18 僕の好きとは違ってる
彼女の好きは、僕の好きとは違ってる。
そんな事はしっかりと、頭の中では分かってた。
だから彼女に好きだと言われても、理性ではきちんと理解が出来ていた。
彼女は僕の事を、優しい『お兄さん』として好きなのだ、と。
僕への好きを、あの子は勘違いしている。
恋に恋しているだけだという事に、僕はちゃんと気付いていた。
恋を知らない彼女は、親愛の「好き」を恋愛の「好き」だと思い込んでいる。
だから平気で抱き着いてくる。照れもせずに好きだ好きだと言ってくる。彼女は僕に、これっぽっちもドキドキなんてしていない。そりゃそうだ。兄弟のように思っている相手に、胸を鳴らす奴なんて何処にもいないのだから。
そう。焦っているのは、ひたすら僕の方だけなのだ。
僕も諦めっぱなしでいた訳じゃない。
兄からの脱却を、密かに目論んではいたのだ。春休みのデートはチャンスだと、それなりに意気込んでいた。意気込みすぎて、寝付けなくなって寝坊するという、出だしからしてしくじってしまったけれど。
彼氏のような態度を取って、彼女に意識して貰おうとした。
休日のショッピングモールは人で溢れている。混雑を口実に、デートらしく手を繋ごうとした。
僕から手を繋ごうとするなんて、小学生の頃以来の出来事だ。ユウにぃ、どうしたの? なんて、ちょっとくらいは戸惑って、照れてくれるかと期待していたのに。
手どころか、あっさり腕を組まされた。
柔らかな感触に、僕が動揺させられただけだった。彼女はいつもと変わらず、元気いっぱいに僕を引き連れようとする。
主導権すら握れない。カッコよくリードをする夢は、僕の妄想のまま終了した。
その後も、僕なりに果敢に攻めてはみた。
映画を見ている彼女の手に、僕の手をそっと重ねて置いてみる。僕としてはかなり勇気を振り絞った行為だったにも拘らず、スクリーンを見てあの子はゲラゲラと笑い転げていた。僕の手を気にする様子は、これっぽっちも見られなかった。
可愛いよと囁いてみても、無邪気に喜んでくれるだけ。
甘い態度を取ってみせても、無邪気に喜んでくれるだけ。
何を言っても。
何をやっても、思うような反応は返ってこない。
それどころか、彼女は平気な顔をして、僕に簡単にくっついてくる。
……あぁ、無理だ。
糸口がまるでつかめない。あの子に男として見て貰うなんて、永遠に無理なのだと悟って、僕は諦めた。
『ユウにぃ、あたしユウにぃが大好きだよ』
だから本当に勘弁して欲しい。
華奢な身体に、すんなりとした長い手足を持つ隣の家の妹は、とんでもなく可愛い女の子に成長した。
ふっくらとした頬はバラ色に輝いていて、大きな瞳は長いまつげを伴いながら、愛らしく瞬きを繰り返す。サクランボ色の唇は常に弧を描いていて、きらきらと弾けるような笑顔を僕に向けてくる。
ただ側に居るだけで、惑わされそうになってしまうのに。
頼むから。その澄んだ瞳で、慕わし気に僕を見つめないで欲しいんだ。
可愛い声でさえずるように、好きだ好きだと言ってこないで欲しいんだ。
駄目だと分かっているのに。
サラサラの長い髪をなびかせて、笑顔で駆け寄る可愛い君に。日に日に、僕の心が傾いていく。
全てが手遅れになる前に。
頼むから。甘い匂いを纏わせながら、僕に近寄らないで欲しいんだ。
ふくよかに育っていく胸元を。柔らかになっていく身体を、僕に押し付けないで欲しいんだ。
君が望む、優しいお兄さんで居られなくなってしまうから。
零れる涙を拭おうとして手を伸ばしたら、彼女の身体が強張った。
それが全ての答えなのだと思う。
彼女の、僕に対する想いの全てが、あの反応に詰まっていた。
ごめんよ。
手に入りそうな気が、してしまったんだ。
あんな事を君が言うから。あんな表情をして言うもんだから。僕はすっかり、君に惑わされてしまったんだ。
期待を、してしまったんだ。
彼女の想いを。彼女自身も気が付かないまま、上手くやり過ごせるんじゃないかって。上手く、自分のものに出来るんじゃないか、なんて。
醜い期待をして。
僕は誘惑に負けて、君に手を伸ばしてしまったんだ。
あの子は怯えていたのに。
僕は自分を止めることが出来なかった。抱き止めて引き寄せて、後はもう、欲望のまま動いてしまっていた。
あの子はもがいていたのに。
僕は彼女を掴む手を、離すことが出来なかった。ようやく味わえた柔らかな唇の感触に、頭が動かなくなっていた。抱き締めた腕を、緩める事が出来ずにいた。
彼女の柔らかな頬に添えた僕の手に、ぬるいものが触れていて。
それがあの子の、涙なのだと気が付いて。
はっと我に返る。
あの子は自分の勘違いに、気が付いたのだ。
彼女は僕と、キスがしたいわけじゃない。恋人同士のような関係を、僕に求めている訳じゃない。優しい『お兄さん』に、甘やかされていたいだけ。いつまでも、幼い子どもで居たいだけ。
だから頭を撫でられていれば満足なのだ。猫が気ままにすり寄るように、僕に懐いているだけで。好きは好きでも、恋をしている訳じゃない。
だから。
僕は彼女を泣かせてしまった。
「はぁ………」
吐息が漏れる。
ベッドを背もたれにして、僕は座り込んで天井を見上げていた。
今更もう、どうにもならない。してしまった事は、2度と元には戻らない。けれど、どうしても思わずにはいられない。
……僕の好きも、勘違いなら良かったのに。
「よう」
しばらく薄暗い天井をぼんやりと見上げていると、親友の声が聞こえてきた。
真横を向くと、嫌になるくらい整った、麟の横顔が間近に見えた。僕の隣に腰掛けて、つまらなさそうな顔をして前を向いている。
「わざわざ来てくれたんだ」
「まぁな。なんかあったんだろ」
「お察しの通りだよ。雛ちゃんは?」
「部屋に籠ったまま出て来ねぇ」
「……そっか」
彼女の様子がおかしいので、僕の様子も気になって、わざわざ見に来てくれたのだろう。
麟は、彼女には激しく誤解をされているけれど、決して冷たいやつじゃない。彼は彼なりに、あの子や僕を思って行動してくれているのだ。
口が悪いので、まったく彼女には伝わっていないけど。
「ごめん、麟」
「いや、雛が悪い」
ぶすくれた顔で、我が麗しの親友が口元を歪めている。
こんな時なのに。思わずクスリと笑ってしまった。
「僕はまだ、何も言ってないよ」
「聞かなくてもなんとなく予想はつく。いつもの調子であの馬鹿が、考え無しにお前に突撃したんだろ?」
「相変わらず辛辣だね。可愛い妹なのに」
「あいつが無自覚なのが悪いんだ。侑が参ってるのに気付きもしないで、ベタベタベタベタしやがって。ほんっとあいつは脳の中身が小学生のままだからな。好き好きって、その好きの意味も分かってない癖に」
悔しそうな顔をして、麟が斜め向かいの窓を見つめている。
カーテンの奥は真っ暗なままだ。
申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
こうなってしまわないように、麟は僕を助けてくれたのに。彼女から、僕を遠ざけてくれたのに。結局僕は、自分を押さえきることが出来なかった。
「で、何したんだ?」
「………キス、した」
「はぁ? マジで? その程度で引きこもってんのか、あの馬鹿」
「ほんっと、ごめん麟……」
「謝んなよ。あの調子で迫られて、そこで止めただけ侑は頑張ったと思うぞ……」
出来れば、もっと手前で止めていたかった。
あの子が泣く前に、僕が自分を押しとどめていられたら良かったのに。
いい加減、僕も限界だったようだ。
好きな子に、好きだと言われて、じゃれつかれて。それでじっと我慢するしかないのだ。
むしろ、今までよく耐えたと言うべきか。
「悪いのは雛の方だ。だから、侑は気にすんな」
「………ありがとう、麟」
慰めるように、麟が僕の肩をポンポンと叩く。
麟の優しさが、じんわりと、肩から身体に染みていく。
「まぁでも、これで流石にあいつも自重するようになるだろ」
「たぶんね。怖がらせちゃったから、警戒されて距離を置かれるだろうね」
自嘲するようにくすりと笑って。
胸の奥がズキリと痛んだ。
彼女と距離を置く。
それは僕が求めていたものだ。
僕の部屋という狭い空間で、あの無邪気な悪魔と2人きりでいるのは、辛すぎた。僕を慕って懐いてくる彼女から距離を置きたくて、僕は逃げたのだ。バイトに逃げ、麟に逃げ、どこまでも追いかけてくる彼女に、最後は自分の気持ちを押し殺して、相良くんの側にあの子を置こうとした。
それが一番楽になれると考えていたのに。
彼女の側に居られなくなる事に、はっきりと落ち込んでいる自分がいる。
「雛と距離を置けて、結果オーライじゃないか」
「そうだね」
「これでだいぶ楽になれるだろ」
「……だね」
慕っていた兄からあんな事をされたんだ。彼女は僕に怯え、嫌悪しているに違いない。
僕を惑わす可愛いあの子は、恐らく僕から離れていくだろう。
これできっと楽になれるはずだ。
目を閉じて、頭を伏せた。
辛いのは今だけだ。
そのうちきっと、穏やかな気持ちになれるはず―――
瞼の裏に、あの子の笑顔がちらりと浮かんできて。
僕は首を振り払って、必死に彼女の幻影を打ち払うのだった。