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王の水

作者: 三原ケイ

 かつてはそれぞれに百を超えるオフィスと商店が入っていた高層ビル群は、新型爆弾に曝されて都市の巨大な墓標になっていた。それらの墓標の中でも、比較的形を保った、とは言ってもコンクリートは割れ鉄骨は剥き出しになり、窓ガラスは粉になって上半分は吹き飛んだビルの八階に、彼のテリトリーはあった。

彼は月光を背にして、目の前に置いたガラスの瓶を見つめている。瓶を持ち光に曝すと、濃い飴色の液体が揺れた。複雑な装飾が施された瓶に光が乱反射して、彼は灰色の瞳を細めた。

瓶の液体、つまりコニャックは、あとわずかしか残されていなかった。

一度瓶を置き、懐を探った。それを失くしていないことに彼は安堵した。もう何十回と確かめたというのに。無理もない。懐の物を手に入れるために彼は尊い命を奪った。

再び、彼は瓶を持ち上げる。この高級なコニャックが手に入ったのは、まったくの幸運だった。

八年前、一人の男が彼から少し離れて背を向けて立っていた。その男の前にも背を向けている男がいた。手前の男が金属の棒を振り上げて、奥の男の後頭部に叩きつけた。骨が割れ金属が折れる音がくぐもって聞こえた。嫌な音だが、聞きなれていたので、彼はわざわざ顔をしかめるような真似はしなかった。殴られた男はうつぶせに倒れた。殴った男は倒れた男が履いていた靴を奪うと、そのままどこかに走り去った。彼もおこぼれに預かろうと、倒れた男に近づいた。男の白髪が赤く染まっていた。

彼は男の死体が不自然に腹の辺りで膨らんでいることに気がついた。死体を裏返し服をめくると、懐中に箱が一つあった。彼はそれを手に取って、箱の文字を見て目を見張った。酒とは無縁の人生を歩んできた彼ですら名前を知る、最高級コニャックの名前が印刷されていた。箱を開けると、信じられないことに、血のようにも見える飴色の液体が詰まった瓶が入っていた。これはまさしく驚異だった。この時代に瓶いっぱいのコニャック。喋る犬や涙を流す聖人の像よりもはるかに驚くべきものだった。彼は自分の心臓を抱えるかのように瓶を抱え、急いでテリトリーへと帰った。

呼吸を整えてから、彼は瓶を開けた。とっくに忘れていたフルーツの複雑な香りが、世界にこびりついた腐臭を越えて鼻を突いた。彼は痺れたように小刻みに震え、落とさないように慎重に瓶を置いた。栓を閉め、グラスをガラクタの山から探した。彼は汚れの少ない小さな皿を選んだ。意を決して栓を抜き瓶を傾けて、数滴皿に垂らした。皿に広がった小さじ一杯ほどのコニャックは、ほとんど透明に見えた。両手をついて犬のように舌を伸ばしコニャックを舐めた。ネズミや虫が主食の彼の舌には、コニャックは雨水ほどの味もしなかった。けれども彼の胸は幸福感で満たされていた。涙がコニャックに混じらないように気をつけなければならなかった。彼の嗚咽が死んだビルに吸い込まれた。


彼の両親は純粋快楽合一派と名付けられた思想に染まっていた。純粋快楽合一派は、酒とドラッグ、その他快楽をもたらす物質を拒絶し、快楽は性行為によるもののみを是とした。性行為の快楽は人が神に与えられた、生来唯一の快楽であり、それを追求することで神に近づこうという馬鹿げた思想だった。「カーマ・スートラ」が聖典の役割を果たした。裸になり屋外で行うこと、道具を用いず避妊はしないことが規則で、人数や相手の性別は問われなかった。結果として、彼らの儀式は原始人の乱交の様相を呈した。

このような思想がなぜある程度の広がりを持ったのか、その背景を語る価値はない。いつの時代にも存在する世界を包む漠然とした不安、それだけで終わってしまうからだ。

ともかく彼は聖なる儀式によって生まれた。純粋快楽合一派は、儀式によってできた子供は、より神に近い存在として丁重に育てた。たしかな母親に対して、父親は母と最も多く儀式を行った人物が割り当てられた。

彼の家庭には酒がなかった。両親は酒を人間の純粋性を穢すものだと彼に教えた。また、ドラッグに限らず、メディスンやビタミン剤も禁止された。食べ物は添加物が入っているものは与えられなかった。

十代になると、彼は両親の思想に嫌悪感を抱くようになった。そのころ純粋快楽合一派は衰退していたし、バカでかい喘ぎ声を昼間っから聞かされるのは堪らなかった。

彼は当然の反発として、麻薬を摂取しハンバーガーを主食とし、セックスを忌避した。だが、酒だけは飲む気にはなぜかなれなかった。

彼が十九歳のとき、「日没」が始まった。それまで常に文明社会にかかっていた靄が、ゼリーのように固まって世界を包んだ。最初は経済恐慌だった。彼のあずかり知らぬところで始まったパニックは、紙幣、資本、株式、資産を無価値に変えた。そして散発的な暴動が内戦となり、小国の紛争は世界大戦に変わっていった。核兵器、またそれと同等の威力を持つ兵器が、人が築き上げた有形無形のあらゆるものを吹き飛ばした。様々な混乱を材料にして、地球は巨大な混乱のサラダボウルになった。亀の歩みの進歩に対して、崩壊はジェット機の速度でやってきた。彼は辛うじて生き延び、この街にたどり着いた。


 かつて数百万人がこの街にひしめいていた。今ではこの街の支配者は、愛玩犬の凶暴な子孫たちだ。もはや犬種もわからないほど混じりあった彼らは、先祖が持っていた野性を取り戻していた。わずかにいる人間たちは夜に活動した。皆がぼろを纏い飢えに痩せ、シラミやノミに皮膚を食い荒らされていた。彼は街に出て人を見かけるたびに、生き残った自分たちこそが亡霊なのではと錯覚した。亡霊同士でも多少コミュニケーションはあるが、基本的にはお互いに干渉しない。ほとんどの場合、交流は争いへと発展するからだ。

彼は十日前の夜に亡霊ではない、まさしく生者の青年に出会った。青年を見つけたとき、彼はナイフ代わりの金属片を握り、様子を見ながらつかず離れずの距離を保とうとした。しかし、明らかに「日没」後に生まれたであろう青年は、なんの警戒心もなく、ショッピングセンターで迷子になった子供のような表情で彼に近づいてきた。事実彼は迷子だった。青年は痩せていたが、飢えてはいないようだった。

「僕たちのグループはずっと北にいたんだ。雪に閉ざされた山の奥さ。ひもじいけど、生きてはいけた。外の世界は地獄だと聞かされていたからね」

 青年は屈託のない笑顔を見せた。彼は十数年ぶりに笑顔を見た。

「日没」直後に北へ疎開した集団がいたという噂は多く流れていた。そしてそれが失敗したという噂も同じ数だけ流れた。青年が語る北の様子は、彼にとってはエルドラドに思えた。

「ある日、ラジオに音が入った。びっくりしたよ。遠くの音を受けとれるなんて嘘っぱちだと思ってた。でも、それは確かに人間の声で、南に秩序ある街が築かれていると言っていた。安定した農業収穫があり、飲める水が確保できているとも。僕たちはすぐに出立した。多くの仲間が道中で死んだよ。一昨日も野犬の群れに襲われたんだ。そのとき、仲間とはぐれてしまった」

 彼は青年の話を聞き続けた。彼のほうに語るべきことはなかった。

翌朝、青年は去るときに、彼に一緒に来ないかと提案した。彼はその提案を断り、なるべく野犬に遭遇せずに街を出られるルートを教えた。

礼を言って青年は去った。そして、彼は決断した。


彼が懐からグラスを取り出した。コニャックグラスではなく、ワイングラス、しかも大量生産の安物だ。だが、グラスに欠けているところはない。巨大な破壊が起きたこの街で、無欠であるということはそれだけで大きな価値がある。これは街にいる亡霊から奪い取ったものだ。持っていたのは彼と同年代の赤毛の男だった。彼が住んでいたのは高級ホテルだった廃屋で、中はがらくたで溢れかえっていた。赤毛の男がリヤカーに物を山積みにして歩いているところを彼は何度も目撃していた。赤毛の男ならグラスぐらい持っているだろうと、彼は踏んだ。

最初は忍び込んで探そうと思ったが、すぐに男を殺した方が安全だと考えた。がらくたの上でいびきをかいて寝る男は、嫉妬に駆られるほど無防備だった。彼は男の首を金属片で掻き切った。

グラスは拍子抜けするほど簡単に見つかった。もともとは浴室だったであろう調理場に粗雑な造りの棚があり、そこに逆さにして置いてあった。彼はグラスについた埃をふき取ると、懐にいれて男の死体に礼を言って廃屋をでた。

彼はグラスにコニャックを注いだ。そしてゆっくりグラスを回し、鼻を近づける。果たしてコニャックの楽しみ方がこれであっているのかは彼には分らなかったが、いつもより香りが立っている気がした。

彼はこの香りを嗅ぐ度に、自分がこの世界でもっとも幸福な人間だと思えた。

「日没」から長い時が経ち、世界には秩序と安寧が取り戻されたところもあるだろう。飢えにも野犬にも怯えることがない暮らしをしている人たちがいるだろう。青年が向かった秩序ある街は確かに存在するだろう。

だが、このコニャックを口にできる人間は、自分以外にいないはずだ。最高級の、車ほどの値段がするコニャック。生存のためには不要な、純粋に人間の貪欲に応えるためだけに造られた液体。「日没」前なら絶対に口にする機会はない代物だ。全てが崩れ落ちたこの世界で、自分だけが貪欲を楽しむことができる。このコニャックを飲んでいるとき、彼はまさしく自分が王になった気分だった。

グラスを口から離して、彼はあの青年を思う。彼が秩序ある街にたどり着いたら、きっと文明の生活を取り戻すために必要とされる。若く働くことができる体を持っている。

自分はどうだ。足の指は壊死しているし、右目はほとんど視力がない。指は強ばり拳を握ることすら難しい。蘇ろうとしている秩序に、自分の居場所はない。ならば……。

彼はグラスと空の瓶を持って立ち上がり、窓ガラスが無くなった窓枠に腰かけ足を外に放り出す。下を見ると、黒々とした奈落が広がっている。だが彼は知っている。灰色の荒れ果てた地面があることを。

これからの復活の希望に満ちた世界で邪魔者として生きるくらいなら、絶望の世界で王として死のう。

彼はコニャックを一気にあおった。グラスの底を叩き、縁を舐め、一滴残さず口に含んだ。王の味が腐った舌のうえに広がる。錯覚かもしれない芳醇な味わいが。

グラスを闇の虚空に投げ捨てる。グラスが割れた鋭い音が聞こえる。今の自分は他の誰よりも満たされていると彼は確信した。幸福に頭が痺れた。

空の瓶を抱えて、彼はゆっくり前のめりになる。重力が体を捕らえる。彼の体は闇を突き破り、やがて左目が灰色の底を見つけた。

彼は即死だった。ただ体を打ち付けただけでなく、抱いていた瓶が割れ、心臓に突き刺さった。真っ赤な血が広がったが、闇の中では無色同然だった。


朝と夜がせめぎ合い、物の輪郭がおぼろげに見え始めた時間、一人の老人が通りを歩いていた。老人は二日間、なにも食べていなかった。犬の吠え声が聞こえた。そろそろどこかに隠れなければ、そう思って周囲の建物の中から安全そうなものを探す。良さそうな建物があった。老人はそれを目指して速足になる。建物の入り口で老人はなにかにつまずいた。

それは死体だった。死体くらいで老人はどうじない。それどころが、物色しようとうつ伏せの死体をひっくり返した。一通り探ってなにもないことに落胆したあと、老人は死体の胸に突き刺さっているガラスの破片になにかが貼ってあることに気がついた。破片を抜いて、地平線から伸びてきた陽光で照らす。血で汚れていたので拭うと、老人がよく見知ったラベルが現れた。

老人は思わず笑ってしまった。かつて酒の販売業を営んでいたとき、いくつもの模造酒、偽造酒を見てきた。粗悪品で、どれだけ高級感を演出しても、中身は小便も同然の代物たち。

このラベルの酒も、そうした模造品の一つだった。老人も駆け出しのころはよくつかまされた。

 破片を捨てようとしたとき、老人は懐旧の念に駆られた。若いときに犯した失敗を思い出し、涙と笑みが同時にこぼれた。

近くで犬の唸り声がする。老人は上着のポケットに破片を突っ込むと、急いで建物の中へと消えていった。

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