストキスって言わないの!
そう、き、きすって………
「っっっっっ!!!!」
のたうち回りながら、首をぶんぶんと激しく振っていると、ドアの向こうから冷ややかな声が聞こえてきた。
「おい、雛。騒ぐ元気があるならとっとと下降りて、飯食って風呂入れよ」
「………………」
乙女心の分からない鬼が扉のすぐ側にいる。
こっちはね、それどころじゃないの。色々ありすぎて、心の中が嵐なの。
「お前なに籠り切ってんだよ。とうとう侑に愛想つかされたのか?」
「そんなこと無いもんっ!………たぶん」
でも……怒らせちゃった。
あんなユウにぃは初めて見た。
いつもの優しいユウにぃじゃなかった。強い力であたしを押さえつける彼は、なんだか知らない男の人のようだった。
愛想……つかされちゃったのかな。
「なんだ、元気な声出てんじゃねーか。安心しろ、お前に呆れるなんて今に始まった事じゃないからな。落ち込むのは勝手だけど、今更もいいとこだぞ」
「~~~~~~っっ!!!」
鬼め、あたしに追い打ちをかける鬼め!
デリカシーの欠片もない鬼め!
「明日もバイトなんだろ? 風呂も入らずあいつに会う気か? それもう、完全に見限られるな」
「いっ、言われなくても入るし! さっさとどっか行ってよ、こんの意地悪兄め!」
「意地悪だなんて心外だな。妹を気遣う優しい兄じゃないか」
「妹をいたぶる鬼のような兄の間違いでしょ」
ふふっと上から目線な笑い声を上げ、ようやく兄は去っていった。ほんと、なんでこんな鬼兄が女の子にもてるのか、訳わかんない。ユウにぃの方が100万倍は素敵なのに、兄の方が騒がれている。おかしい。
実の兄は本当に意地悪だ。
現実がこんなだから、あたしはユウにぃに懐いてるんだ。恋してると勘違いしてしまうほど、ユウにぃが大好きなんだ。
………そう。
あたしはやっぱり、今でもユウにぃが『お兄さんとして』好きなのだ。
――――明日会ったら、謝らなきゃ。
色々と気まずいけど。まだ怒ってるかも知れないけど。それでもあたしは、ユウにぃとこれっきりなんて嫌なんだ。もう迫ったりなんてしないから、妹のようで構わないから、これからもあたしの側にいて欲しい……。
「その為には、とりあえずシャワー浴びないと……」
パジャマと下着を握り締め、部屋の扉をほんの少しだけ開ける。廊下に鬼の気配がないのを確認し、浴室までダッシュした。
◆ ◇
朝が来た。
太陽の光が、窓からくっきりと差し込んでいる。
今日も相変わらずのいいお天気だ。悩みなんてさっぱり消えてなくなりそうな、素晴らしい青が空に広がっている。
今日も朝からバイトだ。ユウにぃも同じシフトの日だ。
あたしは、普段よりも早めに準備をして、家の前で彼が出てくるのを待つ事にした。
シャワーを浴びて、少し気分はさっぱりした。熱持っていた頬も、少しは落ち着いた……はず。一晩寝てスッキリしたし、ユウにぃに会っても、いつも通りのあたしでいられる………と思う。
たぶん。
顔面とか挙動とか、不審者一歩手前になりつつ隣の家の門扉を眺めていると、中からユウにぃが姿を現した。気のせいか、なんだか元気がなさそうだ。表情に、どことなく翳りが見える。
ユウにぃも、ショックだったのかな。
あたしとのキス――――
ぶんぶんぶんぶんっ!!!
思い出しちゃいけないって何度も念を押したのに!
なに、早速思い出しちゃってんの?
駄目じゃないあたしっ!
ユウにぃがあたしに気付いて目を見開き、驚愕とも困惑ともとれるような表情をした。口元が、なにかを言いかけようとして、微かに動く。
「んんっ!」
とっさに顔を背けた。
ユウにぃの唇とか、今、絶対見ちゃだめなやつ!
あぶないあぶない。赤く蠢くそれをじっと見つめていると、ユウにぃの感触や温もりが、唇の上に鮮やかに蘇りそうになってくる。
深呼吸をして、騒ぎだした心臓を、あたしは必死で沈めにかかった。
「……雛ちゃん、おはよう」
ユウにぃが気まずそうに挨拶をした。
明らかに怪しいあたしに、どうしていいのか分からない様子だ。そりゃそうだ。あたしだってどうしていいのか分からない。ユウにぃの顔がまともに見れなくて、地面をじっと見つめてしまっている。
ああ、こんなんじゃダメだ。謝らなきゃ……
そのまま、あたしの目の前を通り過ぎようとした彼のシャツの裾を、軽くつまんで引き止めた。
ごくりと喉を鳴らし、言葉を絞り出す。
「昨日は、ごめんなさい」
ユウにぃの足が止まった。
「ユウにぃを困らせちゃって、ごめんなさい」
「……いや、僕こそ、悪かった」
「ねえ、ユウにぃ。あたし、もうあんな事言ってユウにぃを困らせたりしないから。だからまた、今までみたいにユウにぃの側に居てもいい……?」
「……………」
ユウにぃの、返事はない。
恐る恐る顔を上げてみた。
ユウにぃもあたしから顔を逸らしていた。さっきまでのあたしと同じで、地面をじっと見つめている。
垂れ下がる前髪と眼鏡に覆われて、うつむく彼の表情はよく分からない。
いつものユウにぃなら、にっこり笑っていいよと答えてくれるのに。今は黙ったまま、あたしを見ようともしない。それは……
あたしの事、許してくれないのかな。
身体から力が抜けていく。彼のシャツが指から滑り落ちていった。
目尻に涙が滲みかけて、浮いた指先でそろりと拭いかけた頃、ようやく、ユウにぃが重い声を出した。
「雛ちゃん、昨日のアレで分かっただろ。僕は君が思うような優しいお兄さんなんかじゃないんだ」
ふるふると、首を横に振る。
昨日のアレは、あたしが悪いんだ。ユウにぃが悪いわけじゃない。
「あたしだって優しい妹じゃないから、おあいこだよ。ユウにぃの嫌がる事いっぱいやって、本当にごめんなさい。もうしないから。大丈夫だから。あたし、何がいけなかったのか、ちゃんと分かったから!」
あたしは彼に、妹以上の距離感で近づきすぎていた。
それがいけなかったんだ。止めてと言われていたのに、聞かなかった。
大丈夫、あたしは自分の気持ちに気が付いた。もう無理に迫ったりなんてしない。ちゃんと妹のようでいる。だからお願い……
ユウにぃが顔を上げた。
縋るような目をしたあたしを見て、ぎゅっと眉根を寄せている。
「分かってるの? 僕はもう、君に遠慮なんてしてあげられないよ?」
――――遠慮?
あたしに遠慮なんてしてたの? ユウにぃ。
しなくていいよ。そんなの、あたしがどんどんワガママになってしまうだけだ。
「遠慮なんてしないで!」
「――――えっ?」
「今までずっと、あたしばっかりワガママ通してきたもんね。これからは、ユウにぃもあたしに遠慮しなくたって、いいんだから……」
「……………」
ユウにぃは何かを伝えたそうな顔をして、あたしをじっと見つめている。
口が開きかけて、止まった。
遠慮なんかしなくていいのに。
言いたいことあるなら、言っちゃえばいいのに。
「今、あたしに遠慮してるでしょ」
咎めるようにそう言うと、ユウにぃがぐっと息を飲み込んだ。
「雛ちゃんはちっとも分かってないね。もう……知らないよ」
ぐいとあたしの手を引いて。
呆れた様子で彼は、あたしの手を掴んだまま、歩き出すのだった。