日本の祭
「ねえ、はじまるよー」娘の声に促され部屋に入る。彼女はすでにソファーに腰をおろし、片手をあげてスクリーンを起動するハンドアクションを行っていた。くねくねとした指先の動きに呼応するように、対面の壁ぎわに幅1メートル半ほどの薄いスクリーンがするすると天井から下りてきて白い光を放つ。
父親は両手に持っていたピンク色の液体が満たされた容器の片方を娘に渡し、自分の分をテーブルに置くと彼女の隣に座った。彼女はそれを旨そうにひと口すする。その液体はストロベリー風味の水だった。もしガイガーカウンターを当ててみたら針が振り切れてしまうだろうが、この時代にあってはそれが一般的な飲料水であり、食品も同様であった。だが、人々はみんな強力な放射線製剤を服用しているので健康における心配は無用だ。そして薬を服用していなかったら表に出て深呼吸をしただけであっという間に病院送りになってしまうだろう。
二人が暮らすこの部屋は、日本の首都である新函館のタワーマンションにあった。昔、函館と呼ばれた場所は温暖化による海水面の上昇で水没してしまい、その上に設けられた広大なメガフロートにこの都市はある。本州など北海道より南の土地は、ほとんどの都市が水没してしまった上に熱帯性の植物に覆われジャングルと化してしまった。
「お、始まったぞ」
スクリーンが樹木の深い緑色に埋まり、中央に「日本の祭」とタイトルが表示された。
「今日はどこのお祭りなの?」
「渋谷だってさ」
画面は密林に囲まれた広場に変わった。かなり広く30m四方はあるだろうか。そして正面には石造りの建物があり神社の社殿だろう。広場には上半身が裸の男女たちでいっぱいだった。祭の熱気が画面を通して伝わってくるかのようだ。
「渋谷ってどの辺?」
「本州の真ん中あたりだな。かつて日本の首都だった東京は習ったろう? そこにあった、とても賑わっていた街だったらしいよ。だけど当然、ほかの東京の街と同じように今では海の底だから、いま映っているこの渋谷はずっと西にある別の場所らしいね。移り住んだ人たちが、かつての街の名前を付けたんだって」
「ふーん、そうなんだ」娘は興味深そうに画面を見つめていた。
画面では一台の白く小さな、おそらく乗り物であろう物体が現れゆっくりとした動きで境内の中央まで来ると止まった。よく見ると前部に結びつけられた縄で引っ張られていたのがわかる。
「かわいい、なんだろう。乗り物かな?」
「あれは『ケイトラ』だな。昔の乗り物で、物を運ぶのにも使ったんだ」
「へえ。ということはそれ自体で動いたの?」
「そうだね。化石燃料を動力としていたとか」
「化石燃料?」
「うーんと、説明が難しいな。簡単にいえば油みたいなものかな」
「油ねえ。油で動いたんだ」
父親はスクリーンを凝視している娘の横顔をちらりと見た。どこまで正確に伝わっているのだろう。すると彼女は「あっ」と小さな声をもらした。「見て」
神社の境内では人々が『ケイトラ』に群がっていた。わあわあという怒声にも近いかけ声を上げながら、ある者は上に乗ってぴょんぴょんと跳ね、またある者はぐらぐらと力いっぱい揺らす。祭は絶頂に達しようとしていた。
ふたりは息をのんで画面を見つめていた。「すごい……」
そのとき、そーれというかけ声とともに『ケイトラ』の片側に両手をついた人々が力を込めてそれを押した。『ケイトラ』はゆっくりと車輪を浮かせ、そして地に面していた腹部を現し、とうとう横倒しになってしまった。人々はおおーっという歓声をあげ、嬉しそうに跳ねたり、周りの人と抱き合ったりと喜びを身体じゅうで表していた。ことしも祭は無事に終わったのだ。
「ふう、凄かったねえ」ストロベリー水で喉を潤して娘がつぶやいた。
「うん、見ごたえがあったな」
「けど、なんであんなことするんだろう?」
「えーと」父親はテーブルクロスを兼ねた卓上スクリーンに触れて解説をさがした。「これだこれだ。『渋谷の祭は西暦2000年代にまで遡る歴史ある祭です。神話にあるタジカラオノミコトが天の岩戸を開けた伝説に倣い、自動車を転がして力を誇示することで五穀豊穣を願いました』だってさ」
「なるほどね。……でもさ」
「ん、なんだい?」
「あんがい、もっと馬鹿げた理由かもしれないよ」
「馬鹿げた? どういうことだい」
「たとえば、ちょっとした暴動があって、いきり立った荒っぽい連中が手当たり次第に乗り物を倒しちゃって、それが毎回行われるようになり、おまけにそれを見て楽しみだす連中まで現れちゃって、いつしか祭になってしまった、とか」
「うーん。発想としては面白いけれどその頃の日本はそんなには荒っぽくなかったはずだよ」
「そうなの?」
「うん。それに日本に限らず世界でも祭というものは荒っぽいものが多かったらしいしね。丸木に乗って崖を落ちたり、人が乗った山車を猛スピードで走らせたり、あばれ牛に追いかけられたり。もっとも、それらの祭も始まりはおかしな連中が調子にのって始めたのかもしれないけれどね」
「あはは、そうかも。どちらにしろ私たちにはわからないか」
「そうだな。東京にしろ函館にしろ、かつて地上にあって繁栄していたと伝わっているけれど、それすら僕らには本当かどうか知ることができない。伝説を信じるしかないんだよな、残念ながら」
彼は立ち上がると窓際に行き大きく伸びをした。窓から眺める景色は同じようなデザインをした灰色のビルがどこまでも立ち並び、繁栄を感じさせながらもどこか荒涼とした印象を受ける。すると一羽の小鳥が飛んできた。気付いた彼が窓を開けると小鳥は窓枠にとまった。その小鳥は真っ白で、くちばしに植物の葉をくわえていた。そして部屋に葉を落とすと飛んで行ってしまった。彼は葉を拾い上げた。それはオリーブの葉だった。彼はそれをまじまじと眺めると、娘にも見せようと声をかけた。
「ほら、見てごらんよ」