16 追いかけっこの果ての先
「はぁ、はぁ、はぁ………」
全力で走り抜けた、その先に、彼はいた。
「ユウにぃっ!」
あたしの叫びに、彼が反射的に振り返る。あたしの姿を確認し、さっと困惑の色を浮かべた。
ユウにぃの動きがほんの少しだけ停止して、でもすぐに、再びあたしに背を向ける。駆け寄るあたしを待つことなく、先を歩いて行こうとした。
「待って……っ!」
彼の足取りが、ゆっくりしたものから早足に、やがて駆け足へと変わっていく。
あたしは息を乱しながら、彼を捉えるべく駆け抜けていった。ユウにぃまで、あと少し。あたしから逃げようとする彼を見て、くすりと笑みが零れてきた。
こんなの。簡単に追いつけちゃう。
やっぱりユウにぃは、優しいんだ。いつだって、あたしには甘いんだ。
あたしを突き放そうとして、全然しきれていないんだ。
思いきり走れていないよ、ユウにぃ?
あたしは全力で、彼に追いつこうとしてるのに。
ユウにぃの足取りはぎこちなく、迷いがみえる。
そんな事だから、今までずっと、あたしにまとわりつかれていたんだよ?
………ごめんね、ユウにぃ。
それが分かっていて。あたしはためらう事なく、手を伸ばす。ユウにぃを、捕まえに行く。
だってユウにぃが好きだから。ユウにぃの手を掴んだままで居たいから。いつまでも側にいて、あたしの優しいお兄さんで居て欲しいから。
だから。だから……
例えユウにぃが嫌でも、あたしは彼を離したくない――――――
彼の服の裾に手が触れる。
「………はぁ、捕まえ、た」
「っ!」
ほら、追いつけた。
怯んで、ユウにぃの足が止まる。手繰り寄せるように、掴んだものを自分の元へと引き寄せた。ユウにぃの腕を、あたしはがっちりと抱え込んだ。
追いかけっこは思いのほか距離が延びていたようで、あたし達はもう、自宅の前まで辿り着いていた。
ユウにぃが眉根を寄せてあたしを見つめている。絡みついたあたしの腕に目を遣り、ぐっと口元を結んでいる。
腕が、強張っている。
「ねぇ、あたしユウにぃと一緒にいたいの」
「雛ちゃん………」
「先輩とかき氷を食べに行くより、ユウにぃの部屋で一緒に過ごしたいの」
「ごめん、今日は麟と約束してるから、雛ちゃんとは過ごせない」
「お兄ちゃんと?」
「うん」
麟と。麟と、麟と。
あたしはもう、嫌になるほど聞いてきた。
彼にとって兄は、あたしを避けるための、魔法の呪文になっている。
「じゃあ、来てよ」
掴んだ腕に、力を籠めた。
「お兄ちゃんと約束してるなら、うちに来てよ。お兄ちゃんの部屋に行くんでしょ? おいでよ」
ユウにぃの腕を引っ張った。彼はぎょっとしたように目を見開いた。
「約束の時間まで、少し間があるんだ。だから家で………」
「そんなの。うちで待っていればいいじゃない」
「………………」
「少しなんでしょ? お兄ちゃんも待っているかもしれないよ」
ユウにぃの腕から力が抜けた。
そのまま強引にユウにぃを引き寄せて、自宅の前まで連れて行く。カギを開け、中に入ると、玄関に兄の靴は置いていなかった。
どこかに出かけていて、いない。
やっぱり、いない。
「ねえ、お兄ちゃんおうちにいないよ。ユウにぃと約束してるのにね」
ユウにぃをちらりと見ると、気まずそうにあたしから目を逸らした。玄関に飾られている切り花を、所在なさげに見つめてる。
「ねえ。お兄ちゃんが帰ってくるまで、あたしの部屋で待ってようよ」
返事はない。
抵抗する気配もないので、ユウにぃの腕を掴んだまま、階段を登っていく。あたしの部屋に、押し込めるように彼の身体をねじ込んだ。
バタリと扉を閉めた瞬間、彼が目を細めて顔をしかめた。
そんなに、あたしの部屋は、いや?
嫌だよね。全然、来てくれないもんね。あたしの部屋。
「ユウにぃがあたしの部屋に来るの、久し振りだね」
「………そうだね」
「お兄ちゃんの部屋には行くのに、あたしの部屋には遊びに来てくれないもんね」
「………そうかな」
「そうだよ」
そうだよ。全然来てくれないよ。
あたしは休みの度に会いに行こうとしてるのに。
ユウにぃはあたしに会いに来てくれない。
今だって。全然、あたしを見ようとしていない。
「ユウにぃ」
腕を伸ばして、彼の両頬を手のひらで挟んで角度を変える。無理矢理、あたしに顔を向けさせた。
泣きたいのはあたしの方なのに、なぜかユウにぃが泣きそうな顔をしていた。
「ねえ、ユウにぃ。あたしユウにぃが好きだよ」
「……僕も、雛ちゃんが好きだよ」
「じゃあ、どうして先輩と付き合っちゃえなんて言うの!」
悲しいのはあたしの方なのに。
どうして、あたしよりも悲しそうなの。どうして。
そんなに、あたしを見つめる瞳は、切なそうなの。
ユウにぃの口元が震えている。
「あたしはユウにぃが好きなんだよ?」
「………」
「あたしは、彼氏にするならユウにぃがいいの。先輩じゃなくて、ユウにぃと付き合いたいの」
今までに、何度も好きだと言ってきた。
そのたびに彼は取り合ってくれなかった。あたしの言葉は、そっと消されてばかりいた。
でも、今度は。
今度は、かき消せない言葉を投げつけてやる。
「ねぇ、ユウにぃ。あたしをユウにぃの彼女にしてよ」
真っ直ぐにユウにぃの目を見つめた。彼は怯えたようにこちらを見つめ、そっとあたしの手首を掴む。そのまま、あたしの手は彼の頬から放たれた。
ユウにぃが首を軽く振り、目を伏せる。絞り出すように言葉を発した。
「雛ちゃん、そんな事言うんじゃないよ」
どうして!?
ここまでしてるのに。
あたしの想いをかき消そうと、しないでよ。
あたしを、ちゃんと見てよ。
「あたし、そんなに子どもっぽい? どうしても妹にしか見えない? ユウにぃはあたしを、女の子としては見られない?」
「そうじゃ、なくて」
「ユウにぃは、あたしと付き合うのは嫌なの?」
「雛、ちゃん………」
ユウにぃの目が、ぎゅっと切なげに細められて。
それから、彼のものとは思えないような、甘い声が聞こえてきた。
「そんなに言うなら、僕と付き合う?」
――――え?
ユウにぃが、いやに熱っぽい瞳をして、あたしをじっとりと見つめている。
無意識に、あたしは一歩下がっていた。後退したあたしに彼が詰め寄って、彼のものでは無いようながっしりとした右腕が、あたしの腰に伸びてきた。そのままぐるりと絡まって、気が付けばあたしは、彼に抱き留められていた。
ひゅっと息を飲む。
こんなことは、初めてだ。だっていつも抱き着くのは、あたしからで。ユウにぃはいつだって、あたしにくっつかれている、だけで。
ユウにぃに抱きしめてもらう事も、あるけれど。それはこんな、突然なんかじゃなくて。強引なんかじゃなくて。こんなにも強い力じゃなくて。もっとふんわりと、ゆるやかな、穏やかな、もので。
何かが、違う。
戸惑うあたしに構うことなく、今度はユウにぃの左手が、顎を掬い上げるように、あたしの頬に触れてきた。
ぐいっと、顔が持ち上げられる。
「ユウ、にぃ?」
とっさに離れようと、もがいたけれど。
腰と頬に回された彼の手に、しっかりと固定されていて、逃げられない。
ユウにぃの顔があたしの顔に、暗い影を作る。
唇に、ぐにゅりと奇妙な感触がした。汗なのか呼気からなのか、男の人の匂いがむっと立ちこめてくる。なぜだろう。何もかもが、あたしの大好きなユウにぃのはずなのに。
何もかもが、あたしのユウにぃじゃないみたい。
「ん……っ」
膝が、ガクガクと震えている。意味も分からずあたしはもがいていて、でも彼の唇は押し付けられたまま、離れない。涙が、なぜか頬を伝っていく。
隣の家に住む、優しい優しいお兄さん。
あたしの大好きなお兄さん。
いつもあたしには甘くって。いつだって困っているあたしを助けてくれて。どんな時でも温かくあたしを受け止めてくれる人。
幼い頃から、ずっと憧れていたお兄さん。
あたしの理想のお兄さん。
いつも笑顔でいてくれて。優しく頭を撫でてくれて。心細い時にはギュッと抱きしめてくれて、側に居てくれて………
………ねぇ。
あたしは今、この人と、キスをしているの?
じわじわと、唇に違和感が広がっていく。
それはあたしの中で何かが違っていた。
ぷはぁ、と口から空気が吹き出して。自分が息を止めていた事を知る。
唇がようやく解放され、彼の顔があたしから離れていった。腰に回されていた腕も、頬に当てられていた手のひらもいつしか解けていて、あたしは覚束ない足取りで2歩、後退した。
顔を上げて、目の前の誰かを見ようとした。涙で視界のぼやける中、ようやく目の当たりにした彼の顔は、ひどく辛そうなものだった。
ユウにぃの指先があたしに伸びて、頬に触れようとする。
瞬間、身体がびくりと反応して、肩が竦む。彼は、はっとして伸ばした手を元に戻し、傷ついたような表情をして、顔を伏せた。
どうして。
どうしてあたしは、こんなにも身構えているのだろう。
目の前にいるのは、あたしの大好きな人のはずなのに。
今のあたしは。好きな人に抱きしめられて。キスをされて。あとはもう、頷くだけで好きな人と付き合える、幸せな女の子のはずなのに。
………どうしてあたしは、口元を手で覆っているのだろう。
「ごめん雛ちゃん、もう帰らせて。頭冷やしたい……」
なにも、返事が出来ずにいた。
辛そうな顔をして去って行く彼を、引き留める事すら出来ずに。あたしはただ、その場でうずくまって頬に雫を垂らしてた。