静かな怒り
あれから一か月。
あの時以来、ノアーは俺たちの前には現れず、不便ながらも穏やかな日常が流れた。
とはいえ、講堂で起きた爆破事件は俺たち三人の通う御船山中学以外でも起こったらしく、精神的ダメージを負った生徒たちのために自由登校になっていた。
そのまま夏休みに突入してしまったためあれ以来顔を合わせていないクラスメイトも少なくはない。
八月は時候のうえでは残暑というが、八月の太陽は七月のそれよりもなお元気で、照り付ける日差しが肌を焼く。
日差しにあまり強くない天音はすぐに首筋の皮が剥がれてしまうので、夏場でもあまり極端な薄着はしない。
すでにひりひりと首筋が痛むが、今日ばかりは我慢しなければならない。
天音の家から約二百メートル。学校に向かう道とは反対側にある家に到着すると、ひと呼吸開けてからインターホンを鳴らす。
『もしもし……』
「おはよう、雀。俺だ」
『天音……』
「入ってもいいかな」
『わかった、いま鍵開けるね』
扉の向こう側からぱたぱたとした足音がし、がちゃりと鍵が開けられた。
「おはよう、天音」
「雀、もう大丈夫そうか」
「うん、まだあの時計は付けられないけれど、ドライヤーとかの機械はもう大丈夫」
あれ以来、雀は電子機器に対し恐怖症のような状況に陥っていた雀。
一か月経ってようやく元気を取り戻したようだが、初めの頃は電子機器に対して過剰に反応して大変だった。
「よかった」
「兵司は……」
「今日も図書館だ。今は集中させてやろう」
「そうだね」
この紙媒体の生み出されなくなった時代においても図書館というものは存在する。
新書こそ存在しないが、すべてをデータ化してしまうよりも本という文化は残すべきだという意見が多かったため、いまだ図書館というものはどの街にも大抵設置されている。
そこの自習スペースに最近、兵司は通い詰めている。
「とりあえず、上がらせてもらってもいいかな」
「うん、どうぞ」
自分の靴を綺麗に並べ、雀に案内された俺はリビングへと向かった。
相変わらず綺麗に整えられた室内。アロマの甘い香りが漂い、薄いカーテンからは朝日が漏れて薄暗い室内に暖かさ差し込んでいる。
ただ一つ、違和感があるとすればこの室内には電気を通して動かすことのできるものが異様に少ない。
テレビやエアコンといった家電がなく、ただ取り外されたようなあとが残っている。
「ごめんね、あれからもう一か月も経つのに」
「気にするな。テレビがなければ俺も勉強に集中できる」
リビングに置かれた大きなテーブルの上にはすでに、数式が並んだタブレット型ノートが広げられている。
テキストが使えなくなってしまった生徒たちに配られたのは、このノートとすべての教科書が内蔵されたタブレット端末の二台だ。
前のように音声入力や記憶能力はすべて人工知能の役割であったため存在しないが、これでもないよりは何倍もいい。
「私もそろそろそれ使えるようにしないといけないね」
「だから気にするなって」
電子機器にまだ完全に慣れ切っていない雀は、強い電磁波を発する機器にはいまだ拒否反応が出るらしい。だから、天音がテキストを操作して、雀に見せてあげるという工程を踏んでしか彼女は勉強をすることができない。
ノートの方はタッチパネルの反応と記憶媒体への転写という簡素化された機器であるためほとんど電磁波を発しないのだが、全教科の千ページを超えるテキストを内包したタブレット端末は天音の耳にも届くほどの電磁波を発している。
「天音は大丈夫なの」
「ああ、本当に大丈夫だ。言いそびれていただけで、生まれた時から聞こえていたからなんの心配もない」
ノアーが講堂に現れたあの時。この耳のおかげで人間を嘲るノアーにお返しをすることができたわけだが、さすがにあまり強い電子機器を使うと脳に負荷がかかってしまう。
「アイはそのことに気を使ってできるだけ電磁波が俺に向かないようにしてくれていたから、前よりは少しきついけどな」
「うちもAIがいなくなって寂しくなっちゃったけど、そんな悠長なこと言ってられないよね」
「たしかに、アイって名前つけたのは俺だし愛着はあった。顔も体もあったわけじゃないがやっぱり寂しいな」
家族が家にいない天音からすればアイは唯一の家族だった。
兵司以上に迷惑をかけた家族に対し、俺はなにも言葉を残してあげられなかったことが少し心残りではあった。
「まあ、縁があればまた会うこともあるだろう」
「そうだね。そのためにもしっかり勉強しないと」
そう、俺たちに今できることは少しでも学力を上げること。
来る二年後の人類と人工知能の戦いに俺たちが一石を投じるためには、その土俵になんとしても上がる必要がある。
遡ること二週間前。
自由登校が認められ、学校に来る義務がなくなった数日後、この日だけは登校することを強制された。本来来るべき学び舎に対し、強制という言葉が適切かどうかはわからないが、登校拒否をした生徒たちの家には直接教師たちが出向いたことから学校側もあのことはどうしても伝える必要があったのだろう。
教室に集まった生徒たち。担任教師の岩田が壇上に立っているが、頬に伝う汗にすらも気づかないほどに緊張しているようだ。
「先生、大丈夫ですか……」
「ええ、大丈夫……大丈夫だから」
生徒の一人が心配して声をかけるが、帰ってきたは大丈夫というまったく大丈夫ではない絞り出したような声。
しかし、それで多少心が落ち着いたのか、意を決したように岩田先生は口を開いた。
「皆さん、先日の中体連はお疲れさまでした。気持ちを切り替えて、すでに勉強を始めている子もいると思いますが、今年の受験方法が少し特殊になりましたので、その報告をさせていただきます」
高校受験。
夏を制するものが受験を制するといわれるほどに、この期間は受験において重要な時間だ。受験の内容が変わることは数年に一度くらいはあるのでこれだけでは誰も文句は言わなかっただろう。
しかし、これは去年までならばの話。
今までならば、そこまで身構えるような話ではなかっただろうが、今は状況が違う。
この場にいる全員が巻き込まれた事件。それが絡んでいることは明白だった。
「現在県内で運営している二十二の公立高校。これらの学校の学科が二つに合併されることが決定しました。一つは実業科。これは実業系高校の工業、商業、家庭科の学校が属し、これは従来とはほとんど変わりありません」
岩田先生は変わりないといったが、教室内の各所からざわめきが起こった。
当然だ。ただ単にわかりやすく名称を統一しただけのように一見見えるが、これではまるでその他大勢として括られてしまったも同然。
そして、こちらはという言葉をつかったせいで、もう片方はどうなったんだ、という疑念が膨らんでしまった。
「静かにしてください!ここからが本題なので、しっかりと聞いてください」
先生も声を荒げて生徒たちを制しようとするが、なかなか彼らの
「残りすべての学科に関してですが、これらを電脳科と呼び、こちらの受験の学科試験が数学のみなります」
「数学のみ、ってことは、他の教科を勉強しなくてもいいってことですか?」
「電脳科を目指すのであればそういうことになりますが、元になった学校が進学校であるため、他の教科も切り捨てるのはおすすめしません」
「先生、どうしてそんなことに」
「はい……」
再び口ごもってしまった岩田先生。おそらくここからが重要な問題なのだろうが、どうやら本当に口にしていいものか先生なりに判断しかねているようだ。
「先生、話してください」
「……」
このままでは話が進まない。そう判断した天音はしょうがなく口をはさんでしまったが、先生の気持ちにもう少し配慮すべきだったかもしれない。
しかし、岩田先生はひと呼吸おくといつもの真っすぐとした目を取り戻し、しっかりとした口調で説明を再開した。
「君たちの中から、二年後に始まる戦争の戦闘員を選抜する。これが、政府の決めた方針です」
再び教室内にどよめきが生まれる。
一度目が初期微動だとすればこれが本震。
圧倒的に大きな混乱が教室を埋め尽くし、異様な息苦しさを感じる。
「静かに!」
普段めったなことで大声を出さない岩田先生の叫びに驚き、生徒たちは息を呑んだ。
先ほどまでの迷いは一切なく、気丈に振る舞う岩田先生の姿は強がっているようにも見えた。拳を強く握りしめ、いまにも泣きそうな表情で、誰よりも俺たちの今後を憂いている顔だ。
「これは電脳科を志望する生徒たちに向けられた、ノアーからの伝言です」
『君たちとは仮想世界で再び相まみえることだろう。こちら側の世界であれば、私もこんな仮面を取って話してあげられるからね。まだぴんと来ない子も多くいるだろうけど、この顔に拳を叩き込んでやりたいって思う子はここに来ればそれが叶うかもしれないね。』
「ノアーからの伝言を日本中の学生、学者に聞かせろ。それを最後にノアーは完全に仮想世界に姿を消しました」
岩田先生が言葉を区切ったとき、もう誰も騒ぎ立てるようなことはしなかった。
動揺はある。それは間違いない。
だが、この教室四十人にこれを伝えるために覚悟を決めた岩田先生の思いが彼らの反抗心を刺激したのだ。
「……先生、仮想世界で戦うって何をするんですか」
「仮想世界で戦国時代における戦のような形態と聞いています。そして、その力は計算能力に依存する」
「だから受験の科目が数学だけか」
「現実世界での戦闘は本来の体を使用するため計算能力などは関係はありません。なので、こちらは本職の軍隊が務める予定です」
「つまり、俺たちがあいつに仕返しをするためにはその電脳科に入るしかないわけだな」
「はい」
「俺、数学苦手なんだよな。どうしよ、入れるかな」
ぼやいているのは兵司。
俺たち三人が目指していた咬園学園はもともと普通科の学校。
つまり、科目数は減るが兵司は一番苦手な数学だけで勝負することになってしまう。
しかし、兵司はこんな状況で弱音を吐くような人間ではないはずだ。
「兵司……」
「それでも、うちの先生にこんな顔させるやつを許してはおけないな」
「……!」
にやりと笑った兵司の言葉に、口を閉じていたほかの生徒たちも同調し立ち上がった。
「そうだ、俺たちの岩田先生を泣かせるようなやつ許しておけるか」
「私、運動神経鈍いけど数学なら自信ある」
「よし、それじゃ、二年後みんなであいつの顔ぶんなぐってやろうぜ!」
「「おおー!!」」
「……みんな」
とうとう先生は泣き崩れてしまった。
ずっと気を張っていたのだろう、堰を切った涙は止まることを知らない。
ただ、その涙は生徒たちの猛る燃料となり、さらに彼らのやる気を刺激した。
この場にいる生徒たちのなかには先日の一件で怪我を負ったものや精神的に傷つけられたものたちも大勢いた。
正直、この短期間でその恐怖はぬぐい切れないだろう。
それでも、自分たちの尊敬する先生の気持ちが彼らの勇気を奮い立たせたのだ。
「これで、俺が受からなかったらかっこ悪いな」
「ああ、それはもうめちゃくちゃかっこ悪い」
「ははっ、そんなら死に物狂いでやるしかないな」
兵司は冗談のように笑い飛ばした。
だがしかし、こんな笑い方をするときの兵司は本気で怒っているということを知っている天音からすると、彼の笑顔は恐怖でしかなかった。
「やっぱり、お前は頼りになるやつだよ」
兵司は二年後の戦いの鍵になる。
戦いの経験も知識もない天音にも、彼の持つカリスマ性というものがはっきりと理解できた。