4話:放課後二人三脚
「だ、大丈夫!?」
階段の踊り場に倒れながら僕は、右耳にひんやりした床の感触を、
左耳に斉藤さんの声を感じていた。
「渡辺くん、大丈夫!?」
体を起こした僕の顔を、斉藤さんが心配して覗き込む。
初めて彼女に名前を呼ばれた、話しかけられた、それがこんなタイミングなんて。
恥ずかしい、死ぬほど恥ずかしい。この世界から消えたい。
恥ずかしさのあまり覚醒して、何かすごい能力で空間をバリバリ切り裂いて
別次元の隙間へそそくさと消えていきたい。
一瞬右手に力を込めながら「覚醒しろ!」と念じたが特に何も起きなかった。
恥ずかしさのあまり自分でも何をしているのか分からなくなってきた。
「ケガしてない!?」
斉藤さんの声で我に返った。
「あ、だ、大丈夫。いつものことだから……」
「いつものことなの!?」
「あ、いや……だ、大丈夫」
精一杯の平静さを装いながら内心の動揺がすさまじく、謎の強がりを見せる僕に、
斉藤さんはますます困惑の表情を見せ、その姿に申し訳なさが出てきた。
大して親しくない男子のクラスメイトが、突然「チッス」とクソダサムーブをかまし、
次の瞬間視界から消えて階段を転がり落ちていったのだ。
彼女にとっては意味不明のフルコースだろう。
印象に残りたいという当初の目的は図らずも達成できたかもしれないが、
こんな奇行で印象に残りたくはなかった。
ああもう、とにかく今はこの場から立ち去りたい。
「ほんと、大丈夫だから、うん……」
目を伏せたまま立ち上がり、服の汚れを払って歩き出そうとすると
「あっ!……」
右足首に鋭い痛みが走った。どうやら落ちた時にひねったようだ。
「危ない!」
痛みで僕の上体がガクンと体が前に傾いた瞬間、斉藤さんの左腕が、僕の体を受け止めた。
「ダメだよ! ケガしてる」
そう言われながら、痛みは一瞬どこかへ行っていた。
僕の胸に、抱えるように回された斉藤さんの腕。
そして、左半身にぴったりと密着した、体。
なんか分かんないけど、ものすごくいい匂い……。
体が触れ合うという単純な行為で、これほど絶大な幸せを感じることがあることを
僕は生まれて初めて知った。
ああ……。もうこのまま二人で固まりたい。このままの形で銅像になって、
美術館にでも展示されてしまいたい。
「ねえ、保健室行こう?」
至近距離から浴びせられたやさしい声は、一瞬で僕の脳を支配して、完全に思考力を奪った。
「あ、はい……」
気づいたらそう答えていた。
あんなに消え去りたかったのに、今はもう永遠にこの状況が続いてほしかった。
あんなに惨めなどん底にいたのに、今はもう、幸せの絶頂にいた。
「よしっ、じゃあ行こう!」
そう言うと、斉藤さんは右腕を僕の肩に回し、僕の左腕を自らの左肩へ担ぐように回した。
「あ、い、いいよ別に! だ、一人で、大丈夫……かも……」
女性に肩を貸してもらうという行為に、恥ずかしさから咄嗟に遠慮したものの、
すぐに密着している幸せが押し寄せてきたため、後半に迷いが出た形となった。
「ダメ!」
初めて聞く強い口調。斉藤さんは肩を組みながらこちらを向いてそう言ったので、
顔は至近距離で僕と向かい合う形になった。
「危ないよ。私、保健委員だし。それに、結構力持ちなんだ」
そう言いながら彼女はニコッと笑った。真剣な顔と笑った顔。真逆の、しかしどちらも天使のような表情を距離15㎝のアリーナ席から浴びせられて、
僕はもう自分が今どこにいるのかも分からなくなっていた。
ただ呆然としながら立ち上がり、言われるがままに肩を担がれながら歩き出した。
正気に返ったのは歩き出して数分が経った頃だった。
痛い。グネった足が痛いのだ。
女子にしては長身の斉藤さんは、僕よりもかなり背が高い。そのため彼女に左肩を担がれ、僕の体はやや右肩が下がるように傾いていた。左が浮いた分、右に体重がかかる。つまり痛めた方の足により荷重が来てしまうことになる。
一歩踏み出すたびに、痛みが電流のように走る。
そのたびに顔がゆがみ、そのうち「うっ」とか「ぐっ」とか声も出るようになってきた。
逆の方の肩を担いでもらえば痛みもだいぶ軽減されるだろうが、そんなことを言い出す気は起きなかった。
斉藤さんは、一生懸命だった。力持ちだとは言ったがやはり男子の体重を支えるのは大変らしく、顔を真っ赤にしながら汗をかいている。時折僕が苦痛に声を上げるたび
「痛いよね。もう少し頑張ってね」
「ごめんね。もう少しだからね。もう、少し……」
と励ましてくれた。その声は、疲れからか震えているようだった。
そんな彼女に「ごめん、痛めてるの右足だから、逆の肩かついでくれる?」
と言うのは、何だか図々しいような、水を差すような気がしたし、
そして何より、一途で懸命な彼女の優しさが、嬉しかった。
10分ほどかかって保健室に辿り着くと、保健の先生は捻挫との診断を下し、
応急処置としてテーピングをガッチリ巻いて固定してくれた。
「そういえば舞ちゃんさ、入って来た時、渡辺君の左肩を担いでたよね」
テーピングを巻き終えてひと段落した保健のももちゃん先生こと百鬼先生が、
思い出したように言った。この人は印象に残る苗字な上、保健委員で顔見知りの斉藤さんのことは下の名前で呼ぶという、モブキャラ(僕)からしたらうらやましい特徴を二つも持っていた。
「あ、はい。痛めてる足が外側に来るように」
「それね、松葉杖だと正解なんだけど、肩を貸すときは逆なのよ」
先生の話によると、一人で歩く場合は痛めた足と逆側の脇に松葉杖を差し込んだ方がバランスが取りやすく足への負担も少ないのだが、誰かに肩を借りて完全に体重を預けられる場合は痛めた足と同じ側を担いでもらい、患部を宙に浮かせるようにするのが正しいとのことだった。
「じゃ、じゃあ私ずっと…痛い方の足に負担をかけて……」
斉藤さんは、今にも泣きだしそうな顔をしていた。先生にとっては今後も同様のことが起きた場合に活かしてもらうためのアドバイスだった。話している雰囲気でそれは僕も分かった。しかし斉藤さんには、もはやその優しさをくみ取る余裕は見られなかった。
「ごめんなさい……私……」
そう言ったまま下を向いて立ち尽くす彼女は、さきほどクソダサムーブを披露した時の僕と同じくらい、もしかしたらそれより、世界から消えてしまいたがっているようだった。
だがその辛さは、彼女の責任感、そして優しさから来るものだということを僕は分かっていた。
「斉藤さん!」
意を決した僕の声に、斉藤さんが顔を上げる。
「ありゃ、ありがとう。一生懸命、支えてくれて、保健室まで、運んでくれて……。一人じゃここまで来られなかったし、肩のことも、僕のことを考えてくれてのことだし。その、本当に……う、嬉しかった」
まともに会話をするのは初めてだったため、緊張で一言目から噛んでしまったが、それでもがんばって、できる限りの感謝を伝えた。君の行為は優しさゆえのもので、僕は本当に助かった。誇ることはあっても謝るようなものでは決してないと、そう伝えたかった。
でも最後の「嬉しかった」は気持ち悪かったかな、言い方も気持ち悪かったし、余計だったな……。などと考えていると、
「そ、そうそう! 良いことしたんだから! ね? 気に病むことじゃないんだよ。
私の言い方も悪かったね。ごめんごめん!」
ももちゃん先生がすかさずフォローを入れてくれた。斉藤さんの表情は、少し和らいだように見えた。良かった。ホッとした僕の口から、気づいたら言葉が出ていた。
「優しいんだね。斉藤さんは」
先ほどの頑張って紡ぎ出した言葉と違い、自然と出た一言だった。
その言葉を聞いた瞬間、斉藤さんは、ハッとした顔を見せた。
それは、明らかに大きなショックを受けた表情だった。
「違う……」
再び下を向いて、彼女は絞り出すように言った。僕は、まだ彼女が罪悪感を抱いているのかと思い、もう一度
「いや、斉藤さんは優しいよ」
と言った。すると、一瞬の沈黙の後、彼女が叫んだ。
「違う!」
驚く僕とももちゃん先生を見て、斉藤さんはまたハッとした。今度は我に返った表情だった。
「ごめんなさい、私、もう行きます」
そう言うと斉藤さんは、すぐに振り向いて、走って保健室を出て行ってしまった。
遠ざかっていく足音を聞きながら僕は、夕焼けが床に作った自分の影を眺めて、ただ呆然としていた。