幼馴染の詩音
俺には女の幼馴染がいた。
名前は詩音。
生まれつき身体が弱い幼馴染だった。
俺の名前を海音と知った時にはすでに詩音は隣にいた。
同じ日に生まれた俺達は当たり前のようにずっと隣にいた。
活発で体を動かすことが好きだった俺。
身体が弱く、内気な性格の詩音。
正反対の俺達だったが、両親同士が親しかったことと家がすぐ近くにあるということで毎日のように遊んでいた。
本を読んだり、ぬいぐるみで遊ぶのが好きな詩音。
そんな詩音を俺は無理やり外に連れ出していた。
田舎だったので周りに他に友達がいなかったのだ。
外には遊ぶ場所が沢山ある。
山での冒険、川での水遊び、釣り、秘密基地を作ったりもした。
だが、一人で遊ぶのはつまらないためその遊びをするたびに詩音を連れ出した。
そのたびに詩音は何度も怪我をし、熱を出した。
そして俺は何度も怒られた。
怒られたけど、なんとしても詩音と遊びたかったのだ。
山での冒険はダメだったけど、川遊びは良いだろう。
風邪を引いてしまった。
じゃあ、釣りなら動かないから大丈夫だろう。
日射病みたいになってしまった。
秘密基地を作ってるのをそばにいてもらおう。
蜂に刺されてしまった。
そんなことがあり、俺が小学校三年になるころには詩音と遊ぶことを諦めていた。
かわりというわけではないが、俺は二つ上のお兄ちゃん達と遊ぶようになっていた。
詩音はその間一人で遊んでいたと思う。
内気な性格なため女の子のグループに入れないでいたような気がした。
いや、違う。
ずっと俺と遊んでいたためグループに入る機会を無くしていたのだ。
詩音を一人にしてしまったのは俺だ。
だが、当時の俺は詩音のことなど気にもせずにお兄ちゃん達が教えてくれる遊びで目を輝かせていた。
今となっては悔むに悔めない。
詩音に変化が起きたのは五年生に上がるときだった。
五年生に上がる初日、詩音は学校を休んだ。
その次の日も休んだ。
その次も、そのまた次も、そのまた次の次も詩音は休んだ。
詩音は引きこもりになってしまった。
最初の休んだ日は体調を崩してのものだった。
しかし、体調が良くなっても詩音は学校に行きたがらなかったらしい。
学校はつまらない。
家にいて本を読んでいた方が楽しい。
勉強は家でも出来る。
家の方が静か。
学校の世界よりも本の世界の方が楽しい。
後から詩音に聞いたその時の感情だ。
俺が詩音のことをもっと構っていたのなら引きこもりにはならなかったのだろうか。
詩音が引きこもって二回目の正月が終わろうとしていた。
少しだけ青年に成長した俺は詩音を中学校に誘おうと詩音の家へ訪れた。
「……なんで?」
それが詩音の答えだった。
俺はありきたりな「楽しいから」という言葉を口走った。
何も考えず出た言葉。
今の俺だったら少し考えて何も言えなくなっただろう。
だが、当時の俺は相手の感情ではなく、俺が感じている感情を正しいと思っていたのだ。
「……楽しい? 学校が楽しい? 笑わせないで。あんな上辺だけの関係を楽しいって思えるの?」
「上辺?」
「ふざけることでしか楽しめず、真剣な会話を出来ない関係ってことよ。あんなの友達じゃない。ただ同じ学校に通ってるだけの赤の他人よ」
「…………」
詩音は引きこもっている間に俺の知らない詩音になっていた。
本の影響なのか、第二次成長期での脳の発達だったのかわからないが、内気で感情を言えなかった詩音はどこにもいなかった。
俺の後ろで怯えている詩音はいない。
ちょっと優しくするとすぐ笑う詩音はいない。
怖いことや怪我をするとすぐに泣きだす詩音はいない。
そこには他人を拒絶し、固い殻にこもった無表情な俺の知らない詩音がいた。
俺が作り出してしまった詩音だったのかもしれない。
「でも、中学には行く。小学校はともかく、中学で引きこもりは高校に行くのに厳しくなるし」
「じゃあ、三学期からでも来ればいいじゃん!」
「……海音、貴方私の話聞いてたの? 小学校は別にどうでも良いの」
「今のクラスの奴も皆同じ中学に行くんだぞ? 気まずくならないのか?」
同級生が数人しかいないほどの田舎だ。
行く中学などほぼ決まっていたようなものだった。
「……別に」
「そうかよ」
それだけ言うと俺は逃げるように詩音の部屋から飛びだした。
「あら、もう帰るの?」
帰ろうと玄関の所で靴を履こうとした時、詩音の母親がお菓子とジュースを持って台所から出てきた。
コップが二個あったので、部屋に持ってこようとしたのだろう。
「……詩音に何か言われたのね」
「…………」
「あの子は成長……いいえ、変わってしまったわよね。ねぇ、海音君、少しおばちゃんとお話しない?」
「え、でも……」
「ほら、お菓子もあるから」
「……はい」
子供とは現金なものである。
「詩音、嫌な子になったでしょ」
「……いえ」
「正直に言っていいのよ」
「……はい」
「ふふ、素直な子は好きよ。大丈夫、詩音には言わないわ」
「……」
「詩音、背大きくなったでしょ。女の子は男の子よりも早く成長するものなの。考え方もね」
「はぁ……」
「でも、あの子は成長しすぎちゃったみたい。時々私でも驚くぐらいのことを言うわ。高校生と話してるのかと思うぐらいにね」
「そう、なんですか……」
そんな話をしているというのに、俺の手はお菓子へと伸びていた。
子供に食欲を抑えろというのは無理な話である。
詩音は天才というわけではない。
ただ、物事を考えることに長けていた。
いや、他の者より成長が早かっただけだろう。
お菓子を頬張る俺を詩音の母親は我が子のように笑顔で見ていたのを覚えている。
「詩音が変わり出したのは五年生の夏。引きこもってから数か月後くらいね」
それから詩音の母親は詩音が変わっていく様子を話してくれた。
だんだん話すようになっていくかわりに笑顔が無くなっていったこと。
笑顔の次に他の表情も無くなっていったこと。
家族の私達にすら一線を置いているようになったこと。
心ここに在らずといった表情になること。
「詩音は何か大きな目標を持ったのかもしれないわ。六年に上がる頃には毎週のように図書館に行ってたの」
「……勉強?」
「さぁ……教えてくれないからそれはわからないけど……」
「……」
「海音君、詩音はもう貴方が知ってる詩音じゃないと思うの。でも、だからといって詩音との接し方は変えないでほしいの」
「……」
俺はこの時「うん」とは言えなかった。
そんなの無理だと思ったからだ。
内気で優しくていつも俺の後ろにくっついていた詩音と、無表情で何を考えているのかわからない今の詩音では別人だ。
そんなにも人が違うのに同じ接し方など出来ないと思ったのだ。
「……そうよね。難しいわよね」
「…………」
「これは詩音が蒔いた種だわ。変わってしまった詩音が変わらなければ周りも変わらないものね……」
「詩音は……詩音は前のような詩音に戻らないんですか」
「ふふ、海音君は前の詩音の方が好きだったのかなー?」
「いや、ちがっ!」
「あんなに海音君にべったりしてたんですものねー。大きくなったら海音君と結婚するんじゃないかなぁって思ってたわ」
「……っ!」
俺はその時、恥ずかしくて何も言えず目の前のオレンジジュースの入ったコップについている水滴を見ていたのを鮮明に覚えている。
赤くなっているだろう顏では詩音の母親の顏など見れるはずもなかった。
「ごめんごめん、そんな顏しないで」
「……むー」
俺は、笑っている詩音の母親を少し睨みながらジュースを一気飲みした。
照れ隠しだった。
そんな行動すらも詩音の母親は笑ってみていた。
何もかも見透かされているかのようだ。
「詩音を嫌いになってしまったのなら仕方ないのかしらねぇ。例えそれが同じ日に生まれ、今までずっとべったりくっついていた幼馴染だったとしてもそうよねぇ」
「…………」
今となって考えればその言い方はずるかったのではないだろうか。
あんなに仲が良かったのに嫌いになっちゃうの?
と言われているのと同じではないか。
当時の俺はその言葉を聞いて、詩音との思い出を思い出していた。
後ろを振り返れば必死についてくる詩音。
すぐ疲れたと言い、寝てしまう詩音。
何も言わずついて来てくれる詩音。
俺の顏を見ては笑う詩音。
兄妹と同じように育った二人。
両方の家に交互に泊まったりもした。
二人で同じ布団で寝たりもしていた。
「…………」
俺はそんなことを思い出していた。
嫌いになる?
目も合わせない関係になる?
そんなことは考えなくとも決まっていた。
「まだ……」
「んー?」
「まだわかんない」
だが、俺はそんなこと口では言えなかった。
「うん、そっか」
笑顔で詩音の母親はそう言った。
照れくさくて本当のことを言えないことすらも見透かされているような笑顔だった。
数か月後、まだ雪が残る寒い春に俺達は中学に上がった。
詩音は言った通り、中学に登校してきた。
体調を崩して休む日もあったが、小学校に比べればマシだった。
クラスで浮いてしまうのではと思ったが、そんなことにはならなかった。
同じ小学校から行ったクラスメイトは数人。
他は違う小学校から来た者達だった。
そんな者達に詩音は区別なく接していた。
詩音は人付き合いがうまかったのだ。
だが、それは表面上だけの付き合いだった。
いじめの対象にならないように適当に話を合わせ付き合う。
誰にも心を開かず、感情的ではなく理論的に物事を話していた。
詩音は飛びぬけて勉強ができるというわけでもなかったが、国語だけは良い成績を取っていた。
運動は小さい頃から苦手だったため、良くはない。
むしろ悪い方だった。
身体が弱く、運動が苦手で、一つ得意な科目がある。
それが中学校時代の詩音だ。
どこにでもいる女の子だった。
俺はそんな詩音を目線の端で追っていた。
話す機会はあった。
だが、詩音は他のクラスメイトと同じように俺と接した。
それが耐えられず自ら話すことはなく、目で追うだけになっていた。
教室での授業中、掃除の時間、体育の時間、どんな時でも俺は詩音を目で追っていた。
その時にはすでに俺は詩音のことが好きになっていたのだろう。
だが、当時の俺はこれが恋なのだと気付いてはいなかった。
中学二年のある冬、詩音は体調を崩し学校を休んだ。
詩音が休んだ日は、決まって俺がプリントと給食のパンを詩音の家に届けることになっていた。
俺が進んで届けているのではない。
ただ、休んだ生徒の近くの生徒が届けるようになっていただけである。
「あら、海音君。いつも悪いわね」
「いえ。これ、プリントと給食のパンです」
「ありがとう。……んー」
「? ……どうかしました?」
「……うーん、直接渡してもらって良いかしら?」
「え?」
「最近ぼーっとしてるような気がしてね。少し驚かしてあげようと思って」
「は、はぁ……」
「じゃあ、部屋までお願いね」
「まぁ、良いですけど……」
「あ、海音君」
「はい?」
「もし寝てても悪戯しちゃダメだからね?」
「しませんよ!!」
詩音の母親から逃げるように部屋へと向かった。
そんなことを言われたら気にしない方がおかしい。
大人とはいつも青年をからかってくる。
子供の敵だ。
「詩音」
「…………」
「おい、詩音?」
何度かノックをし、待ってみたが一向に返事がない。
「は、入るぞー……」
おそるおそる入った詩音の部屋は、カーテンを締め切っており薄暗かった。
微かに寝息が聞こえる。
案の定寝ているようだ。
俺は詩音が起きないように足音をひそめながらプリントを近くのテーブルの上に置いた。
起きれば気づくだろう。
ちらっと見えた詩音の寝顔は安らかで体調は大丈夫そうに見えた。
「……にしても変わらない部屋だな」
詩音の部屋は小学校の頃と変わっていなかった。
教科書や、本などは増えていたが使っている家具、配置は全くと言っていいほど変わっていない。
今思えば、部屋が全く変わっていなかったのは詩音の心が小学校の頃から変わっていないという表れだったのかもしれない。
「ん? 作文……いや、原稿か?」
詩音が長い間使っている机の上には作文に使われる紙が何枚も重なっていた。
「何か書いてるのか?」
薄暗くうまく読めないが、何か書かれているようだった。
「……んん……お母さん?」
「!?」
「机の物に触らないでって…………か、海音?」
「お、おう、寝顔可愛かったぞ」
今考えてもこのセリフはどう考えても間違っていると思う。
「…………なんで私の部屋にいるの? なに夜這い? 私の身体が目当て?」
「ちげぇよ!!! プリント渡しに来ただけだ!」
「プリント? なんで海音が私の部屋まで来るのよ。いつもお母さんに渡してるでしょ」
「渡してくれって言われたんだよ」
「ふーん……って、あんたそれ見たの!?」
詩音は俺が持っていた原稿を見て慌てた様子でベッドから飛び出た。
そして、運動音痴とは思えない速度で俺の手から原稿を奪い取った。
「……どのくらい読んだ?」
「え、あ、いや、何か書いてあるってのはわかったけど、内容までは……」
「…………そう」
そういうと詩音はクシャと原稿を胸に当て、動かなくなった。
「…………」
気まずい。
この間が凄く気まずい。
「…………て……い……」
「え?」
微かに聞こえた声は俺に届くころには言葉としての役割をはたしていなかった。
かすれたその声はうまく聞き取れない。
「……出て行ってって言ってるの!!!」
「はいぃ! すみませんでしたっ!!」
そこからは逃げるように詩音の家を飛び出たのは言うまでもない。
詩音の家では誰かから逃げていることが多い気がする。
翌日、詩音は普通に登校してきた。
会話する機会はあったが、昨日のことは何も無かったように接してくる。
…………いや、表面上での付き合いでしか対応してくれないのだから、それも仕方ないのかもしれない。
それから約一年後、俺達は何事もなく中学校を卒業した。
俺達は同じ高校に入学し、また同じクラスになった。
俺の学力では少し厳しかったが、親が最低限と決める高校だったので仕方なく勉強した。
詩音はもう少し上の学校でも行けるような成績だったが、同じ高校になった。
当時は家から近いからその高校にしたのだろうと思っていた。
当時の俺よ、いくら鈍感でも気づけ。
事件が起きたのはそれから数か月後。
夏が終わり、秋の香りがし始めた時期だった。
「……っ!」
詩音のノートの一部が黒板に貼りつけられていた。
張り付けられていたノートにはある物語が書かれていた。
メルヘンチックな物語。
不思議な森で少女が迷い、そこで言葉を話す動物達が出てくる物語だ。
俺は実際にその様子と貼られていたノートの内容を見ていなかったので、それは友達から聞いた話だ。
この事を聞いたとき、中学二年の冬に詩音が隠しがっていた原稿には物語が書かれていたのだと理解した。
詩音は小説を書いていたのだ。
詩音はその日、早退をした。
無理もない。
詩音がどう思ったかはわからないが、とても恥ずかしかったのだろうとは想像できた。
それから詩音はまた学校に来なくなった。
また小学校の頃のように引きこもるのだろうか。
俺はそんなことを考えていた。
しかし、ここは高校だ。
引きこもれば単位が足りず、留年してしまう。
それはまずい。
本人もわかっているだろう。
俺より理解しているのだろうけど、来れないのだろう。
そう思い、詩音が来なくなってから三日後、俺は詩音の家に行くことにした。
「あーあ、不覚だったー」
だが、意外にも普通に元気だった。
「あ、あれ? 恥ずかしくて学校に来れないとかじゃないのか?」
「恥ずかしいわよ。初めて挑戦するジャンルだったし」
「んん?」
「ここまで知られたから言っておくけど、私小説家になろうと思うの」
「小説家?」
「そう、それで色々書いてたのよ。ミステリー、冒険、異世界、ライトノベル、恋愛、それにこの前のメルヘン」
「とういうことは、あれは試しに書いてみたってことなのか?」
「そうよ。一通り書いてみてライトノベル、恋愛、メルヘンは合ってないってわかったから良かったわ」
「そう、なのか」
「えぇ。……はぁ、でも見られるのはともかく、まさかあんなふうに貼られるとは思わなかったわ」
「すまん、俺が最初に気付いていたら……」
「何? かばってくれるの? でも、そうしたらそれで変な噂が立つんじゃない?」
「うっ……でも、何かするよ! 幼馴染なんだからさ!」
「…………そう」
「う、うん……」
やはりこの間がなんとも気まずい。
「……あ……がと」
「え?」
「……ありがとうって言ったの」
「え、あ、お、おう」
「明日からは行くわ。心配しないで」
「おう! 何かあれば俺に言ってくれ!」
「…………うん」
この日、少しだけ広がっていた二人の間が狭まった気がした。
次の日、詩音は学校に来た。
詩音が来ると同時に詩音の周りに黒板に詩音のノートの一部を貼っただろう者達が集まっていた。
いつもあんなの書いてるの?
ねぇ、他にもあるなら見せてよ。
読んであげるから見せてよ。
ここまで聞いて、気づいたらそいつらを殴っていた。
全員の顏に一発ずつ。
俺は二週間の休学。
そいつらは口の中を切ったり、青あざが出来るなどの怪我をした。
後悔も反省もしていない。
いや、後悔は少ししている。
体格が良い事も災いして俺に危険な奴というレッテルが貼られ、詩音と付き合っているという噂になった。
俺は数人の友達しかできず、詩音には誰も近寄らなくなった。
友達が少しでも残った俺は良いとして、一人になってしまった詩音には申し訳なく思った。
そんな俺に詩音は、友達ごっこするより良いという言葉をかけてくれた。
それが本心だったのかはわからない。
だが、嘘だったとしても俺には救いの言葉だった。
その事件が高校生活での唯一の出来事だった。
俺にはほとんど誰も近づかず、詩音にも誰も近づかない。
平凡すぎて思い出が無いほどだ。
ただ、詩音は何回か自分が執筆した作品を小説のイベントや、出版社に応募していたらしい。
結果は出版には至らなかった。
最初は選考落ち。
次も選考落ち。
何回か応募してみたが、最終選考まで残ったのが一回きりだった。
それでも十分凄いと思うが、当の本人は悔しそうにしていたのを覚えている。
そんな何もない高校生を卒業した俺達は別々の道へと進んだ。
俺は車の免許を取り、地元の運送会社へ就職した。
詩音は少し離れた文系の大学に進学した。
運送業は毎日が忙しく、休みの土日のほとんどを睡眠に当てていた。
そんな日々が続き、詩音とはほとんど連絡を取らないことが続いた。
詩音は一人暮らしを始めていたので気楽に会えないし、それに気力も体力も無かった。
自分のことで精一杯だったのだ。
運送業を初めて一年と少しが経とうとしていた。
仕事にも慣れ、ある程度の余裕も出てきた。
実家からの勤務だったため、お金もある程度貯まる。
収入はそこまで多くなかったが、特に欲しい物もなく貯金をしていた。
今思えば使わなくて本当に良かったと思っている。
それからちょくちょく詩音とは連絡を取っていた。
また最終選考で落ちたとか、次は出版社を変えてみるとか、ほとんど小説のことに関してだった。
それ以外といえば、告白されたとか少し焦るようなものだった。
断ったと聞くたびにホッとしていたのを覚えている。
詩音の小説を読んだこともあった。
ミステリー、冒険物、ホラー、SFなどと詩音が書くジャンルは様々だった。
感想を求められたが、肉体派だった俺は小説等という読み物には縁遠い存在だったので、良かった、面白かったなどと抽象的な意見しか言えなかった。
だが、そんな意見でも詩音は文句ひとつ言わなかった。
小説のことを話している詩音は活き活きとしており、真剣な眼差しをしている。
そんな彼女を、俺は嬉しそうに見ていたと思う。
俺にしか見せない表情、束縛してしまいたい気持ちが俺の中に積み重なっていく。
もう完全に好きになっていた。
いや、好きになっていると気付いていた。
だが、詩音は小説のことで頭がいっぱいのように見えた。
俺のことなど眼中にないのだろう。
そんなことを感じていたので俺は告白などできなかった。
俺の一方的な感情で小説家になるという夢を邪魔したくなかったのだ。
それから数か月後、事件が起きた。
九月二十四日、詩音が交通事故にあった。
横断歩道を渡っている詩音のところに車が突っ込んだのだ。
運転手は飲酒をしており、泥酔状態だったという。
詩音は背骨、左腕、左足の骨を折るという重傷を負った。
命に別状はない。
ただ……
「……もう歩けないってさ」
「…………生きていただけでも俺は良かったと思ってるよ」
詩音は背骨を骨折したことで、脊髄を傷つけてしまい下半身が麻痺してしまった。
治る見込みはない。
詩音の身体は一生このままだ。
「…………はぁ……学校は行けない。就職も出来ない。私どうすればいいの?」
「…………それじゃぁ……」
「……なに?」
その時俺は、俺の嫁さんになってくれと言いそうになった。
しかし、それは弱みに付け込むことなんじゃないかと喉の辺りで言葉を抑え込んだ。
「い、いや、なんでもない。ゆっくり休んで早く怪我を治してくれよ」
「治して何になるの? 歩けもしないのに何が出来るって言うの?」
「……大好きな小説は書けるだろ?」
「…………そう、ね」
詩音はこの時どんな表情をしていたのだろうか。
悲しそう?
嬉しそう?
無表情?
うつむいていたのでわからないし、口調もいつも通りだった。
詩音はどんなことを考えていたのだろうか。
「じゃ、俺は行くが早めに寝るんだぞ」
「なに? なんか上から目線」
「まぁ、上からっていっちゃ上からだが……こういう時は甘えろ。お前は怪我人だ。そして俺は幼馴染。遠慮なんかすんな」
「え、あ、うん…………わかった」
「おう、それじゃ明日また来るよ」
「仕事は?」
「仕事終わったらだ。今はそこまで忙しくないからな」
「……毎日来る気?」
「暇だろ?」
「……ん、まぁ」
「んじゃ、また明日な」
「うん」
俺は詩音の身体を心配していた。
だが、時がたつにつれて詩音に毎日会えることが楽しみになっていた。
本人の気もしらないで一人で舞い上がっていたのだ。
「詩音、土産持ってきたぞー」
「…………」
「詩音? どうした?」
「……海音、私といて楽しい?」
「……え?」
詩音が入院してから数日が過ぎた頃だった。
詩音の様子が少し変だった。
怪我をしても前と変わらなかった詩音だったが、この時は部屋に入った瞬間に様子がおかしいことに気づいた。
魂が抜けたかのような瞳をしている。
「楽しい……とは言えないだろうな。でも、一緒にいると落ち着くよ」
「……それは幼馴染だから気をつかわなくてもいいってこと?」
「そう……かもしれないな。でも詩音だからだ。他でもない詩音だからだ」
「…………そう」
そう言ってから詩音は外の景色を見だした。
とは言っても外は真っ暗だ。
微かな明かり程度しか見えない。
詩音はいったい何を見ているのだろうか。
「……海音」
「ん?」
「私、癌だってさ」
「………………は?」
唐突に切り出された話題。
俺がそれを理解するのには少し時間が必要だった。
「今日、精密検査をしたの。そしたら、子宮と大腸に大きな癌があるんだって」
「お、おい、ちょっと待て」
「他にもいろんな所に転移してて、もう助からないって」
「…………っ」
「私、ね」
外の向いていた詩音がこちらを向いた。
「もうすぐ死ぬんだ」
その目からは涙が流れていた。
「――っ!」
何かを考える前に俺は詩音を抱きしめていた。
「諦めんなよ! まだ何か方法があるかもしれないだろ!」
「……たぶんないよ」
「諦めんなよ!!!」
「……全ての摘出は無理。転移しちゃってるからまた違う臓器で大きくなる。後は薬で進行を遅くする程度。でも、その薬で癌細胞が全身に転移することもある。今の私の場合、免疫力を高めて自己回復能力に期待して、癌と共に生きていくことくらいしか道はないの。……でも、ケガをしてもう歩くこともできない。おまけに末期癌。そんな状況で何に希望を見出せと言うの?」
「弱気になるなよ! 少しでも可能性があるならそれにチャレンジしてみろよ!」
「勝手なこと言わないで!!! 私がどんな思いなのかも知らないくせに!!!」
詩音は動く右腕で俺の胸を叩いた。
だがそれはとても弱弱しく、俺を突き飛ばすどころか少し動かすほどの力もなかった。
「あぁ、知らねぇよ! だがな! 詩音も俺のことなんて何も知らねぇじゃねぇか!」
「……は?」
「俺がなんでこうして来てるかも知らないだろ! 幼馴染だからってだけで毎日来ねぇよ!」
「え、ちょ、海音」
「とっくの昔に好きになっちまったんだよ! 仕方ねぇだろ! 気づけば勝手に目で追ってるし、暇さえあればお前のことを思っちまう! だから!!……だから」
「…………」
「だから、頼むから……生きてくれ……」
気づけば号泣していた。
今まで積み上げては押しつぶしてきた感情が内からこみあげてくる。
自分ではもう抑えが利かなかった。
もう理性などない。
こみあげてくる感情の全てを目からあふれ出る涙へと変えていた。
「……ずるい」
「……ずずっ……なにが!」
「なんで、なんで今そんなこと言うの……ずるいよ。私、もう諦めてたのに……なんで今になって!」
「あぁ!? 何がだよ!」
「私は小学校から好きだったの! でも、海音が遊んでくれなくなったから諦めたんじゃない! 高校の時に助けてくれた時も幼馴染だからって自分に言い聞かせて! どうして今になってそういうこと言うのよ!」
「お前が死ぬとか言うからだろ!!」
「もう……もう、やだ…………海音のばかぁ……」
詩音の目には大粒の涙が次々とあふれ出ていた。
それは頬を伝い、詩音の服へと落ちていく。
止まらない涙はこれまで貯めこんできた詩音の感情そのものだった。
泣き虫な詩音が戻ってきた。
「私…………私、死にたくない……海音と一緒に生きたい」
「なら癌なんかに負けんなよ! 怪我を治して癌も治す! わかったか!!」
「わかった、わかったからそんな強く言わないでよぉ……」
泣き虫な詩音を見てまた俺は号泣した。
二人でわんわんと声を上げて泣き続けた。
泣きながら今まで溜めてきた感情を二人で吐きだし、さらに泣く。
泣いて泣いて笑顔に変わるまで泣いていた。
二人の溝などもうどこにもない。
生まれる時から一本だった道が二つに分かれ、時々ぶつかったりしていた道は一本へと戻った。
それからの詩音はよく食べ、時間さえあれば小説を書き、良く寝ていた。
骨折の怪我も順調に回復し、以前の詩音よりも健康のように見えた。
つい最近癌だと知った患者とは思えないほどに前向きで、誰よりも強く生きようとしている。
「ねぇ、海音」
「ん?」
「んっ」
「あぁ」
「んふー……」
言葉では言わないが、手をこちらに向ける動作は抱きしめてという要求だった。
詩音は急に甘えん坊になった。
甘えろとは言った。
確かに言った。
言ったが……この甘え方は卑怯だ。
どんどん詩音を好きになっていく。
「あーん」
「えっ」
「あーん!」
「はいはい、わかったよ」
「ん、美味し」
数日でバカップルが誕生していた。
看護師の間ではさぞ話題になっているだろう。
怒鳴り声が聞えたと思ったら長時間の号泣。
それが終わったら笑い声。
加えてバカップルだ。
噂にならない方がおかしい。
「そうだ、これ新しく書いたやつなんだけど、ちょっと読んでみてよ」
「あまりしっかりした感想は言えないぞ?」
「良いから良いから」
「それで良いなら読むけど」
それは詩音が苦手と言っていた恋愛物のストーリーだった。
物語の主人公は小さい頃によく遊んだ男女。
男の子の方は小学校に上がる前に引っ越してしまう。
引越しをする際にまた会おうと約束し、自分の一番大切な物を交換した。
それから少しして主人公の女の子の両親が離婚してしまう。
高校生になるまで女の子は母親と二人で暮らしていた。
しかし、高校生になる寸前で母親の唐突の再婚。
再婚相手にも息子がおり、同い年であった。
その息子こそが小さい頃に遊んだ男の子だ。
それから屋根一つ下の生活が始まり、最終的にはくっ付いて幸せになるというものだった。
「なんか……あれだな」
「どれ?」
「大人の恋愛というか、若者が好きそうな恋愛ものだな」
「まぁ、主人公たち高校生だし」
「それもそうか」
「で、感想はそれだけ?」
「んー……この男の性格どうにかならんか? 結構生意気だぞ?」
「それは照れ隠しよ」
「そうなのか?」
「そうなの」
「そうなのか。まぁ、男の俺が普通に読めたんだから良いんじゃないか?」
「えー、男女共にいけると思ったんだけどなー」
「男で恋愛ものが好きな奴ってそんなにいるのか?」
「んー……あんまりいないかも」
「なら良いんじゃないか?」
「それもそうか。よし、じゃあ文章見直してそういう出版社に応募してみようかな」
「今度は本に出来るといいな」
「うん!」
「後これ、この前のやつだけど文章直してみた」
「おいおい、まだあるのか……まぁいくらでも付き合うけどさ」
「当然!」
詩音の笑顔。
小学校の頃はよく見る表情だった。
しかし、中学、高校は全く見なかった。
無表情で面白くない奴。
それが中学、高校の奴らのイメージだろう。
だが、ケガをしてからの数日で詩音は劇的に変わった。
感情を素直に顏に出すようになり、行動でも示すようになっていた。
中学、高校の時の奴らがみたらさぞ驚くことだろう。
詩音が入院してからの日々は幸せだった。
毎日がデートのようで、仕事終わりからの短い時間だが一緒に住んでいるかのようにも思えた。
俺は幸せだった。
彼女と一緒の時間を過ごしている。
それだけで幸せだった。
嬉しいことは更に続いた。
「海音! 癌が少し小さくなったって!」
「本当か!?」
「まだまだ大きいけど、確実に小さくなってるってさ!」
「やったじゃないか! この調子なら癌なんか関係なく生活できるかもな!」
「うん!」
本当によく笑うようになった。
看護師さんに癌患者にしては珍しいと言われたほどだ。
「私、頑張ったから……んっ!」
「はいはい、本当に甘えん坊さんだ」
「んふー……」
癌が小さくなったと言われたこの日。
この日が楽しかった日々の最後の日だった。
次の日、詩音の容体が悪化した。
激しい腹痛で夜も眠れず、嘔吐を繰り返した。
咳をし始め、血の混ざった痰が出るようになった。
あれだけあった食欲も無くし、少し食べるたびに吐き戻してしまうようになってしまっていた。
大腸癌特有の症状が出始めてしまったのだ。
小さくなり始めてたのになんで今となってと思った。
しかし、詩音は末期癌と診断されるほどに癌に蝕まれている。
今まで症状が出なかった方がおかしかったのだ。
健康的に見えた詩音は徐々に痩せ、血の気のない顔になった。
腕、足は折れてしまうのではないかと心配してしまうほど細くなった。
あれだけ書いていた小説にも手が付けられず、一日の大半を寝て過ごすようになった。
詩音はみるみるうちに弱っていった。
「あのね、大腸摘出手術を受ければよくなるかもしれないんだって」
「本当か!?」
「でも、リスクもあるの。大腸摘出手術のことは癌があるって知らされた時に一緒に説明されたんだけど、ほら、私この怪我した時の手術で体力落ちたでしょ?」
「…………手術をするための体力がないってことか?」
「そう。体力つけて手術を受けようと思ったけど、ダメね。また落ちちゃった」
「どうすれば……」
「リスクを覚悟に手術を受けるか、自己回復能力が見込めないので抗癌剤を服用するか。それとも何もしないか」
本人は平気を装っているが現状は絶望的であった。
手術を受けるのであればもっと早く受けるべきだった。
詩音の容体が悪化した日にすぐにでも受けるべきであった。
薬の使用は副作用で苦しいと聞いた。
むしろ、末期癌と診断された詩音には薬を出されないかもしれない。
可能性があるとすればやはり、手術なのではないか。
「医師は何て言っているんだ?」
「少しでも可能性があるのは手術だって。でも私の体力がもつとは到底思えないし、癌は他の臓器にもあるから延命に繋がるかわからないだって。普通ならもう手の施しようがないってやつだよ」
「……でも……それでも可能性があるなら!」
「うん……そうだね。もう苦しいのはいや」
「頑張ろう。ちゃんと治して、一緒に住もう」
「ふふ、こんな時にプロポーズしちゃうんだ。もっとシチュエーションとか考えなかったの?」
「悪いな。そんなこと考えられるほど俺は頭が良くないんだよ」
「んふ、それは知ってる」
「あ、そこは少しでも否定してくれても良いじゃないか?」
「嘘はダメよ」
「お世辞でも良いから!」
「だーめ」
「えぇ……」
「……ねぇ、海音」
「ん? どうした?」
「……ぎゅって抱きしめて」
「あ、あぁ」
それは詩音が初めて口にした言葉だった。
後にも先にも抱擁を口で求めたのはこれが最後である。
「まだか?」
「私が寝るまで。なーに? 私とハグするのが嫌なの?」
「馬鹿やろう。起きるまで抱き着いててやるわ」
「……うん、ありがと」
詩音はすぐに眠りについた。
気持ちよさそうに寝ており、今日は腹痛で寝れないということはなさそうだ。
「すー……すー……」
細い腕につなげられた点滴。
左腕、両足に巻かれたギプス。
白くなった肌。
痩せて軽くなった身体。
動かない足に全身を蝕む病。
そんな状況になっていても彼女は生きようとしていた。
彼女は自分を応援する者に対して平気そうに振る舞っているが、俺は夜な夜な泣いていることを知っている。
彼女は誰よりも強く生きようとしている。
俺はそんな彼女に何かできるだろうか。
彼女なら一緒にいるだけで良いと言うだろう。
本当にそれ以外に何かできることはないのだろうか。
「………まぁ、今は起きるまで隣にいてやるよ」
「すー……すー……」
静かな部屋。
適切な温度、湿度。
俺まで寝てしまいそうだ。
それから二日間、症状は比較的落ち着いていた。
せき込むことはあったが、血を吐く回数は少ない。
腹痛もそれほどひどくもなかった。
顔色も少しはよくなり、ご飯を食べても吐くことはほとんどなかった。
手術をするのなら今だ。
「手術、早くて三日後だって」
「受けるのか?」
「うん、頑張る」
「そうか。それまでに少しでも体調良くしておかないとな」
「うん、いっぱい食べて、いっぱい寝る。そして、いっぱい甘える! んっ!」
「おう、なんでもやってやる。それに、明日から少し休みを貰ったから朝から来てやる」
「え、仕事は大丈夫なの?」
「大丈夫大丈夫。家族になりそうな人が頑張ってるんです! って言ったら簡単に休みをくれたわ」
「ふふ、退院したら一緒に住もうね?」
「おう!」
そして、手術当日。
手術までの三日間の詩音の体調は良くも悪くなくといったところだろう。
医師の話では詩音の体力さえもてば手術はほぼ確実に成功するらしい。
手術にかかる時間は三時間から四時間。
それまで詩音がもってくれれば大腸の癌については少し安心といった感じだろう。
「じゃ、行ってくるね」
「あぁ、頑張って来いよ」
「ふふ、どう頑張ればいいんだろうね。生きたいって意志でも持ってればいいのかな?」
「わかんね! 俺バカだからそういうのはわかんね!」
「そうね……海音バカだものね……」
「おい」
自分のバカさ加減は俺が一番良く知っている。
だが、やはり少しぐらいは否定しても良いのではないだろうか。
「詩音……」
「お母さん、お父さん」
「頑張って来るのよ」
「頑張るんだぞ」
「うん、海音一人じゃこの先心配だもの。そう簡単には死ねないわ」
「そうだね。海音君には詩音が必要だものね」
「あぁ、そうだな」
「うん! ……それじゃ、行ってくるね」
「あぁ、絶対帰って来い」
「当たり前じゃん!」
その時の詩音はいつも以上に笑顔だった。
手術で癌が良くなると思っての笑顔だったのか、それとも他の者を心配させまいという笑顔だったのかわからない。
ただわかることは、俺はこの時の詩音の笑顔をずっと忘れないということだ。
「またね」
そう言って詩音は手術室へ消えていった。
手術中という文字が光り、詩音の両親と一緒に椅子に座って待った。
俺達は言葉もなく、ただただ手術が無事終わることを願う。
最悪なことを考えないように、必死に前向きに考えた。
この手術が終わったら何か買ってやろう。
何が良いだろうか。
やはり女の子だからアクセサリーとかが良いだろうか。
ネックレスだろうか。
ブレスレットが良いだろうか。
……いや。
まずは指輪を買おう。
それで、俺の両親に話をして詩音と籍を入れよう。
体調が良くなったらドライブをして海でも行こう。
それで二人で海に沈む夕日を見て、語ろう。
思い出を。
これからを。
二人で笑顔で語ろう。
そんな前向きで明るいことを椅子で考えていた。
額に手を当て、その両手を強く握り締めて顔を伏せる。
考えていることとは裏腹に身体は恐怖で震えていた。
恐怖に負けないように無理やり前向きに考えていたのだ。
大丈夫。
きっと大丈夫だ。
良くなる。
きっと良くなる。
あんなに元気で強く生きようとしていたのだから大丈夫だ。
詩音なら大丈夫だ。
何時間その椅子で震えていたのだろうか。
ふいにキィ……という音が聞えた。
顔を上げると、手術中という文字の明かりは消え、医師が部屋から出てくるところだった。
その医師の表情は暗く、厳しそうな顔をしている。
察した。
止めろ。
何も言うな。
聞きたくない。
「残念ながら…………」
俺の心の準備が整う前に医師は口を開いた。
それを聞いたのと同時に詩音の母親が崩れた。
廊下には鳴き声が響き、悲しみが充満する。
「詩音っ!」
入口にいた医師を押しのけ、部屋の中へと入った。
そこにはいつもと変わらない表情で寝ている詩音がいた。
眠気眼をこすりながら今にも起きてきそうなほどに普通な顔で眠っている。
だが、まわりの看護師達は悲しそうな顔をし、俺に申し訳ないような顔をしやがる。
「おい、詩音!」
触れる詩音は暖かった。
だが動かない。
「詩音……起きてくれよ……なぁ!」
ピクリとも動かないまぶた。
細く力なくだらりとした腕。
上下に動かない胸。
寝返りをうたない身体。
大好きだった声が聞けない。
大好きだった体温を感じれない。
大好きだった笑顔が見れない。
大好きだった仕草が見れない。
小学生の時から大好きだった。
そんな大好きがいなくなってしまった。
十月十一日午後五時十八分、寒くなり始めた季節に詩音は帰らぬ人となった。
「ぅぐっ…………」
詩音の身体から徐々に体温が失っていく。
俺はそんな詩音を抱きしめ、声にならない声をあげながら泣いていた。
どのくらい泣いていただろうか。
詩音の両親が俺の肩を抱き、待っていた時に座っていた椅子に俺を移動させた。
これから葬儀の準備がある。
いつまでも俺を泣かせておくわけにはいかなかったのだろう。
しかし、俺はその椅子でずっと泣いていた。
涙は枯れず、ずっと泣いていた。
それからどうなったのかはあまり覚えていない。
病院で泣いていたはずが、自分の部屋で寝ていた。
通夜があり、葬儀があり、火葬があり、詩音はいつの間にか白い塊だけになってしまった。
俺は無気力になり、仕事もまとも出来ないような日々が続いた。
仕事は休暇をもらい、家で生きているのかわからない生活が続く。
生きていた頃の詩音のことで頭がいっぱいになり、泣く。
泣き疲れて寝たらまた泣く。
わりとあった筋肉も衰え、俺はやつれ、痩せていたという。
だが、そんな日々も1週間で終わった。
詩音の母親が俺を呼んだ。
「これは……詩音の作品ですか?」
「作品……というよりかは手紙かしら」
「手紙……?」
詩音の母親が渡してきたのは詩音が書いた原稿だった。
詩音のいつもの綺麗な字ではなく、急いで書いたのか殴り書きのように見える。
詩音が書いた原稿は俺が全て読んだはずだが、それは見たことのない題名だった。
「『私は詩音』? これが手紙なんですか?」
「そう。少し読んでみて?」
「あ、はい」
その作品の最初はこう書かれていた。
私の名前は詩音。
いつ自分の名前が詩音というのかを知ったのかは覚えてない。
ただ、それより前に自分の横に暖かい人がいたのは覚えてる。
その人の名前は海音君。
私の大好きな人。
大好きな顔。
大好きな表情。
大好きな大きな手。
大好きな背中。
大好きな匂い。
大好きな温もり。
大好きな声。
海音君の全てが好き。
これは私詩音が死ぬまでずっと大好きな海音君のことを思い続けた記録。
それから小学校に入るまでの記憶、小学校の記憶、中学校の記憶と詩音が過ごしてきた中での想いが書いてあった。
いかに俺のことを思っていてくれたのか十分すぎるほどにわかった。
俺は一ページ目が終わる頃には泣きはじめ、原稿に詩音の涙の痕を見たときには号泣していた。
だが、それは悲しみからだけではない。
悲しみもあったが嬉しかったのだ。
俺が知らなかった詩音の気持ちを知ることもできたし、何よりもこの作品からは詩音の優しさと温かさを感じれて嬉しかった。
ぽっかりと空いてしまっていた俺の胸は読み終わる頃には満たされており、何日ぶりかに笑うことができた。
最後には書き終えた時間が記してあった。
十月十一日午前六時四十七分、完結。
手術当日の朝に詩音は書き終えたのだ。
詩音は死ぬ覚悟をしていたのだろう。
死ぬ覚悟をして、手術の前のあの笑顔か……
詩音、お前は強いな。
それとな、詩音。
これはお前の作品の中で一番の出来だ。
これまで、様々なジャンルを書いてきては納得できないような顔をしていたな。
小学校の頃引きこもったのは、現実が嫌になったから小説の物語に入り込むことで逃げていたとも言っていたな。
だがな、詩音。
皮肉なことにその嫌いな現実のお話がお前の得意分野のようだぞ?
そりゃ不得意な分野で書いても満足できないよな。
でも、良いじゃないか。
こうやって、最後に最高の作品を完成することができた。
少しは満足できただろ?
もしかして、手術前のあの笑顔はもうやり残すことがないから、あんな笑顔になれたのか?
まったく、そこも書いてもらわないとバカな俺にはわからないぞ?
「ずずっ……すみません泣いてばかりで」
「ううん、それだけ詩音のことを思ってくれてるんだもの。私が言うことは一つよ。ありがとう」
「そんな……あいつには何もできなかった……」
「そんなことないでしょ? そこに書いてある通り、海音君は詩音に沢山どころか、全部をしてくれたんじゃない?」
「……そう言ってもらえると助かります」
「ふふ、私は事実しか言ってませんよ?」
「……ありがとうございます。……あの」
「うん?」
「これを本にしても良いですか?」
「本に?」
「はい。出版社には持っていかず、自費出版をしたいんです」
「でも……お金かかるでしょ?」
「それは大丈夫です。俺、仕事始めてから貯めておいたのがありますので」
「ダメよ! それは何かあった時のためのお金でしょ!」
「いえ、その何かあった時が今なんです。大丈夫ですよ、大した額ではないですし、また働けばいいんですから」
「でも……」
「詩音という女性がいたことを知ってもらいたい。それに出版はあいつの夢でしたから」
「……そうね。あの子も喜ぶわよね……うん、お願いするわ」
「はい、任せてください!」
それからすぐに本を作り、近くの大きな本屋さんに置いて貰えることができた。
本は徐々に売れ始め、最初に用意した部数は一ヶ月もたたない間になくなってしまった。
詩音の家には本の感想も届いたりしている。
これからもっと売れるだろうか。
俺はというものの、無事に仕事に復帰することができ、忙しい毎日を送っている。
これからどうなるのかはわからない。
まだ相手もいないが、違う人を愛し、結婚し、子供ができるのだろうか。
まったく想像も出来ないが、詩音の最後の言葉の通りになりそうで怖い。
いや、そうしないと詩音は怒るのだろうな。
大好きな海音君へ。
泣いてないで、ご飯を沢山食べなさい。
そして、バリバリ働いてください。
私のことは忘れて。
とは言わない。
忘れないよね。
忘れられないと思う。
それだけ私のことを愛してくれたものね。
でも、他の人を好きになって、愛して、幸せにしてあげて。
海音君のことが大好きだけど、これを読んでる頃には私はいないのだから。
せめて、私の分ぐらいは幸せになってね?
あ、幸せだったんだから今のは間違いだね。
私が今後幸せになる予定だった分も幸せになってね?
うん、これが正しい。
結婚して、子供を作って、親子喧嘩して、孫の笑顔を見るまで長生きするんだよ?
約束だよ?
約束を守れないでこっちに来たら怒るんだから。
海音君。
私は幸せでした。
海音君と同じ日に生まれて幸せでした。
だから、絶対海音君も幸せになるんだよ?
色々言いたいことはあるけど、海音君ならわかるよね。
わからなかったらこっちに来た時に怒りながら教えてあげる。
それじゃあね。
また会おうね。
『私は詩音』最後のページより。
詩音が最後に書き上げた本を閉じ、空を見上げた。
詩音はあの空よりもっと上にいる。
詩音、もう少しだけ待っていてくれ。
俺がいつかそっちに行くとき、詩音には土産話を持っていく。
百年分くらい持っていけば詩音も満足か?
いや、お前は甘えん坊だもんな。
むしろそんなに長生きしたら遅いって怒るかもな。
そんなこと言って来たら笑顔で謝るけどさ。
お前ならすぐに許してくれるよな?
お前はそういう奴だからな。
俺が今お前に伝えたいことは二つだ。
詩音、俺の幼馴染でいてくれてありがとう。
そして、またな。




