3話:チッスは突然に
僕と同じ平均的モブ人種だと思っていた彼女は、優しさという主人公クラスの特徴を持っていた。当初感じていた親近感はもうない。ないのだが僕はまだ、彼女の言動が気になってしまう。
同じクラスなので話す機会はある。と、思っていた。
ない。実際ない。席が近ければプリントの受け渡しなどで多少はあるだろうが
僕と彼女の席は縦に3列、横に4列という、まことに平凡かつ中途半端な離れ方をしており、自身のモブキャラ度を一層痛感するしかなかった。
別に席が離れていても挨拶や、ふとしたタイミングで話しかければいいじゃないか、
と思うような人は、ちょっと考えて欲しい。僕に言わせてもらえばそれはまったくの「オタク武術理論」だ。オタク武術理論とは、運動経験が皆無な人種が、同じような非体育会系の人間を相手に「これで頸椎殴れば一発だからね」と格闘技漫画で見た変な形の拳の握り方をしながらにやりと笑って語る夢物語である。もちろんそれが実践されたことは無く、また未来永劫ない。
それと同じように、女子に気軽に話しかけるなどという行為は僕にとって実行することが不可能に近いことだ。例えば朝「おはよう斉藤さん、1限ってなんだっけ」と言うことすらできない。毎回、すれ違うたび、かっこよく、爽やかに挨拶したいと思ってはいるのだが、
いざとなるとどうしてもできない。
まず「おはよう」これは無理だ。これまで一度も挨拶されたことのない男に突然おはようなんて声を掛けられたらきっと斉藤さんはこう言うだろう「え?あ…お、おはよう…」。
そしてクラスメイトの女子のもとへ駆けて行ってさらにこう言うのだ。「なんか突然渡辺君に挨拶されたんだけど…」。そしてクラスメイトは100%こう答える。「え、キモ!それはキモい!」100%だ。はい詰み。想像しただけで変な汗が出る。
登校途中に偶然会えば挨拶しても不自然ではないだろう、と思ったが僕はいつも校舎の正門から登校するのに対し、斉藤さんは自転車通学なので西門から。この二つのルートは交わらないのだ。だからといって僕が大回りをして西門から通学して斉藤さんと上手いこと顔を合わせ「あ、おはよう」などと言おうものなら、100%の確率で「え?あ…お、おはよう…」と言いその後はクラスメイトへの「今まで登校中見たことなかったのに突然現れたんだけど…」へと続くのだ。
と、なると一体どうすればいいのか。やはりあの方法しかないだろうと僕は思った。
そう、「いや別に声なんかかけたくねーし!興味ねーし!」と思い込むことだ。
このどう考えても現実逃避でしかない戦法は、徐々に効果を発揮してきた。
僕は斉藤さんを目で追ったり、話し声に聞き耳を立てたりするたびに
「いや別に興味ねーし!全然興味ねーし!」と心の中で唱え、別の人を見たり
別の人の話に聞き耳を立てることにした。
すると自分への刷り込みなのか、1週間経つ頃には若干彼女への興味が薄れてきたのだ。
斉藤さんを目で追ったり、会話に聞き耳を立てたりすることは少なくなった。
彼女は再びモブとしてクラスに溶け込み、僕もまた一人のモブとして授業を受け、
弁当を食べて家に帰った。ああ、きっとこんな日々がずっと続くんだろう、レールの上を走るような毎日が。そう思っていた。あの日までは。
その日の天気は覚えていない。そう、天気なんて、全く記憶に残っていない。
ほとんどの記憶がおぼろげだ。あの出来事以外は。
放課後のことだった。僕はその日、少し遅くまで残っていた。確か鈴木が貸してくれた漫画を読んでいたとか、アプリのゲームをやっていたとか、とにかく大した理由じゃない。
帰ろうと廊下を歩いていて、下りの階段に差し掛かった時だった。
その先の曲がり角から、君が姿を現した。
横顔が曲がり角で正面に向き、その眼が僕の視線と重なった時
ダムが決壊したみたいに、一気にダイナマイトでぶっ飛ばされたみたいに、
君が好きな気持ちがあふれて来た。
斉藤さん君は、何てきれいなんだ。比喩でなく、君の周りだけは、光っているみたいだ。
もう無視なんてできない。こんな存在が目の前にいて、知らないふりはできやしない。
気持ちは、薄れていたんじゃない、ため込んでいただけだった。
好きだ、好きだ。もはやごまかしようがなく、完全に絶対に、
本気と書いて一周まわって「ほんき」と読むほどに、
僕は斉藤さんのことが好きなのだ。
彼女はこちらへ歩いてくる。硬直した僕を、不思議そうに見ている。
どうすればいい、何て言えば、何をすれば君に…。
好かれなくていい、話せなくてもいい、ただ僕の存在を記憶のどこかに置いておいてくれるだけでいい。君の世界に、ちょっとだけでも僕を入れてほしい。
さりげなく、一言で、でも印象的で、できればちょっとかっこいい感じで
君の記憶に刻まれたい。そんな行動が、言葉があるだろうか。
僕の脳はフル回転を始めた。0・数秒の間におびただしい情報が電気信号となってニューロンやらシナプスやらを行き交い、そのうち幼稚園や小学校の頃の記憶が出て来た。
本来、死ぬ寸前に見えるやつがこんなとこで出てくるのか~。
と思っているうちにも時間は過ぎている。とにかく何かしなければ!焦りと混乱、
そして恋する気持ちが混然一体となり、僕は遂に言葉を絞り出した。
「チ…チッス」
指を閉じたチョキみたいな形にして額の端に当て、ピッ、と離しながら「チッス」
……
僕は自分を憎んだ。自分の人生で最も憎んだ人物が、まさか自分になるとは思っていなかった。なにゆえこんな言葉を選んだのか、自分でも分からない。ただ分かるのは、
「チッス」という言葉は、これ以上の不正解はないくらいダサいということ。
「ダサ史」の授業があったら最初のページの年表に載るくらい革命的なダサさだということだ。
斉藤さんは、ポカンとしていた。
ああ…終わった。すべてが終わったのだ。
もうこの先の人生で、これ以上ダサい瞬間はない。絶対に。
そう思った瞬間、視界がガクンと下へずれた。
僕は階段を踏み外してすっころんだ。
さっきよりダサい瞬間が、その0.2秒後にやってきた。