バク
理解の及ばない、意味の分からない世界。
僕はただただ永遠に何故かエスカレーターを転げ落ちている。
まるででんぐり返しをし続けているように、永遠と転がり落ちている。
ぐるぐると、目が回って気持ちが悪い。
終わりが見えない。
でんぐり返しの時に一瞬だけちらりと見ることができるその先の景色に終わりはない。
何故なのか、その理由を理解することができないがエスカレーターが続いている。
そして可笑しなことに全く身体に痛みはない。転げ落ちるときに身体のいろいろな場所をぶつけているはずなのに、痛みはないのだ。
でも、リアルな感覚だった。頭がぐるぐる回る感覚は、現実世界と同じだった。
もしかしたらこれは夢なのかもしれない、本当は「これは夢だ!」と叫びたい。
でもこんなにもリアルに感じられる出来事が本当に夢なのだろうか?
その答えを教えてくれる人は誰もいない。
目が覚めるまで、スマートフォンのアラームが僕を起こして現実の世界に引きずり出してくれるまで、このままずっとエスカレーターを転がり落ちていくのだろうか、そう思っていた時だった。
一人の少女が僕の目の前に現れた。
長く、黒い髪が風に靡いている。
黒いワンピースがひらりと揺れた。
少し疲れているような表情。
その手には何故か掃除機のようなものを持っていた。背中にタンクのようなものを背負っている。かなり頑丈に見えるそれは、彼女の華奢な体には少し重たそうだった。
彼女の後ろにはエスカレーターは存在しない。
「やっと見つけたわ。全くもって変な夢ね」
吐き捨てるように彼女はそう呟いた。
僕の理解が追いつかないうちに、彼女はその掃除機のようなものの先端―――ノズルを色々なところへと向けていく。そのノズルが当たる部分からエスカレーターしかなかった変な景色が消えていき、真っ白な空間が現れ始めた。
「な、なにこれ……」
「夢だから、理解しようとしなくていいのよ」
そう彼女はつっけんどんに僕の言葉に返事を返す。
その間も、その手に握られた掃除機は景色を吸いとっている。さっきまでの風景はもう殆どが真っ白な空間変換されていた。
「……掃除機」
「掃除機じゃないわ、悪夢を食べる機械よ。吸引力が落ちないただ一つの夢吸い取り機」
どこかで聞いたようなことがあるようなフレーズだ。
だか、どこで聞いたのかはすぐに思い出せなかった。
「夢吸い取り機?」
「そうよ、夢吸い取り機。どうせ起きたら何も覚えてないんだから教えてあげてもいいけど、知りたい?」
彼女は口の端を上げてそういった。
ちょっと意地の悪そうな表情だった。
そのころちょうど最後の景色を吸い取り終えたのか、彼女はその夢吸い取り機とかいう機械の電源を切った。
「はぁー、仕事一つ終了」
そういうと彼女は肩を回して大きく溜息をついた。
ポケットから手帳と書くものを取り出して、何かをチェックしている。
「あの、説明って……」
忘れられてしまったのではないだろうかと思い、僕は彼女の方を見た。
「ああ、知りたいの?」
「はい」
そう答えた僕に彼女はちょっと待ってねといって、手帳をパタンと閉じると、もう一度元のポケットへと入れた。
「悪夢って分かるわよね?」
「まぁ、嫌な夢の事ですよね」
「そう、本人にとってあまりよくない夢。幸せじゃない夢のことよ」
そう言って彼女は先ほど手帳に文字を書くために、腕に掛けていた掃除機のような夢吸い取り機に視線を向ける。
「私の仕事はそれをこれで回収すること」
「悪夢を回収?」
「そう、回収する仕事」
彼女はそういうとにこりと笑った。
「誰もがハッピーになれるいい仕事でしょ?」
確かに悪夢を見たい人なんているわけがない。
もしそれが本当だというのならば、とてもいい仕事だとは思う。
それに先ほど現に僕の嫌な夢を彼女はその夢吸い取り機とかいう機械で吸い取って、真っ白にしてしまった。
「説明はおしまい。納得できた?」
「……一応」
そういった僕に彼女は問う。
「どうする?あなた起きる?」
「起きるって……」
彼女は左腕の腕時計を見る。
「時間的にはもう少し余裕ありそうよ。睡眠時間は大切にするべきだと私は思うけれど、あなたはもしかしてショートスリーパー?短時間の睡眠で満足できる人?」
「……時間的にって……なんだかすごい単語を聞いてしまった気がするんですけど……というか今、何時です?」
「今?大体、夜中の三時くらいね……あら、今、目覚めたい?ちょっと起きてトイレにでも行く?」
「いや、寝かせてください」
明日も学校に行かなければならない。
夜中に起きてしまって、もしその後になかなか寝付けなかったら授業中に眠くなるかもしれない。もし授業中に寝たらチョークが飛んでくるかもしれない。担任の小林先生の授業の時は特に。
「うーん、君どんな夢が見たい?」
「自分で選べるんですか?」
「Aコースとか、Bコースとかそういうのあるけど、そういう定食系のメニューがお好みならそれでもいいわよ」
「なんなんですか、それは」
あまりにも彼女の現実染みた言葉に僕は思わず突っ込んでしまう。
「Aコース、焼き魚定食。Bコース、生姜焼き定食」
昼頃にやっている定食屋さんでありがちなメニューの羅列だ。魚か肉かという。彼女の口から出てくる言葉に違和感を覚え過ぎて、僕はぽかんと口をあけながら彼女を見ることしかできない。
「冗談よ。定食屋さんじゃないんだから、ご飯は出せないわ」
そういって彼女は一人でケタケタと笑う。
「Aコース、楽しい思い出めぐりツアー。Bコース、ワクワク冒険の旅。あなたの今の気分はどっちかしら?」
「何なら、どういう夢を見たいって具体的に言ってくれてもいいのよ」
彼女はそういって掃除機ならぬ夢吸い取り機をかける真似をした。
「……それって夢吸い取り機なんですよね」
「そうよ」
「じゃあ、吸い取ることしかできないんじゃないですか?」
「大丈夫。この機械、優秀だから吐き出すことも出来るわ」
「吐き出すって……それって、吸い取った悪夢をですか?」
僕は先ほどそれで僕の悪夢を吸い取っているのを間近で見ている。
そのホースの先についている彼女の背中に背負われているタンクの中にあるのは、恐らく僕の見ていたよく分からない永遠とエスカレーターを転げ落ちる悪夢なのだと思う。
「違うわよ、悪夢を返してどうすんの。あなたにあげるのはいい夢よ」
自信満々に言い切った彼女に、僕は「それはもう夢吸い取り機ではなくて、吐き出し機か、洗浄機ではないか!」と思わず突っ込みそうになったが耐えた。
「悪夢をこの機械のタンクの中で洗浄して循環させて、いい夢に変えることができるのよ。リサイクル……エコでしょ」
今まさにこの中で僕の先ほどの夢も綺麗にされているのだろうか。確かに彼女の背中にあるタンクが少し音を立てている。
「できればなるべく早めに、見たい夢を決めてほしいんだけど」
彼女は少し焦りが見える言葉を発する。
彼女をじっくり見ると、とても綺麗な黒髪の少女であるが目の下に薄っすらと隈がある。もしかしなくても、お疲れ気味なのかもしれない。
「あのもう一つ聞いていいですか?」
「なに?」
「もし僕の夢を素敵な夢に変えたとして、あなたはどこに行くんですか?」
「私は悪夢じゃないなら意味がないから次の人のところに行くわ」
「悪夢じゃないと意味がないんですか?」
「そうよ、悪夢を回収するのが私の仕事だもの」
「じゃあ、この後は?」
「今夜、悪夢を見ている人はあなただけじゃないのよ。あなたの前にも他の人の夢を悪夢から素敵な夢に書き換えてきたところなんだから」
「じゃあ、この後も仕事を?」
「そうよ、さっさと終わらせたいんだから、早くAコースでもBコースでも何でもいいから選んでほしいわ」
「……じゃあ、Aコースで。」
「Aコース、楽しい思い出の方ね。割とそっちを選ぶ人が多いのよねぇ……やっぱり堅実にいきたいって思うのかしら。私はBコースも嫌いじゃないけど……分かったわ、ちょっと待ってて用意するから」
そういって彼女は掃除機の普通なら強弱とかを変えるボタンが並んでいるようなところを弄り始めた。そこにコースを選択するボタンでもあるのだろうか。少し興味があったけれど、流石に彼女にもう少しその夢吸い取り機見せてください、とは言えなかった。
「あの、名前だけ教えてくれませんか?」
「名前?」
「きみの……」
「私の名前なんて知っても、なんもいいことないわよ?大体、夢なんだから起きたらすぐに忘れちゃうし」
「それでも、教えてもらえませんか?」
「……バクよ。ほら、動物にいるでしょ?夢を食べる伝説がある動物。あんまり形は可愛いとは思わないんだけどね……あれと同じ名前」
「バクちゃん?」
「ちゃん付けはやめてよ……まぁ、いいわ。私は急いでるの。あなたはこれから起きるまでいい夢を見て気持ち良く目覚める、私は一つ仕事が終了して次の仕事に移動。それで問題ないでしょ?」
彼女はにこりと笑った。
よいしょと、掃除機のような夢吸い取り機のノズルの部分を僕の顔の前に持ってくる。
なんというか、あまりいい気分とは言い難い。
「じゃあ、いい夢を」
彼女がそう言ったとたん、そこから虹色の何かが出てきた。
そして僕は目の前が真っ白になった。
*
「はー、疲れるわ」
彼女は真っ暗な中を歩いていた。
行先は次の悪夢を見ている人間の夢だ。
その足は動いているけれど、その口から出てくるのはため息とネガティブな言葉。だんだん足の動きもゆっくりになっているような気がする。
そんな時、彼女の背中から声がした。
その声の出てきたところは、彼女が背負っている夢吸い取り機のタンクの部分だった。
ちなみに余談ではあるがそこが夢吸い取り機の本体である。
「バクそんなことを言ってないで!今日はあと十件仕事があるんですから、頑張ってください!走って!」
掃除機、いや、夢吸い取り機が言った。
その言葉にバクは嫌々ながら走り始める。
「だって、アンタは私に背負われて運んでもらっているからラクチンかもしれないけれど、私は走ってるのよ」
「しょうがないじゃないですか、私、自力で動けないんですから」
「喋れるのにね」
「はい、もっとテンポよく走ってください」
「えー。ならアンタダイエットしてよ。重い」
「今日の仕事が全部終わって、私の中に入っている悪夢だったものの残骸をゴミ箱に捨てたら軽くなりますよ」
「……それは知ってる。そういう意味の重さじゃなくて」
「じゃあ、どういういう意味?」
「でも軽量化するとかそういう努力はできないのか、って言ってるのよ」
「それは技術開発部にお願いして!」
きっぱりとした口調で夢吸い取り機が言った。
今夜はもうこれで三十四件は悪夢を吸っている。
だいぶ残骸が溜まってきて、それなりに夢吸い取り機にも重い。
少しの間だけ真面目にバクはしばらく走るが、そのうちまたその足はだんだんゆっくりになって最終的にはまた歩きに戻ってしまう。
「バク!」
背中からバクの名前を呼ぶ声がした。
「いやー、だって。大丈夫。間に合うって、夜明けまでまだ三時間くらいあるし」
「人々を早く悪夢から救ってあげたいという心はないんですか?」
「正直あんまりない」
「……」
呆れてついに何も言えなくなったのか、夢吸い取り機は黙り込んだ。
そんな夢吸い取り機に流石にまずいと思ったのか、再びバクは走り始める。
数分ほど走ると、そこにドアが現れた。
大きくも小さくもない、バクがスムーズに通り抜けられるようなちょうどいい大きさのドア。
バクはそのドアの前で一度立ち止まると、大きく一回深呼吸をする。
「さあ、いっちょやってやりますか」
そしてドアを開けた。
*
「うわあ~ナニコレ……」
そこにはよく分からないたぶん人間の概念からすると悪魔とか命名されそうな何かがうようよとしていた。まるで地獄絵図のようだった。
今までいくつもの悪夢を吸う仕事をしてきた流石のバクも足を止めてしまう。
「……バク、早く仕事して!」
「ほんと、アンタ仕事熱心ね」
そういってバクは周りを見回す。
最初にその夢の主人公を、つまり夢を見ている人を見つけなくてはいけない。
そうじゃないと、その人も一緒に夢と一緒に吸い込んでしまうかもしれないからだ。
もしそうなったら大変!
その人の精神は崩壊してしまう危険性がある。
ということで、基本的に夢吸い取り機は夢の持ち主を見つけてから周りの夢を吸い取るという使い方をする。どうしても本人が見つけられな場合は、慎重に周りを吸い込みながら本人を探すという手を使うこともあるが。
「一体どこにいるんだろ……私も悪魔とか幽霊とかそういうのあんまり得意じゃないんだけど……もうすでに帰りたい気持ちでいっぱいなんだけど」
「頑張ってバク!あなたならできるわ!」
「背負われてるだけのアンタに言われたくない……じゃあ、とりあえず私が怖くならないように適当に何か面白い歌でも歌っててくれる?」
バクがそんな無茶ぶりを夢吸い取り機に振る。
その言葉に忠実に夢吸い取り機はよく分からない歌を歌い始めた。バクが聞いたことのない歌だった。彼女は真面目だ。
バクは再びため息をついた。
少しだけ背伸びをして周りを三百六十度見回す。
「あ、それっぽいの見つけた」
そういってバクは走り始める。
その夢の主人公は人の形をしていなかった。
「……ナニコレ」
その主人公は巨大なハムスターの姿をしていた。
しかし、喋る言葉は人間の言葉だ。
「ねぇ、これどういう夢か説明してくれない?」
「そんなこと私の方が聞きたいわよ。なんで私がハムスターなのよ!しかも明らかに大きすぎるでしょこれ」
「……悪夢の意味私にも理解できないので、言われても困ります」
「しかも周りには悪魔みたいな怖いのがいっぱいだし!どこの地獄よ。これでお菓子に埋もれてる夢なら許せるものの……」
「……許せるんだ」
ぼそりとバクはうっかり声を漏らしてしまう。
「何か言った?」
「いいえ」
「もしかして寝る前までお菓子を食べていたのが悪かったのかしら……」
そのコメントにバクの脳裏に彼女の体形が一瞬浮かんだが、すぐに首を振って頭の中からポイ、と捨てる。
そしてこの悪魔みたいな生物に囲まれている中で「まぁ、ハムスターになったとしてもお菓子に埋もれる夢なら許せる」などと言った彼女は意外と図太い神経してる人なんだなぁ、とバクは素直に感心することにした。
「で、アンタ誰なの?」
いきなり振られてバクは少し驚いてびくりと身体を震わせる。
「あなたの悪夢をもらいに来ました」
「悪夢をもらう?」
「そう、この掃除機みたいなのでこの変な夢を吸って、綺麗にして、あなたの夢をいい夢に変えに来たんですけど……」
「なら、さっさとやってちょうだいよ」
「えっと、……Aコース、焼き魚定食。Bコース、生姜焼き定食」
「Bコース!」
間髪入れずに彼女がそう叫んだ。
「いや、すみません。間違えました。Aコース、楽しい思い出めぐりツアー。Bコース、ワクワク冒険の旅。何なら、どういう夢を見たいって具体的に言ってくださっても大丈夫なんですけど……」
「じゃあ、お菓子に埋もれる夢にして」
「……分かりました、とりあえず今の夢を吸い取るところから始めたいんですけど……」
彼女の即答に少し何とも言えない表情をしながらバクは言う。
「さっさとしてよね」
「すみません」
こんな人助けのような仕事をしているのになんで謝らなければならないのだろうか、と思いながらバクは夢吸い取り機の吸い取りスイッチを入れる。
ウィーン、
悪魔みたいな何かがどんどん掃除機、いや、夢吸い取り機にのまれて真っ白な空間に変わっていく。
「すごいわね、その掃除機」
「そうですね……」
掃除機じゃなくて、夢吸い取り機ですと訂正するのも面倒くさくなってきたので、バクは彼女の発言をスルーした。
あっという間に周りの景色を吸い込んでいくその様に彼女は興味津々な目で夢吸い取り機を見ていた。
「全然、吸引力が落ちないわね」
「褒めてくれてありがとうございます。技術開発部に夢吸い取り機の威力を褒められましたよ、って伝えておきますよ」
「そんなところがあるのね。面白いシステム」
私としてはもう少し軽量化してほしいんですけど、と言う言葉が喉元まで出てきたが声に出しては言わずにバクはノズルの角度を少しずつ変えながらすべての景色を吸い取った。
「えっと、お菓子に埋もれる夢でしたよね?」
「そうよ」
「ちょっと待っててくださいね。今、頑張って洗浄してるところなんで。夢を綺麗にしているところなので」
ちょっと時間をといったバクに彼女は質問してきた。
「ねぇ、アンタは私の夢の中の登場人物なわけ?つまり……私の夢の中のキャラクターってこと?」
「いえ、私はたくさんの人の夢を渡っています。あなただけの夢のキャラクターではないです」
真面目に返すバク。
背中に背負ったタンクが少し音を立てながら必死で夢を洗浄中だ。
「じゃあ、私の前にも悪夢を吸い取ってあげた人とかがいるってこと?」
「います」
流石にあなたで今日は三十五人目です、とまでは言えないけれど私が真面目に仕事をしているということぐらいは伝えてもいいだろう。
「私の夢を綺麗にした後はどこに行くの?」
「次の人が待ってるんで、その人のところに行きます」
ふぅん、と興味のありそうな目で彼女はこちらを見た。
「若いのに大変ね……アンタはいい夢を見てる人のところにも行くの?」
「いえ、悪夢を見ている人のところにしか行きません。その夢を綺麗に変えるのが私の仕事ですから」
「そう」
「あ、そろそろ希望している夢が提供できそうです」
「じゃあお願い。お仕事頑張ってね」
彼女の最後の言葉はそれだった。
*
「つかれた~、休みたい~、私がふかふかのベッドで眠りたい……」
そう言いながら、また真っ暗な空間をバクは歩いていた。
「バクしっかりして!早くしないと夜が明けちゃうわよ!」
とぼとぼと歩いているバクを叱咤するように背中の夢吸い取り機が叫ぶ。
「せめて自分で歩いてくれない?」
ほら、現代にあるじゃないあるじゃない。自立型掃除機。
充電しておいたら自分で動いてくれる奴。
機械なのにだんだん愛着湧いてきちゃうあの可愛い掃除機。
ああいうのみたいに改良してもらってよ、といったバクに夢吸い取り機が「そういうのは技術開発部に言ってよね!」と返事した。
「……だって、あそこに行ったらなかなか帰してくれないんだもん」
開発部は情報に飢えているのか、「ここを直してほしいとか、こういう風に改良できない?」と言うと、あれやこれやと質問をしてくるのだ。しまいには商品の良い所の自慢話になり、それを全て聞くまで帰してくれない。いつも適当に相槌をうってやり過ごしているが、疲労して眠たい身体で行きたいとは思えない場所だ。
バク自身は夢を見ない。
他人の夢を見ることはできても、自分が眠っても夢を見ることができないのだ。
バクは生まれたときから今の姿かたちをしていて、生まれた時から他人の悪夢を吸い取る仕事をし続けている。
毎晩毎晩、ずっと人々の夢の中に入り込んで、人々を救っているのだ。
いくらなんでもバク一人では世界中の人間の悪夢を吸い取ることはできないから、バク以外にもバクと同じ仕事をしている人たちはいる。
ただ、バクはその仕事を与えられた初めての存在だった。だから夢食いで有名な動物と同じ名前をもらったのだ。
「光栄でもなんでもないけどね……」
いつもそのことを同僚に言われると決まってバクはそう答える。
そこには外見に似合うキラキラとした少女としての発言はない。だって、外見は十代前半の少女であるが、中身はもう数千年生きているおばあちゃんなのだから。
「もう何千年もこんな仕事ばかりしてきて、少しは休ませてほしいわ」
彼女が塗り替えた悪夢はもう数えきれないほどだ。
そして今日もたくさんの悪夢を素敵な夢に塗り替えている。
「バク」
「なに?夢吸い取り機、」
「あなた、知ってる?」
「何を?」
「あなたが人間たちになんて呼ばれているのか」
「んー、知らない。だって、どうせあの人たち起きたら私のことなんてすっかり忘れてるでしょ?」
「流石におぼろげにうっすらと覚えている人がいるらしいわよ」
「……へぇ。というか、それ誰に聞いたの?」
「この間、開発部で聞いたのよ」
そういえばこの間ノズルの部分に悪夢の残骸が詰まってしまって、壊れてしまい、仕方がなく開発部に修理に出したときがあった。
勿論、預けるときは勿論、返してくれるまでかなり長い間よく分からない自慢話と改良した部分の話を聞かされるという、ある意味バクの悪夢を見たが。因みに大変申し訳ないが会話の中身のほとんどは耳をすり抜けていってしまって頭に残っていない。
「へぇ、なんだって?」
「素敵な夢を与えてくれる天使って言われてるみたいよ」
「こんな掃除機背負ってる天使がいたらある意味怖いわ!」
思わず突っ込んでしまった。
掃除機じゃなかった、夢吸い取り機だった。
しかし、それを突っ込む人は誰もいなかった。
「バク、少し顔赤いわよ」
「走ってるから暑いだけよ」
「そうかしら?」
そういってバクはそれから何も言わずに走り続けた。
しばらくすると、また新しい扉が見つかる。
「行くわよ、夢吸い取り機」
「頑張りましょ、バク」
*
「……なにこれ」
少し気合を入れてドアを開けたがいいが、そこはゴミが山のように積まれていて、むしろゴミの中だった。
「バクの部屋みたいね」
「うるさいなぁ、ここまでじゃないわよ」
そんなやり取りをしながら、バクは夢の持ち主を探す。
「あ、いた」
ゴミに囲まれて、ぽつり、一人の人が膝を抱えているのをバクは見つけた。
「こんばんは?」
「……」
「あのー……」
話しかけてみるが返事をしてもらえない。
「すみません……」
肩をぽんぽんとたたいてやっと「そっとしておいてくれないか」という返事が返ってきた。
「あの、私バクと言います。悪夢を回収して、いい夢を見てもらえるようにする仕事をしてるんですけど……」
「ほおっておいてくれないか。私はこの夢で満足している」
「……いや、どう見てもこれいい夢には思えないんですけど……」
ゴミの中にひとりぼっちでいる夢の何がいいのかバクには理解できなかった。たぶん、誰にも理解できないだろう。
「もう少しいい夢に変えてみませんか?」
「僕にはこんな夢がお似合いなんだ……」
そう男性は答えた。
ぎゅっと足を引き寄せる腕を強くして、さらに小さくなる。
「仕事で失敗して、多額の借金を背負うことになってしまった。妻とはうまくいかず離婚せざるを得なくなった、それ以降子供にも会わせてもらえない。ずっと眠れなくて困っていて、病院にいって薬を処方してもらってやっと寝付けたらこんな夢だ。でも、この夢が僕にはお似合いなんだ。僕もここのゴミの一つなんだよ……ごめんね、お嬢さん。君みたいな小さい子に聞かせる話じゃなかったね」
丁度、私の子供が君と同じ年頃なんだ。
そういった男にバクは「なら、なおさらあなたはいい夢を見るべきです」と言った。
バクはまっすぐ男の目を見て言った。
「私は今日もたくさんの人の悪夢をいい夢に変えてきました。でも、今日巡ってきた中であなたにはいい夢を見る権利が一番ある私は思います!」
「なんで、そう思うんだい?」
「私があなたに元気になってほしいから」
その理由だけじゃだめですか?
そういったバクに男性は「……元気になんてなれないよ」と困った顔で言った。
「じゃあ、なれなくてもいいです。そんなに悲しい現実に生きているのなら、せめて夢の中でくらいいい思いをしたって罰が当たらないと思いませんか?」
バクの言葉に男の目から涙が溺れ落ちた。
「ああ、そうだよな。夢の中でくらいいい思いをしてもいいよなぁ」
男にバクは優しく笑いかけると、夢吸い取り機のスイッチを入れた。
ゴミの山がどんどんタンクの中に吸い取られて、何もない、白い空間になっていく。
バクは手を動かしながら男に問うた。
「夢の内容選べるんですけど、Aコース、楽しい思い出めぐりツアー。Bコース、ワクワク冒険の旅。何なら、どういう夢を見たいって具体的に言ってくださっても大丈夫なんですけどどうしますか?」
「……Aコースでお願いしてもいいだろうか?妻と子供と過ごした楽しい思い出を……少しでも思い出したい。思い出せたら、今よりも前を向いて歩いて行けるような、そんな気がするんだ」
「分かりました、Aコースですね。今の悪夢を吸い取ったら洗浄して作り直すので少しだけ時間をください」
「ああ、いいよ。いつまでも待つよ」
そういって男は夢吸い取り機を動かしているバクをじっと見た。
「君はいつからこんな仕事をしているのかい?」
「さあ、記憶にないんです。たぶん何千年もやってるんだと思うんだけど」
「……何千年、気が遠くなるな。毎日、誰かのために働いているのか」
「誰かのためになっているのかは分かりませんが、毎日やってます」
「ためになっているよ」
男はハッキリとした口調でそう言い切った。
「少なくとも、君は僕を救ってくれた」
「……それならいいんですけど」
バクは最後のゴミの夢を吸い込み終わると、ボタンを押して一度夢吸い取り機を止める。
「私は、私自身は夢を見ないんです。だから、人間にとってどれだけ夢が大事なものなのかよく分からない。夢なんて結局忘れてしまうものだから、悪夢でも、いい夢でもどうでもいいんじゃないかってたまに思うんです」
「そんなことないよ。悪い夢を見た日に目覚めたときは、悲しい気持ちになる。いい夢を見た日には少し朝気分がいいんだ。全然違う。間違いなく、君は人の役に立つ仕事をしているんだよ」
「そうならいいんですけど……」
そう言ったバクの後ろでタンクが洗浄完了を伝える音がした。
「じゃあ、夢を塗り替えていきますね」
「ああ、その前に一つだけ言わせてくれ」
ストップと、手を目の前に突き出してきた男にバクは不思議そうな顔をする。
「君にお礼を言わせてくれ。ありがとう」
そういって男は深々とお辞儀をした。
バクはにこりと笑った。そして、夢吸い取り機のノズルを男へと向ける。
「どういたしまして」
その言葉とほぼ同時に、夢の吐き出しボタンを押した。
*
「バク、機嫌良いわね」
「そんなことないわ」
真っ暗な空間を走るバクに背中の夢吸い取り機が言った。
先ほどまで疲れただの、休みたいだの言っていた人物とは思えないほどに、軽快に闇の中を走り抜けていた。
「さっきの男の人に言われたのことがそんなに嬉しかったの?」
「そんなことないわ!」
「……ふーん、」
「早く仕事を終わらせたいだけよ!」
「……まぁ、真面目に仕事をするのはいいことだから、何も言わないわ」
夢吸い取り機はそれだけ言うと黙った。
「ねぇ、あと今日はいくつだっけ?」
「あと八件よ」
「早くしないと、朝になっちゃうわね」
「そうね、頑張りましょう。バク」
「早く次に行くわよ、」
そういって掃除機みたいな夢吸い取り機を背負った少女は、闇の中を軽快に走り抜けていった。