初めて○○○した時の話
【注意】ド下ネタなので、お昼時に見てはいけません【注意】
初体験――
10代の頃、この『初体験』という言葉はとても大きな意味を持っていた。
それはどこか甘酸っぱく、そして憧れがつまった響きであり、自身が未体験であるという事が、まるで恥であるかのような印象を持っていた。
とにかく早く経験してみたかったのだ。今にして思えば、早く大人になりたいという自立心が働いていたのだろうと理解できる。
――私達の生きる世界には色々な初体験がある。
いや……あるというよりも、この世に生れ落ちた時は皆、真っ新であり触れる全てが初体験だ。
そして私達は色んな初体験を重ねて大人になってきた。
だがしかし、よくよく考えれば、どれだけ年と経験を重ねて大人になったとしても新しい1日は過去にあった日の繰り返しではないのだから、今日も――この時ですら新しい瞬間を迎えているのであり、今現在も初体験の真っ最中とも言えるのだ。
だけれども……悲しいかな年と経験を重ねたことにより『慣れ』が生じ、些細な変化は誤差の範囲となっており、夜に床について一日を振り返ると「今日も変わり映えしないいつもの一日だった」と目を閉じてしまう。
そう。私達は既に初体験の感動に自ら目を閉じてしまっているのだ。
だがそれはとてもとても、もったいない事なのではないだろうか。
まだ全てが新鮮に見えていた頃、初体験の一つ一つに感動していたあの時、私達の一日はもっともっと長かった。
今のように「あぁ今日も終わった」と流れ作業のような心持ちを感じる無味な日々では無かったはずだ。もっとキラキラと輝いていた。
初めて小説家になろうを読んだ時を思い出してほしい。
ふとした拍子に小説を見つけ「へぇこんなサイトがあるんだ」と、なんとなく読みはじめた。
そしてふと見つけた小説があまりに面白くて寝る間も惜しんで読みふける。眠らないと次の日が辛いと知りながらも読むのを止めたくなかった。夢中だった。
そう……大人になっても初体験に感動できる心はまだ持っているはずなのだ。
ただ、ほんの少し慣れて感動する気持ちを忘れてしまっているだけ。
だからこそ一度、自身の初体験を思い返し、その感動した時の心を見つめ直してはどうだろうか。
もう一度、新鮮な気持ちで日々に色を取り戻してみるのだ。
誰しもこれまでの人生において、いくつかの忘れられない強烈な思い出として残っている『良い初体験』があるはず。それを思い出してみれば、不思議と当時の感動のような物が沸き起こり、自分の内に小さな火が灯って少しの熱を持ってくるのが分かる。
大人だって、まだ全てに夢中になれる。目の輝きを取り戻せるはず。
忘れられない初体験の事を思い出すことで、これからの初体験を新鮮に楽しむ心を取り返し、無色と感じる世界にコントラストの強い色を付けるのだ。
私自身、『良い初体験』といわれると、忘れられない程のロマンチックな初体験をした。
人に話す様な話でもないし、日本ではなく海外で迎えた初体験ということもあって、内に秘めている話だ。
とても大事にしてきた忘れられない思い出のはずなのだが、ふと思い出そうとしてみると錆びつき、思い出が断片化してきていることに気付いた。
良い機会なので、大事な思い出だからこそ、書き記す事で当時をしっかりと思い出してゆこうと思う。
私は一足先に世界に色を取り戻させてもらおうと思う。
――あれは私が10代から20代へと変わって数年、人生の岐路に迷っていた頃のこと。
当時、東京で過ごしていた私は諸々あって田舎に引っ込む事を考えていた。
そう。簡単に言えば挫折したのだ。
東京で夢を追いかけ破れ、そして諦めた。
東京は毎日、誰かが夢を求めてやってくる。
そしてまた誰かが夢破れて去ってゆく場所。
それが東京。
よくある話だ。
そんな時、友人が「それじゃあ暇になるならインド行こうぜ!」と誘ってきた。
突然の提案に戸惑っていると「金はないが通貨が安い所ならバックパッカーでもギリギリ楽しめるはずだ」と、いい笑顔。
私は夢破れた自棄っぱちと、そして持てあます若さの勢いで「よし行くか!」と返事をし友人と計画を具体化させた。
そして「インドは……ガチでヤバめだからネパールにしよう」と日和ってネパールに行くことにした。
なにせインドは、いざ行ってみようと思って調べてみると「インドやべぇな……」という言葉を呟かずにはいられない程にヤバイ伝説が多いのだ。
伝説を調べただけで「インド怖い」が発症してしまった私達は、行く先を北上させてネパールへ変更。インドと比べればネパールはヤバくない。安心だ。
……実は当時、ネパールはネパールでインドのヤバさとはちがった意味でヤバイ混乱の最中にあったのだが、無知だった私達は「ネパールならインドより大丈夫だろ!」という謎の安心感に押され勢いのまま行ってしまったのである。初めての海外なのにね。
そして現地で「いやぁ……今の時期によく来たね」と呆れられて詳しい話を聞いてから置かれている状況を理解した。
下調べ。大事。ほんとに。
海外で無駄にバスにマシンガンとか携帯している人が乗り込んでくる姿を見たくなかったらちゃんと調べようね!
ほんと大事だから! 下調べ!
とはいえ、どんな情勢であっても世界は回る。人は動くし生活している。
そんな情勢であっても逞しく働く人達により観光業は動いていた。
日本円はネパールルピーに変えると貧乏な若者の持てる金額であっても普通のツーリストとして楽しめるだけの価値に変化した。
万全とは言い難い貧乏旅ながらも最低限にきちんと安心して眠れ、美味しい物を食べて、十分に旅を楽しむ事が出来るだけの手持ちになったのだ。日本円。ありがとう!
一ヶ月には満たない旅行だったけれど、おかげでこのネパールという国を楽しむ事ができた。
さて少し話は横道にそれるが『ネパール』という国について名前を知っているという人は多いだろう。
だけれど何が有名かと問われて答えがパっと出てくる人は少ないと思う。
どうだろうか?
『ネパールは何が有名?』と聞かれて何か思い浮かぶだろうか?
実際に行ってきた私は『ネパールといえば?』と聞かれると『山』と答える。
アンナプルナ連邦と呼ばれる8,000メートル級の山々、そして世界最高峰のエベレスト。
相当運がよくないと山頂を見ることすら叶わない程の高山が連なっている国だ。
寺院や自然なんかも有名だけれど、やはり山。圧倒的に『山』が強い。
経済面ではネパールはアジア最貧国と言われていたりもするが、実際に行った者としては『貧しい』という印象はそんなに感じ無かった。
自然が豊かで昔ながらの生活をしている人が多い国。そんな印象を持っている。
昭和初期の日本の様な『襤褸を着てても心は錦』というか、物の豊かさはなくとも農業は営まれ食うに困るではなし、心の豊かさがあったように思う。それが心地よかった。
もちろん観光旅行客が行くような首都カトマンズなどの都会は外国人も多く混沌としていたし『日本人! リッチ! おかねおかね!』的な人も多かった。
観光しながら道を外れてゆけば目が虚ろなジャンキーがたむろしているような場所もあり発展途上国の都会にありがちな負の面も見た。
だが、それよりも圧倒的な自然の豊かさを感じた国だったという印象が強い。
泊まった安宿だと屋上のパイプを日光で温めてシャワーのお湯にしてたしな……ほんと自然は偉大だなぁ……夜になると水しかでなくて参ったけどさ……
さて、本題の初体験の話に戻るとしよう。
首都カトマンズはどこまでもゴミゴミとしていて騒がしく、その喧騒に嫌気がさしたので、観光する所はさっさと観光して『ポカラ』という湖の美しいリゾート地へ移動する事にした。
ポカラまでは200キロ程、飛行機かバスでの移動だ。
私達は安いのでバスを利用した。
この移動は初めて本当に『腹を括る』経験をしたのも忘れがたい。
なにせ山を削っただけのガードレールも無く地滑りが多発しているような「あぁ……これは落ちたら150%~2000%くらいの確率で死ぬな」という高さの舗装されてないボッコボコのガケ道をぐいぐいと大きなバスで進んで行くのだ。
道の途中では何台もバスやトラック、車が実際に落ちた痕跡もある。それに実際にがけ崩れにも出くわして渋滞も起きた。
乗ってしまった以上、もう運転手に命は預けたと腹を括った……いや括るしかなく、正確にはあの感情は『諦めた』なのだが、すっと全てに無感情になるような感覚は思い出深い。解放の安堵感は凄かったが、もう二度と味わいたくないスリルの一つだ。
そんなスリリングな移動を無事に終えると、見事な山と湖の街ポカラに辿りつく。
リゾート地らしく料理の種類も世界各国の料理の店が並んで豊富、美しく美味しい街。カトマンズと違って空気も綺麗。
そんな楽しい場所。
でも、数日だらだらと過ごしていれば飽きはくる。
そこで私達は刺激を求め、最高峰の山々から流れてくる川でラフティングをすることにした。
なにせ日本円にして当時約2000~3000円程のお金で一泊二日でみっちり体験できるというのだから、やらない訳がない。
しかもなんとシーズンが外れていたのか客は私と友人だけで楽しめるという。
このラフティングは本当に素晴らしかった。
日本の川とは全く違う川の表情、ダイナミックな川。
川下りをしていると一口に『自然』と言っても国によって認識する自然の形がまったく異なるのだと体験を通じてよくわかった。
日本で感じる『自然』には敬意を感じながらもどこか身近な感じがあったが、この国で感じた自然は『圧倒的に敵わない絶対的な存在』という印象だった。
そんな事を感じつつも「ヒャッフゥ!」とハイテンションで半日川を下り休憩ポイントにつく。
すると、先回りしていたクルーが川べりに食事やリラックスセットを整えてくれていて、まるでお手伝いさんや執事に囲まれて生活している人のような、なんともリッチな気分。
サラダやサンドイッチ、フルーツ。そして温かなコーヒー。気怠く疲れた体になんとも心地良い食事。
そして一休みして元気になったら、また川下りだ。
川の流れが穏やかな場所ではボートから飛び降りて泳いだりもした。
その際に川の水とか飲んじゃったけど、お腹が痛くなる事は無かった。かなりホっとした。
川を進んでゆくと、やがて山から流れてきた別の川と合流する地点に辿りつくが、そこではまったく色の違う川が境界を延々と作り出す神秘的な光景を産みだしていて感動した。二つの川の温度差にも心底ビビった。
様々な発見をしながら充実したその日のラフティングを終え、早めの夕ご飯を楽しみ、服を乾かしつつ設営されていたテントに潜りこむ。アウトドアを満喫している事に気分も上々だ。本当に楽しくテンションが下がらない。
ふと辺りを見回してみる。
やはり目につくのは、川。
そして遥かなる山。
自分が雄大な自然の一部になったような気がした。
耳をすますと、どことなく賑やかな声が聞こえてくる。
話を聞けば、どうやら近くに案内人たちが滞在する村があり、そこで村祭りが行われているらしい。
「祭りか……」と呟きながら祭りの解放感を思い出した時、夜の帳は降りはじめていた――
エキサイティングな一日の疲れから少しテントで休んでみると、ちょっとのつもりが大分時間が過ぎていた。
やはり身体を酷使した時のちょっとは油断ならない。
多少復活した体力を感じながらテントを這い出てみる。
聞こえてくるのは祭りの打楽器を鳴らす音。スピーカーからの音ではなく実際に打ち鳴らしている事が伝わってくる生の音。
そして打楽器で盛り上がっているのか開放的で楽しげな男女入り混じった声も聞こえてくる。
一つ伸びをすると、夜になったというのに不思議と暗くない。
それもそのはず、月明かりと星の明かりが見事に地上を照らしているのだ。
私は幻想的な空の光に照らされながら思った。
「うんこしたい」
と。
たくさん遊んで、たくさん食べたのだ。
それは出る物も出たがって当然。
案内人の人には、あらかじめ「トイレットペーパーを燃やしてくれれば適当にどっかですればいいよ」と言われていた。
そう。野グソ。
私は野グソをしなくてはならないのだ。
現代日本に生まれ野グソをしたことのある人は、どれくらいいるだろうか。
トイレという場所で便器にうんこをする。
これが当たり前として育った現代人に『野グソ』という行為はかなりのハードルの高さがある。
「野グソしていいよ」と言われて「分かった!」と答えるよりは「ええぇ……」という人の方が多いはず。
だがしかし、今いるのは公衆トイレなどの存在しない場所。
もしくはあったとしても相当やばい場所なことだろう。
ゆえに選択肢は野グソ一択なのだ。
人間の身体で、うんこを我慢し続けて良いことなどありはしない。
中学生の時に「学校でウンコをしてたまるか」という思いで必死に我慢し結果脂汗たらたら流しながら倒れそうになるまでに苦しんだ経験、我慢の結果があの拷問に近い苦しみに繋がる事を私はしっかりと理解している。
やるしかない。
レッツゴーワイルド!
腹を括り易くなっていた私は、早速川べりを歩く。
絶好のうんうんポイントを探して歩く。
比較的ゴロゴロとした石の多い場所の為、よく見れば見事に便器の台座のような形になっている所もちょいちょいあった。
うん。これは悪くない。何の手を加えずとも和式ではなく座って用を足す洋式でうんうんする事ができそうだ。
だがまだテントから近い。
せめてもう少し離れたい。
ちょっと歩きテントが見えなくなった頃、なんとも良さそうなポイントを発見。
ここが良いだろう。
「オゥシットっ!」
なんと先客の痕跡があった。
多分、別のツアーに参加していただろう近くにいたドイツ人の団体の誰かしらの物だろう。
シット! あろうことか物を直視してしまった。
めちゃくちゃ太くてでかかった。衝撃のインパクト一本グソだ。
良さそうなポイントと感じるのは世界共通らしい。くっそ。
頭を振ってすぐにその場を離れる。
どんなケツの穴してんだよという思いが頭に浮かぶ鬱々とした気持ちを抱えたまま進みながら、また別のポイントを探す。
そして見つけた。
恐る恐る、またさっきと同じように先客の存在がありはしないかと覗き込む。
クリーン。
クリーンな場所だった。
心底胸をなでおろす。
そして私はとうとうここで野生に帰る決心を固める。
ズボンとパンツを下ろしてケツの位置を調整。
ひやっとする石に肛門がキュっとなった。
レッツゴーワイルド。
膝に肘を置き、手を組み、そこに頭を乗せて一気に下腹部に力を籠める。
腹に余計な物が無くなってゆく。
圧倒的な解放感。
安堵と幸福を感じながら力みを緩めて顔を上げる。
その瞬間に私は時を忘れた。
目の前に流れる川。
その向こうには壁の様な切り立った山。
山際を超えると数えきる事などできないだろうと思える星々。
遠くから聞こえてくる祭りの音。
目の前の山の壁の向こうには、時々光が動いていく。あの山を削っただけの道路を車が移動しているのだろう。
その光がまた自然だけでなく、現代の人の営みとのコントラストを生み出している。
目に、そして耳に、身体に感じる全てが美しかった。
美しさに飲みこまれるような光景。
これまで色々な場所で見てきたなによりも美しいと思える光景だった。
本当に時を忘れた。
気が付けばケツが冷えて来て現実へと引き戻される。
私はそんな、いつまでもここに居たいと思える美しい光景の中、再度のレッツゴーワイルドに勤しむのだった。
これが私の忘れられない最高の初体験の話。
私の『初めて野グソした時の話』
正直すまんかった。
反省はしている。
後悔はちょっとしかしていない。