15 イチゴ練乳よりも
日差しがきつくなってきた。
梅雨も明け、夏もすっかり本番だ。バイトを終えて外に出ると、アスファルトから熱気が漂ってきた。こうなってくると、少しでも気温の下がる雨の日が恋しくなってくる。
「あっついねー」
ユウにぃが出てくるのを待っていたら、待っていない人が先にやってきた。
毎度おなじみ、相良先輩だ。
「かき氷でも食べに行かない? おごるよ」
「食べに……行きません!」
通りにある、かき氷専門店のイチゴ練乳を思い浮かべ、あたしの喉がごくりと鳴る。
鳴るけれど、ぐぐっとあたしは我慢した。
イチゴ練乳よりも、ユウにぃだ。ユウにぃは食べられないけれど、あたしは彼を選ぶのだ。
だれか、褒めて?
「んっ? なにキョロキョロしてんの?」
「鬼が……いえ、兄がその辺にいるかと思って……」
雨の日の衝撃を、あたしは未だ忘れていない。
突然現れて、暴力行為とかしないよね?
あたしの邪魔、しないよね……?
「雛ちゃんのお兄さんかぁ。噂通り、すごいカッコいい人だよね。俺もわりとイケてる方だと思ってるけどさ、麟さんとはレベルが違うんだよな」
噂っ!?
なにその、噂っての。お兄ちゃんって他校の、それも学年の違う生徒にまで、名前知られちゃってんの?
あたしの驚く様子に、逆に先輩の方がびっくりしたようだ。
口を開け、目をパチパチと瞬いている。
「あー、俺の姉が2つ年上でさ。葉山さん達と同じ高校だったんだよ」
「そうなんだ、羨ましい……」
「ものすごく有名だったんだよ。校内であの人の事を、知らない人はいなかったんじゃないかな。主に女子生徒中心で」
ああ、納得。
兄は鬼だけど、顔だけはお綺麗なので、昔からよくモテている。
中学の時は本当にすごかった。当時、小学生だったあたしにも、クラスメイトの兄弟経由で話は色々と聞いていた。
休み時間になると、兄を中心にして分厚い女子生徒達の輪が出来上がるとか。
兄の影響で、中学ではチョコの持ち込みが禁止になったとか。
卒業式には、第2ボタンを巡って熾烈な争いが繰り広げられたとか……。
噂が現実なのだと実感したのが、兄が中学2年の時のバレンタインデーだ。女子生徒の大群が家まで押しかけくるという、異様な光景をあたしは2階の窓から見た。集団で襲い掛かる女の子達、怖すぎる。
迂闊に外に出た兄は、もみくちゃにされまくっていた。あの時ばかりはこのあたしも、鬼にちょっぴり同情した。
ちなみに。苦い経験を経て成長した兄は、翌年の2月14日には家から一歩も出なかった。
高校でもやっぱり凄かったのか……
「って雛ちゃん、まさか知らなかった? 麟さん達のこと……」
「あー、分かります分かります。中学の時はほんと、凄かったですよ……誕生日とか、バレンタインとか」
家から一歩も出ない兄はそりゃ、被害に遭わなくていいだろうけど……あたし達家族は、めちゃくちゃ迷惑してたのよね。買い物帰りの母とか、帰宅難民になった気分を味わっていたと思う。
高校になると自宅の場所をひた隠しにしていたのか、女子の群れはピタリと姿を消した。家族一同、心からホッとしたのを覚えてる。
「楽しそうだね、2人とも」
先輩とどうでもいい話をしていると、お待ちかねの人がようやく姿を現した。
ユウにぃだ。
疲れているのか、表情が冴えない。
あたしをちらりと見て、すぐに目を逸らしてしまった。
「これから2人でかき氷食べに行くんですよ、ね? 雛ちゃん」
「行かないよっ! あたしはユウにぃと帰ります」
「イチゴ練乳が雛ちゃんを呼んでるよ?」
「よ、呼ばれてる気はするけど……幻聴だと信じてあたしはもう帰る……」
イチゴ練乳への未練を断つべく、急いでユウにぃの側に駆け寄った。
彼に手を伸ばして、シャツの裾を軽く掴む。それに気づいたユウにぃがぐっと息を詰まらせて、それからはっきりと身をよじり、払いのけた。
あたしの手のひらから、ユウにぃがするりと消える。
どくん、と、心臓が重く揺らいだ。
「かき氷美味しそうだね。雛ちゃん、行ってきなよ」
「え………」
「イチゴ練乳好きでしょ」
なんで、そんな事言うの………?
「行くならあたし、ユウにぃと行きたいな」
「僕はいいよ。冷たいものを食べると頭が痛くなるんだよね。相良くんと行ってきなよ」
とっさに。
ユウにぃの手を掴もうとして、叶わなかった。
触れる寸前で、あたしを避けるように彼は手を持ち上げて、置き所を探すかのようにぎこちなく眼鏡のつるに指を絡めた。あたしの伸ばした指先は、彼に触れる事が叶わず、空を切って下に落ちる。
「じゃあ、あたしも行かない。ユウにぃ、一緒に帰ろ……?」
「雛ちゃん、君はもう小さな子供じゃないんだから。いつまでも昔のように、僕の後ばかりついて来なくていいんだよ」
道路に行き交う車を無表情で見つめながら、ユウにぃが素っ気なく言い放つ。
どくり、と。
あたしの心臓がまた、不穏な音を立てた。
「なんで……そんな事いうの……?」
ユウにぃが、さっきから全然あたしを見ていない。
横顔は、ちっとも笑っていなかった。
固まるあたしに目もくれず、駆け足気味に彼は帰っていった。
あたしと先輩を残して。
「葉山さんもああ言ってる事だし、行こうよ、ね?」
「やだ…………」
「雛ちゃん?」
鈍い心臓の音が、あたしの身体を駆け巡る。
どくどくどく、と、どろりとした液体を運ぶ音がする。
胸の内から、ものすごい不安が、ぐるぐると渦巻いてあたしに襲い掛かってきた。喉元までなにかがせり上げてきそうだ。足元はぐらぐら、陽炎のように揺らめいている。
いつもあたしの側にいた、ユウにぃが。あたしにずっと優しかった、ユウにぃが。あたしが困っていると、いつでもすぐに助けてくれた、ユウにぃが。
あたしの、大好きなユウにぃが。小さい頃からずっと側にいてくれた、頼りになる、あたしだけの、隣の家のお兄ちゃんが…………
あたしを、突き放している。
『付き合っちゃえば、いいんじゃないかな』
蘇った言葉が、あたしの胸を抉りだす。あの時止まった思考が、今はものすごいスピードで回転して、止まらない。
答えなんて、もう、ひとつしか出て来なかった。
―――ああ。ユウにぃは、あたしから離れて行ってしまう気なんだ。
あたしの手を、彼は放してしまう気なんだ………
がくがくと膝が震えてきた。
だめだ、このままじゃ……
あたしの大事なものが、消えてしまう………
「雛ちゃん!?」
だれの声も、聞こえてこない。
周囲の雑音も、セミの鳴く声も。道路を行き交う車の音も、アスファルトを蹴り上げる自分の足音すらも、あたしの耳には届かなくって。
ひたすら、ユウにぃの後を追いかけて、あたしは走り続けていた。